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外の空気はひんやりとしていて気持ち良い。夜空を見上げると、細めた猫の目のような三日月が浮かんでいた。
そういえば、この仕事が終わったらこうやって橘さんと顔を合わせる事も話をする事もなくなるんだなぁ。そう考えるとなんだか急に寂しくなった。
「……今日で終わりなんですね」
「何がだ?」
「仕事ですよ。よく考えればみんなとこうして会えるのは今日が最後だったんですよね。忙しかったけど楽しかったなぁとか良い作品が出来上がってよかったなぁとか思ってたらなんだか寂しくなっちゃって」
カツン、カツンと歩く早さに合わせてヒールの音が鳴り響く。
「短い期間でしたけど一緒に仕事が出来て楽しかったです。橘さんには最後まで迷惑かけっぱなしで……すみませんでした」
「謝らなくていい。俺は迷惑だなんて思ってない」
「本当ですか?」
「ああ。それに、あんたには感謝してるんだ」
橘さんはそう言って後ろを振り返った。予想外の言葉に、私はきょとんとした顔で首を傾げる。だって、どう考えても橘さんに感謝されるような心当たりは一つもない。
「わ、私に? そんな覚えはまったくないんですけど……」
「あんた、俺の作ったスイーツを食べて元気が出たって。大好きだって、そう言ってくれただろ?」
それは、確かに私が言った言葉だった。今回の件をお願いした時に言った、私の本心。
「俺は無愛想で口下手だから、昔から色んな人に怖がられてた。目付きも悪いから尚更な」
橘さんは私を見つめたまま続ける。
「うちの実家はケーキ屋で、父親はパティシエだった。残念なことに父親も俺と同じような顔と性格で、客からはかなり怖がられてた。でも、父親の作るケーキはすごく優しい味がして、人気があった」
「優しい味、ですか?」
「ああ。あの強面からは想像もつかない、心があったかくなるような優しい味だ。なんでこんな風に作れるんだろうって考えて……気付いたんだ。このケーキには、父親の気持ちが込められてるんだってことに。何も言わなくても、食べた人にはちゃんと気持ちが伝わるんだってことに」
橘さんの鋭い目付きが、少しだけ下がった。
「だから俺もパティシエになりたいって思ったんだ。普段言えない言葉の代わりに、美味しいお菓子で自分の気持ちを伝えたい。これを食べたみんなを幸せに、笑顔にしたいって思ったから。……正直、最初にあんたから話を聞いた時は断ろうと思った。宣伝に使うだけならどれでもいいだろって。どうせ誰も食べてくれないんだから、俺の気持ちは伝わらないだろって」
「…………」
「でも、あんたは言ってくれた。俺のスイーツを食べて笑顔になる人がもっと増えてほしいって。そのきっかけになりたいって。あんたがそう言ってくれたから、俺はこの仕事を引き受けたんだ」
「そんな……私は何も」
「俺は、あんたの言葉がただ単純に嬉しかったんだ」
そう言って、橘さんは今まで見た事のないやわらかい笑顔を見せた。心から嬉しそうな笑顔に思わず見惚れてしまった。……どうしよう、顔が熱い。今の私は絶対誰にも見せられない状態になっているだろう。外が暗くて助かった。
「ここだ」
いつの間にか駐車場に着いていたらしい。橘さんは黒のセダンのドアを開け、運転席に乗り込む。
「乗っていいぞ」
「……失礼します」
「あんたの家、右と左どっちだ」
「あ、右です」
車はゆっくりと動き出す。音楽も何もかけていない車内は静かで、少し緊張してしまった。
「……さっき、今日で終わりだって言ってたけど。あんた店に来るだろ?」
「え?」
「職場の奴らは仕事に行けば会えるし、écranは取引先だから依頼があれば会えるだろ。それに、あんたはうちの店の常連だ。片桐は接客もやってるし、会いたきゃいつでも会える。仕事が終わっても、別に会えないわけじゃない」
確かにエスポワールに行けば片桐さんには会える。彼の性格からしてきっと何か話しかけてくれるだろう。それはとても嬉しい。……でも。
「……橘さんには?」
「は?」
「お店に行っても橘さんには会えないじゃないですか。厨房にこもりっぱなしじゃ見掛けることも、ましてや話なんて絶対出来ないじゃないですか」
「……おい。俺はそれをどう解釈したらいいんだ」
「え?」
右手で口を覆いながら橘さんは私を睨み付けていた。そこで初めて自分の失言に気付いた。な、何言ってるんだろう私! これじゃあまるで私が橘さんに会いたいみたいじゃないの!
