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気まずい。実に気まずいぞ。
エスポワールの前を行ったり来たりしてもう数分が経つ。これじゃあ立派な不審者だ。そりゃあ、ずっと来たかったし? こないだ店長さんにも近々行きますって言ってたし? 私の心が落ち着いたら来ようと思ってたけど? でもまさかこんなに早く、しかも予期せぬ形で来る事になるなんて思ってもいなかった。
心の準備は万全ではない。……が、仕事となれば話は別だ。ドアの正面に立って大きく深呼吸をひとつ。ええい! 女は度胸!!
カランカラン。
入った瞬間、ふわりと漂う珈琲の香り。流れてくる音楽。その全てがなんだかひどく懐かしい。
「いらっしゃいませ」
黒いエプロンを身に付けた店長さんが一瞬驚いた顔をしたが、すぐに優しい笑顔を見せる。
「来てくれたんですね。良かった」
「お、お、お久しぶりです!」
私は勢いよく頭を下げる。脳裏には先程交わした嶋田さんと社長との会話が浮かんでいた。
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「えっ? この近くなの!? じゃあ直接行ってきてよ!」
「えええええっ!?」
「行くならちゃんとスイーツの写真撮ってきてね。ケーキと焼き菓子、今日飾られてるやつでいいから。はいこれデジカメ。撮ったらすぐ先方に送るからブレないようにしっかりね」
あれやこれやと準備は進められ、気付いた時にはオフィスの扉の前だった。
「いってらっしゃい」
笑顔の社長に背中を押されては行かざるを得ない。
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なんとか挨拶を終えてショーケースを覗くと、本日のオススメ、ツヤツヤのいちごがこれでもかと敷き詰められたナポレオンパイ、シュークリームにマドレーヌ、ショコラタルトなどの焼き菓子が並んでいた。
相変わらず美味しそうなスイーツだ。コーヒーの香ばしいかおりとふんわりとした甘いにおいが混ざり合って、私の食欲を刺激する。よし、仕事終わったらご褒美に買うぞ!!
「あ、あのっ!」
「ん?」
無駄に緊張しているせいか、さっきからどもってばかりだ。新入社員のようで恥ずかしい。
「ええと……その、」
「まぁまぁそんな焦らずに。お話は後でゆっくり聞きますから、まずはいつもの席に座ってて下さい。久しぶりなんですから。ね?」
笑顔の店長に流され、ついつい席に着いてしまった。今日は仕事の話で来たのだけれど……どうしよう。とりあえず何か頼もうとメニュー表に手を伸ばす。
「どうぞ」
「え?」
もちろん注文はまだしていない。それなのに、目の前には珈琲カップとソーサーが静かに置かれた。店長さんは戸惑う私を見て微笑む。
「こないだ約束したでしょう? サービスです」
そう言って右目をパチリと瞬かせた。普通の男性がやったらドン引きするような仕草なのに、この店長さんがやるとやけに様になっている。イケメンってすごい。
「さぁ、冷めないうちにどうぞ」
「じゃあ……いただきます」
ただのリップサービスだと思っていたのに律儀な人だなぁ。
そっとカップに口を付ける。
……ああ、この感じ。挽きたての豆の香り、苦味の中にほのかに感じる甘さ、舌に残る後味の良さ。じんわりと私の心に染み渡る温もり。やっぱりエスポワールの珈琲が一番好きだ。
「それで、何かお話が?」
そうだ、珈琲に現を抜かしている場合ではない。カップをソーサーに戻して姿勢を正すと、私は話を切り出した。
「あの、こちらの喫茶店ではケーキや焼き菓子も売ってますよね? 私よく買ってるんですよ! すごく美味しくて大好きなんです」
「嬉しいなぁ。いつもありがとうございます」
「メニューもその日によって違うじゃないですか。だから来るたびショーケースを覗くのが楽しみで楽しみで!」
「ははっ。他のお客様にもそう言ってくれる方が結構いらっしゃるんですよ。嬉しい限りです」
店長さんは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「それで、あれはどなたが作っているんでしょうか? 専属の方ですか?」
「ええ。うちで働いてるパティシエですよ。彼が作るスイーツは当店の自慢なんです」
「……失礼ですが、その方は今こちらに?」
「うちのパティシエに何か用でしょうか?」
「実は…………」
私は今までの流れをおおまかに説明した。店長さんは嫌な顔ひとつせず、真剣に話を聞いてくれた。
「……なるほど。大体の事情はわかりました」
「急にこんな仕事の話をしてしまって申し訳ありません」
「構いませんよ。貴方がこれからもうちに来てくれるならね」
ニッと悪戯っ子のような笑みを見せる。
「それで、もし良ければパティシエの方とお話しがしたいのですが……」
「ああ。それならちょっと待ってて下さいね。おーい! タッチー!」
突然、店長さんは奥の扉に向かって大声を出した。タ、タッチー? え? 店内に居たお客さんも何事かとこちらに注目する。




