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〝駅に行く途中で事故を見かけて。その……猫が、車に轢かれてたみたいで……〟
遥香ちゃんの言葉が脳内から離れない。……もし、事故にあった猫がヤマトだったらどうしよう。その不安ばかりが渦巻いて、午後からは仕事にまったく集中出来なかった。おかげで明日までの資料が未完成となってしまい、私は一人オフィスで残業中だ。
カタカタとキーボードを打つ手を止めて溜息をつく。時刻は午後八時を過ぎた所。私は引き出しを開けて買い置きしていたエスポワールの手作りクッキーをつまむ。この時間に甘い物は厳禁だけど、脳が糖分を欲している今だけは許可しよう。バターがたっぷり染み込んだ甘いクッキーを食べていると、あんまり無理しないで下さいね、早く帰ってちゃんと寝なさいよ、と私を気遣ってくれた二人の顔を思い出した。……二人には心配と迷惑をかけてしまったなぁ。橘さんの言う通り、私は周りに恵まれている。私は気合を入れ直して、パソコンの画面と向かい合った。
*
ようやく資料が出来上がったのは、十時半を過ぎた頃だった。長時間同じ姿勢でバキバキに固まった体を伸ばす。ブルーライトを浴びて疲れ切った目のままスマホで掲示板やSNSをしらみつぶしに当たっていくが、昨日起きた事故や迷子の黒猫についてめぼしい情報は見つからなかった。
駅までの道のりをとぼとぼと歩く。この時間になるとさすがに人通りは少ない。駅に着けば私と同じ残業組のサラリーマンやOL、飲み会帰りの若者なんかが居るんだろうけど、それ以外はひっそりと静まり返っている。
確か遥香ちゃんはこの辺で事故を見たって言ってたっけ。私は横断歩道の前で立ち止まり、キョロキョロと周囲を見渡す。片付けられたのか、事故の跡は残っていないようだ。
ガサ、ガサガサガサ
道路沿いの茂みの中から、何か動物の動くような音がする。何だろうとじっと見ていると、草の間から黒い尻尾がぴょこっと飛び出した。
「……ヤマト?」
私は反射的に言った。その声に答えるかのように、黒い影がサッと目の前を横切る。赤い首輪がチラリと見えた。
「あっ、ちょっ、待って!!」
私は叫ぶと慌ててその後ろを追いかけた。あの首輪は間違いない、ヤマトだ! 私はとにかく追いかける。必死に走っていくと、いつの間にか人気のない公園に辿り着いた。足を止めて周囲を見渡すけれど、猫の姿は見当たらない。……どうやら見失ってしまったらしい。
私はぜぇはぁを通り越してヒューヒューと鳴っている荒い息を整える。やっばい、完全に運動不足だ。
呼吸が落ち着いたところで、公園内を歩いてみる事にした。鉄棒やブランコなどの懐かしい遊具は、昼間の喧騒が嘘のようにひっそりと寂しそうだった。
(…………あれ?)
私はふと立ち止まる。公園のトイレの前にゆらりと揺れる人影を見つけたからだ。
電球の切れかけた外灯に照らされる、怪しい男。服装は上下黒のジャージとスニーカー。黒い帽子を深く被り、口元には顔を隠すように大きめのマスクをしている。足元には赤いポリタンク、その手にはライター。ま、まさかこの人……火をつけるつもりなの!? 気付いた瞬間、ぞわりと鳥肌がたった。
(ど、どうしよう……とりあえず警察!)
私は動揺しながら画面を操作する。しかし、恐怖で震える両手は上手く動いてくれず、白いスマホは反発するようにするりと滑り落ちた。
カシャン
人のいない公園では、わずかな音でも良く響く。バッと勢いよく振り返った男の血走った目と、恐怖で見開いたままになっている私の目がパチリと交わった。
……ヤバイ。これは本気でヤバイ。
脳は早く逃げろと命令しているのに、体はそれを拒否するかのように動かない。心臓は破裂しそうなほどうるさいのに、手足は冷え切っている。きっとどこかで回線が切れてしまったのだろう。
最初こそ驚いていた様子の男だったが、私が女で一人きりだという事が分かったのだろう。三日月型に目を細めると、低い声が響いた。
「なぁ、お前も燃えてみる?」
ヒュッと息を呑んだ。男はポリタンクを持ってゆらゆらと近付いてくる。
「……っ、…………あ、」
喉の奥に何かが詰まっているかのように声が出ない。絶体絶命、大ピンチというやつだ。私なんか狙われるはずないと高を括ってないで、防犯ブザーなんかを持ち歩くべきだった。そんな後悔を思い浮かべながら目を閉じる。死を覚悟した瞬間だった。
「何してる!」
「ぐっ!」
聞き慣れた声に次いで耳を揺らすのは、何かを殴るような衝撃音とズザザザと砂に倒れ込む音。そして苦しそうな呻き声。
「おいっ、大丈夫か!?」
驚いて目を開くと、酷く焦ったような顔をした男性が駆け寄ってくる。
「…………た、ち……ばな……さん?」
彼の名前を呼ぶ。ようやく出た声は情けないほど弱々しく、かすれていた。
「大丈夫だ。警察も呼んだからもうすぐ来るはずだ。怪我はないか?」
「は、はい」
「そうか。……良かった」
ふぅ、と息を吐き出した橘さんの額には汗が浮かんでいる。もしかして急いで駆けつけてくれたのだろうか。でも、どうしてここに?