「べ、別に深い意味はないです! 全然! まったく!! なにも!」
慌てる私を見て橘さんは小さく「そうか」と言っただけだった。
「……店に来たら話しかければいいだろ」
「え?」
難しい顔をした橘さんが前を向いたまま言った。どうやらさっきの話の続きらしい。
「……話しかけてもいいんですか?」
「ああ」
「でも、橘さんいつも厨房とか奥の部屋にいるじゃないですか」
「中に入ればいいだろ」
「そんな簡単に……だって関係者以外立ち入り禁止でしょう?」
「そんなの片桐に許可取れば問題ない」
そりゃあ、片桐さんに言えば通してくれそうだけど。部外者の私がそんな気軽に出入りしていいのかな?
「あんたが来た時は顔くらい出す。だから会えないわけじゃない。……大体、あんただってうちに来なかった時期があっただろ?」
「え?」
「常連だったからな。覚えてたんだよ。その……大丈夫なのか?」
どこか気まずげな態度と気遣うような口調に、私はエスポワールに行けなくなったあの失恋劇を思い出した。ああ、やっぱりそうだったのか。そりゃ、狭い店内であんな風に揉めてたら従業員みんな知ってて当然だよね。聞きたくなくても聞こえるだろうし。私はふっ、と笑みを浮かべる。
「ああ、あれですか。平気です。自分でも驚くほど何の未練も残っていません」
これは強がりではなく本心だった。たぶん、彼への気持ちは失恋したあの日、涙と一緒にひとつ残らず流れ出たのだろう。あの人のやった事は確かに許せないけど、最早どうでもいいという気持ちが強いし。
「……そうか」
「ははっ、きっとこういう所が可愛くないんでしょうね。あの人にも言われました。私は弱音も吐かないし頼りもしないし可愛げがないって」
私は自嘲気味に笑う。これが可愛げのある女性なら、まだ未練が残っているとか別れてつらいとか、そういう風に答えるのだろうか。あいにく私には無理そうだ。
「いや、あんたは自分に真っ直ぐなだけだろ」
「え?」
「いつも一生懸命頑張ってるだけだ。それのどこが問題だ?」
「……え? え?」
「それに、あんたは弱音を吐かなかったんじゃない。吐けなかったんだ。あんたは自分より周りを優先するタイプだろ。だから頼りたくても頼れなかったんだ。まぁ、あんたは周りに恵まれてるからもう少し人を信用してもいいとは思うけどな」
「そんな、ことは……」
「あんたは可愛げがないわけじゃないから安心しろ。……理解出来ないその男が悪いんだ」
「っ!?」
私は動揺してしまい、何も言うことが出来なくなった。なんだかわからないけど体中が妙に熱い。そして熱い。さらに熱い。過ぎ去って行く街の景色を見る振りをして少しだけ窓を開けた。
「……橘さん、今日は珍しく饒舌ですね」
「……酒のせいだろ」
「……一滴も飲んでないってさっき言ってませんでしたっけ」
「……うるさい」
誤魔化しきれなかった橘さんの眉間にシワが寄る。我慢出来なかった私は声を出して笑ってしまった。目尻に溜まった涙を、こっそり拭いながら。




