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……失敗した。
私は部屋の隅で頭を抱える。なんであんな不自然なタイミングで店を出てしまったのだろう。出るにしてももうちょっと上手くやれたはずだ。あまりにも動揺してしまって判断を誤ってしまったのだ。
動揺、そう。私は動揺した。橘さんに片思いの相手がいると知って。橘さんと親しげに話す綺麗な女性を見て。どうして……どうして私はこんなに動揺してしまったのだろう。あーもう。今は黒崎さんのことでも頭を悩ませてるっていうのに。私は体の中のモヤモヤを出すように深く息を吐く。そんな私の様子に気付いたのか、ヤマトが慰めるように鳴き声を上げた。……可愛すぎる。天使か。
「おいでヤマト」
私の呼び掛けに答えるように、ヤマトは静かに近付いてくる。ちょうど私の隣に座ると、ペロペロと毛繕いを始めた。私はヤマトを撫でながら、首輪からメモを取り出す。
Rさんへ
突然すごい質問ですね……笑
僕だったら、好きな人がいるなら断ります。い
ないのならそうですね……。悩みますが、自分
の気持ちに素直になると思います。
きっかけは何であれ相手に恋愛感情を持てば付
き合うと思いますが、そういう感情がないなら
断ります。その方との関係性によっては断りづ
らいかもしれませんが、好きでもないのに付き
合うなんて相手に失礼なので。
かえってきた手紙を読むと、私は自然と笑ってしまった。だってすごくYさんらしいなと思ったのだ。真面目で、頑固で、真っ直ぐで、正しい。
ふと、このやり取りを始めた頃を思い出した。何度も指輪を破棄しろと言ったのに了承してくれなかった、あの頃を。
……そうだ。この人ならきっと、こんな風に迷う事なく自分の気持ちを認められるんだろうなぁ。
「どうしようヤマト。私、ずっと自分の気持ちに気付かないふりしてたのに。それなのに……」
はぁ、と溜息をついてヤマトの頭を撫で続ける。
「だってさぁ、ぶっきらぼうなのに優しい所とかさりげなく助けてくれる所とかたまに見せる笑顔とか……そういうのって反則だと思わない?」
仕事が終わった時、会えなくなるのが寂しいと思った。エスポワールで話しかけていいって言われて、嬉しかった。可愛げがない私のことを否定して励ましてくれた時、胸が震えた。何故か。そんなの決まってる。
「好きな人がいるならあんな風に優しくしないでほしい。じゃないと勘違いしちゃうから」
テーブルに置いてあったチョコレートを一粒口に入れる。
「……私はね、もう傷付くのが嫌なのよ」
甘いはずのそれは何故かほんのり苦かった。私はメモ帳を一枚破り、しばらく向かい合う。
Yさんへ
突然変な事聞いてすみません。
Yさんの意見、とても参考になりました。
また変な事を聞きますが、もし好きな人に
ここまで書いて、私はペンを置いた。次の文字を書こうとすると、私の頭には眉間にシワを寄せた不機嫌顔が思い浮かぶ。消して書いて破って書いてを繰り返し、ようやく完成したそれを急いで折りたたむ。
Yさんへ
突然変な事聞いてすみません。
Yさんの意見、とても参考になりました。
申し訳ありませんが、また変な事をお聞きしま
す。
あなたは今、好きな人がいますか?
いつものように首輪のポケットに入れると、そのままパタリと机に伏せた。
なんて返事が来るんだろう。早ければ明日、遅くても一週間後ぐらいには分かっているはずだ。手紙の返事を待たせている間でも、ヤマトはちょこちょこ家に来ている。
しかし、私は彼の答えを知る事は出来なかった。
この手紙を最後に、ヤマトは忽然と姿を消してしまったのだ。




