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喫茶〝エスポワール〟
何を隠そう、そこは私のお気に入りの喫茶店であり、同時に失恋の舞台となってしまったあの場所だ。本格スイーツと厳選された珈琲が自慢の小さな喫茶店。毎日のように顔を出していたのに、あの日以来一度も足を運んでいない。何となくタイミングを逃してしまい行きづらくなってしまった。ランチに行きたくても行けない原因はこれである。
「……それに私、暫く恋愛はしないつもりだし」
「本当に? それは残念だなぁ。やっと俺にもチャンスが巡ってきたと思ったんだけど」
背後から男性の低い声が聞こえて来た。私は驚いて振り返る。
「……黒崎さん」
「どーも」
黒崎裕也。
うちの大事なクライアントの一つ、アンティークショップ「écrin」の広報主任だ。今回も、駅ビルのスペースに新しく輸入したアンティーク食器の広告を出すそうで、うちに依頼をしてくれたのだ。
「黒崎さんは打ち合わせですかぁ?」
「うん。今終わったところ。せっかくだから高瀬さんの顔見てから帰ろうと思って」
「……はあ」
唇の端を上げて笑顔を作った黒崎さんに何て返せばいいのかわからず適当に流すしかなかった。遥香ちゃんのにやにや顔が腹立たしい。あんな顔されたら恋愛脳じゃなくても考えている事が手に取るようにわかってしまう。
「それで?」
「……はい?」
「コンビニの店員さんに一目惚れって話は本当なの?」
「なっ……。黒崎さんまでそんな冗談やめてくださいよ」
「はははごめん。じゃあそろそろ会社に戻るよ。高瀬さん小林さん、またね」
ひらひらと手を振って、彼は颯爽とオフィスを後にした。
彼の姿が見えなくなった途端、ニヤケ顔の遥香ちゃんから早速攻撃が飛んで来た。
「前から思ってたんですけどぉ、黒崎さんって理央さんの事めっちゃ狙ってますよねぇ」
「はあ?」
遥香ちゃんのピンク色の恋愛思考は健在だ。
「あれぇ? 気付いてませんでした?」
「気付くも何もそんな事あるわけないでしょ」
「えー? でもみんなも言ってますよぉ?」
「もう、馬鹿な事言ってないで仕事しなさい! 社長に言い付けるわよ!」
「やぁ〜ん理央さんが怒ったぁ!」
自分のデスクに走っていく後ろ姿を見て溜め息をつく。黒崎さんが私を狙ってるだなんて一体誰が言い出したんだか。そんな根も葉もない噂話は迷惑でしかない。彼も誤解されて可哀想に……って、こんなこと考えてる場合じゃない。さっさと仕事に戻らなくては。コピーを取るのに随分と時間がかかってしまった。
会議室の片付けをしてからデスクに戻ると、再び遥香ちゃんが近付いてきた。
「いいですか理央さん! 明日は絶対ランチに行きますからね! コンビニの店員がいくらイケメンだからってお弁当買ってきちゃダメですからね!」
コンビニの店員は別にイケメンじゃないしまったく関係ないんだけど。遥香ちゃんは聞く耳を持たない。こうなっては仕方ない。私は妥協案を提出する。
「それならさ、駅前のエピだっけ? そこにしない? 遥香ちゃんあそこのパンケーキ食べたいって言ってたよね?」
「えっ、マジですか!? やったぁー! じゃあそこにしましょう! 祥子さんにも言っておきますね!! 祥子さぁ~ん!!」
バタバタと足音を立てながら今度は祥子さんの所へ向かった。……嵐が去ったみたいだ。
エスポワール以外でランチをするのはあまり気が進まなかったけれど仕方ない。明日は久しぶりに外に出よう。
ああ。遥香ちゃんと話をしていたらエスポワールの珈琲が飲みたくなった。あのレトロな雰囲気と落ち着いた音楽、別次元にいるかのようにゆったりと流れる時間。ほろ苦い珈琲と甘くて優しいケーキの味が懐かしい。
私の心は葛藤中だ。