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どれくらいそうしていただろう。
のっそりとした動作で膝に埋めていた顔を上げる。室内は相変わらず真っ暗だ。狭い玄関先で体育座りをしながら号泣していたなんて……。いや、でも。号泣したのがアイツの前じゃなくて良かった。こんな惨めな姿、絶対見られたくないもの。
私はようやく重い腰を上げ、あちこちに散らばった鞄の中身を拾いながら短い廊下を歩いた。その足でキッチンに向かい、食料のあまり入っていない冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターを取り出して一口飲むと、カラカラに渇いた体に水分が浸透していくのを感じた。
そろそろ買い物に行かなくちゃいけないなぁなんてぼんやりしながらキャップを閉めると何かの光が目に入った。その正体は嫌でも判明する。
…………左手の指輪だ。
自分の眉間にこれでもかと言うほど力が入った。
数時間前まで幸せの象徴だったそれは、今では不幸の象徴、いや、まさに不幸そのものになってしまった。私を嘲笑うかのようにキラキラと輝きを放つダイヤが酷く滑稽だ。
私は薬指ごと取れそうな勢いで忌々しいその指輪を引き抜いた。こんなものっ! こんなものっ! 遠い遠い遠ーいところに投げ捨ててやるっ!!
大リーグのエースピッチャーばりに大きく振りかぶったまさにその瞬間だった。
ガリガリガリガリ。
窓硝子を引っ掻く耳障りな音が聞こえてきたので、私は仕方なくその腕を下ろした。
音のするベランダにのろのろと近付いて行って、そっと窓を開ける。
「ニャア」
そこには、見慣れた一匹の黒猫が澄まし顔でちょこんと座っていた。月明かりに照らされながら長く伸びた尻尾をゆらゆらと左右に振っている。私の姿を捉えると、挨拶代わりに小さく鳴き声をあげた。
「こんばんは、ヤマト」
私もしっかり挨拶を返す。撫でてやろうと伸ばした手は見事にスルーされ、ヤマトはのんびりと毛繕いを始めた。うう……冷たいやつめ。行き場をなくした右手を私はしぶしぶと引っ込める。
この黒猫は〝ヤマト〟いう名の野良猫だ。
まぁ、私が勝手にそう呼んでるだけなんだけどね。彼とは私がこのマンションに来た時からの付き合いなので、出会ったのはもう二年以上前になるだろうか。
ある晴れた休日、ベランダに居た黒猫にほんの気まぐれで餌をあげたのがきっかけだった。餌と言っても大したものじゃない。酒のつまみで買った鳥のささみを解してベランダにちょっと置いただけだ。
痩せ細った小さな身体で、警戒心剥き出しに鋭い眼光を向けてくる黒猫。それでもよほどお腹が空いていたのか、私を睨みながら必死に餌を食べ始めたあの姿を今でもはっきりと覚えている。
それからだ。黒猫は味をしめたのか、時々私の部屋を訪ねて来るようになった。私も私で来るたびに餌をあげていたものだから、黒猫の訪問頻度は上がる一方だ。黒猫にとってここは格好の餌場になったのだろう。
懐いてくると愛着が湧くもので、ついには名前まで付けて可愛がるようになり、今では来ない日の方が心配になるほど私の日常にすっかり溶け込んでしまっている。
「……いいもん。私にはあんたがいるから」
私が呟くとヤマトはこてんと首を傾げてこっちを向いた。ああ、癒される。
本当は飼い猫にして可愛がりたいのだが、非常に残念な事にこのマンションはペット禁止なのだ。だから大家さんにバレないよう、こっそりと餌を与える事しか出来ない。もちろん近所迷惑にならないよう、食べ残しや糞尿の片付けもきちんとやっている。まぁ、自慢じゃないがヤマトは賢い猫なので粗相は滅多にしないんだけどね。
その証拠に、私の部屋に来た時は鳴き声をあげず、代わりに窓硝子をガリガリと掻いて合図を送ってくるのだ。
ニャアと鳴かれたら周りに言い訳出来ないが、物音ぐらいならどうにか誤魔化せる。その点は助かっているけれど、黒板を引っ掻いたようなあの不快な音には少々困り気味だ。まぁ、今ではだいぶ慣れたけど。
あの音が聞こえたら餌を持ってベランダに向かうのがすっかり習慣になってしまった。……そういえば今日はまだヤマトに何もあげてない。あ、だからちょっと態度が冷たいのだろうか。早く餌持って来いって? ……もう。こっちはそれなりの愛情を持ってあんたと交流してるっていうのに、薄情者め。
「ニャア」
ヤマトは催促するようにもう一度小さな声で鳴いた。二年も経てば当然餌の質も良くなり、ヤマトの現在の餌は鳥ささみから大手メーカーのキャットフードにランクアップしている。甘やかしている自覚はあるが、この子が可愛いから良いのだ。さて、戸棚の中に買い置きしてあるキャットフードを取りに行かなくちゃ。
「はいはいわかりましたー。今取ってくるから大人しく待って……あれ?」
見慣れたはずのヤマトの黒い体に、見慣れない赤い物体。…………何これ。えっ!? ま、まさか……!!