「……な、んで」
「あ? ああ。コイツがうちに来て教えてくれたんだよ」
「ニャーオ」
タイミング良く、鳴き声を上げて心配そうにすり寄ってくる一匹の黒猫。
「……ヤ、ヤマト!?」
私は驚いて黒猫を抱き上げた。艶のある黒い毛並み、金色の瞳、赤い首輪。間違いない、これはずっと探していた黒田ヤマトだ。
「そいつが血相変えて飛び込んできたんだ。いつもより慌てた様子で毛も逆立ってて。これはただ事じゃないと思って走って来てみたら、いかにも怪しい男があんたに近付いてく所が見えて……。そこからはもう無我夢中だった」
橘さんが苦しそうに顔を歪める。
「……っ……た」
「え?」
「あんたが無事で……本当に良かった」
ふわり。甘くて優しい匂いに包まれる。気付いたら橘さんの胸の中だった。腕はしっかりと私の背中に回され、すっぽりとヤマトごと抱きしめられている。心地良い熱が体を解かすように全身に伝わり、さっきまでの震えは嘘のように止まった。
橘さんはバッと体を離して両肩を掴むと、鋭い目をいつも以上につりあげ、私に向かって叫ぶように言った。
「大体な! あんたはこんな時間にこんな所で何やってんだ!! しかも一人で!! 危ないだろ!?」
「あ、ね、猫を……探してて」
「猫って……コイツか!? それなら昼間探せ! この時間はやめろ!」
「す、すみません」
「今回は俺が来れたから良かったものの! 下手すりゃ殺されてたかもしれないんだぞ!?」
「は、反省してます」
橘さんのド正論が突き刺さる。
「まぁまぁ、重苦しい説教は後にしなよ。今は怖い思いして不安なんだからさぁ」
橘さんの後ろからひょっこりと顔を出したのは片桐さんだった。
「……か、片桐さん?」
「やぁ高瀬さん。無事で何よりだよ。あ、とりあえず地面でダウンしてた不審者は縛っておいたから安心してね」
彼は私を落ち着かせるように柔らかい笑顔を浮かべながら言った。どうやら片桐さんまで駆けつけてくれたらしい。そういえばエスポワールはこの近くだ。
「俺は別に怒ってるわけじゃなくて、」
「はいはい、心配で心配で堪らなかったわけね。不器用なのは知ってるけどさぁ、こんな時ぐらい優しい言葉かけるとかしなよ。あんな怖い思いしたんだからさぁ」
二人のやり取りに安心したのか、今頃になって急に涙が出てきた。
「き、来てくれてありがとうございました。そうじゃなかったら、わたし……」
「えっ!?」
ぽろぽろと流れ落ちる涙に、橘さんは珍しく動揺しているようだ。
「ま、待て、泣くな!」
「あ〜あ。やまとが高瀬さん泣かせた〜」
「違う! 俺じゃない!」
「え?」
やまと……? 私は腕の中の黒猫を見る。ヤマトは黄金の瞳を丸くさせ、橘さんの方をチラリと見ていた。
「高瀬さん、今のはそっちじゃなくて──」
「片桐!!」
橘さんが焦ったように言葉を遮る。キョトンとした顔の片桐さんはそんな彼の様子を気にせず、あっけらかんと言った。
「あれ? もしかしてまだ言ってなかったの? 黒田ヤマトの飼い主、タッチーこと橘大和くん」
「……え?」
パトカーのサイレンが近付いてくる。あまりの衝撃的な発言に、私の涙はピタリと止まっていた。




