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仕事終わりに話があるからと彼氏に電話で呼び出され、私は待ち合わせ場所である行きつけの喫茶店に向かった。
今日は金曜日。明日の休みに加えて久しぶりに彼氏に会える嬉しさから、私の足取りは非常に軽い。さっきまで背中に重くのしかかっていた疲れなんてあっという間にどこかへ吹っ飛んでしまった。
だって彼の話はたぶん、来週末に予定している『私の実家に挨拶に行く』という一大イベントについてだろうから。お互い仕事が忙しくて話し合う時間も全然取れなかったしなぁ。
左手の薬指にはめたエンゲージリングをそっと撫でる。真ん中に埋められた小さな石がその存在を主張するようにキラリと輝きを放った。
目的地のドアを開くと、私の来店を知らせる鐘がカランカランと鳴り響いた。いらっしゃいませと声をかけてくれた店員さんにニコリと笑って待ち合わせだと告げる。店内を見渡すと、彼はもう窓際の奥の席に着いて珈琲を啜っていた。どうやら私より早く着いていたみたいだ。珍しい。
私は手作りのケーキや焼き菓子が飾られているショーケースを覗く。ここにはいつも可愛くて美味しそうなスイーツが綺麗に並べられているので、こうやってチェックするのがすっかり癖になってしまった。その美味しそうな見た目に心を奪われ、ついつい買ってしまうのは仕方ない事だろう。スイーツの誘惑には誰も勝てない。ちなみに、今日飾られているのはカラフルなマカロン、ルビーのように輝く真っ赤ないちごのショートケーキ、ナッツが乗った濃厚ブラウニー。帰りにテイクアウトで買って行こうと決意しながら、彼の元へ向かう。
「お疲れ様! ごめん、少し遅くなった」
「あ……ああ、お疲れ。いや、うん。気にしなくて大丈夫だよ」
ダークグレーのスーツに身を包んだ彼はなんだかそわそわと落ち着かない様子だった。珈琲カップを見詰めて私と目を合わせようとしないし、話し方もぎこちない。……なんとなく違和感。
私は近付いて来た店員さんに彼と同じ珈琲を頼んだ。
「最近仕事はどう? 少しは落ち着いた?」
「うーん……ピークは過ぎたって感じだよ。でも明日も休日出勤だしまだまだかな。理央の方は?」
「私の方は大分落ち着いた。身体壊さないように気を付けてね」
「はは、ありがとう」
黒いエプロンを着けた先程の店員さんが注文した珈琲を運んできた。淹れたての芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。カップに静かに口を付けると、黒い液体は私の喉をごくりと通っていった。
「あ、そうだ。来週末は休み取れそう? いつ来るのかって両親がうるさくて」
そう言った瞬間、彼の顔色が変わった。
「…………ごめん」
酷く弱々しい声で呟く。
「その……実は、さ。理央に言わなきゃいけない事があるんだ」
左右に視線をさ迷わせながら暫く逡巡すると、ようやく覚悟が決まったのか、彼は私を真っ直ぐ見据えて言い放った。
「俺、他に好きな人が出来たんだ」
言うや否や、彼はテーブルを突き破りそうな勢いで頭を下げた。カップの中の黒い液体がこぼれそうに波打つ。
「え?」
「……ごめん。本当に申し訳ないと思ってる。こんな裏切るような事……本当にごめん」
「ちょっと待ってよ、どういう事?」
「本当にごめん」
彼は弱々しい口調で言い訳のような説明を始めた。
「……お前の他に好きな人がいて、その子も俺の事好きって言ってくれてて、そういう関係になって。それでその……彼女のお腹に新しい生命が宿ってることが分かったんだ」
私はヒュッと息を呑んだ。彼はそんな私の様子を気にもせず、先程とは違い力強く言い放つ。
「だから申し訳ないけど、俺との婚約は破棄してほしいんだ」
突然すぎる出来事に思考回路が完全にショートしてしまったらしい。怒りも悲しみもまったく沸いてこない。頭の中は雪原のように真っ白だ。
「俺は彼女と温かい家庭を築きたいって思ってる。大事にしたいんだ。彼女と、そのお腹の子も。だから──本当にすまない」
暖かい家庭を築きたいなんてどの口が言う。浮気相手を大事にしたいだなんて、どの口が──。ようやく脳が動き出してきたらしい。私の中でムクムクと黒い感情が湧き上がる。
随分と分厚いオブラートに包んで言ってるけど、要は浮気相手に子供が出来たからそっちと結婚したいって事でしょ? ……私より、その子の方が大事なんでしょ? だったらどうしようもないじゃない。
「……わかった」
「……えっ!?」
まさかこんなにあっさり了承されるとは思わなかったのだろう。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見つめる。情けない間抜け面だ。私はもう一度溜め息をついた。
「他に好きな人が出来たんでしょ? ずっと浮気してたんでしょ? その相手に子供が出来たんでしょ? 私よりその子と結婚したいんでしょ? それなら望み通り別れてあげるわ」
私が淡々と告げると、彼は苦しそうにぐにゃりと顔を歪めた。
「……やっぱり。お前にとって俺はその程度の存在だったんだな」
はぁ? この人は何を言ってるのだろうか。最初から別れる選択肢しか用意してないくせに。自分が被害者みたいな顔して。馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ。
「その程度の存在って何? 私はずっとあなたが好きであなたを一番大切に思ってた。でも、あなたにとっての私は浮気相手以下だったんでしょう?」
「ちがっ、」
「違うの? じゃあ私が今ここで嫌だ別れたくないって泣き叫んだら、貴方は私と結婚してくれる?」
「それは……」
彼は俯いて黙りこんだ。ほらね。何か言った所でこの状況は変えられないじゃない。結果は最初から決まってるくせに。馬鹿みたい。
「……俺さ、ずっと不安だったんだ」
小さな声で彼が続ける。
「理央は言いたい事何も言わないし、弱い所も全然見せてくれない。一緒に居てもどこか一線引かれてるみたいで、このまま結婚していいのかなって悩んでたんだ」
「……私のせいだって言いたいの?」
「そ、そうじゃなくて! ……そうじゃなくて……。俺はさ、もっと頼ってほしかったんだ。甘えてほしかったんだよ。俺に、お前の悩みを少しでいいから話してほしかったんだ」
初めて聞いた彼の本音に驚いたのは事実だ。そんなことを考えてたなんて知らなかったのだ。少しばかり唇を噛む。
「……だからって、それが浮気して良い理由になるわけ?」
「……ごめん」
「大体なんで今そんな事言うのよ。もっと早くに言ってくれれば、私だって、」
「……ごめん」
どうして彼の方が泣きそうな顔をしているのだろうか。そんな顔をしたいのは私の方なのに。襲ってくるのは虚無感だった。
ああ、二人で過ごした数年間は一体なんだったんだろう。あなたとの絆がこんなにも脆いものだったなんて。本当の本当に馬鹿みたい。もう何もかもがどうでも良い。心の底からどうでもいい。とにかく早くこの人から離れたい。私はガタリと音をたてて立ち上がった。釣られて顔を上げた彼に向かってハッキリと告げる。
「今までありがとう。金輪際会うことはないと思うから形だけでも言っておくね。私はもう関係ないから、後はどうぞ浮気相手とよろしくやって」
私は最後に表情筋を総動員して笑顔を作る。とびっきりの、最上級の作り笑顔だ。
「さようなら」
カップの中の珈琲はもうすっかり冷えきっていた。