①
近藤公一は、所謂『金持ち』の生まれだった。
明治に建てられた家は『屋敷』と呼ぶに相応しい豪邸で、自宅にはお手伝いさんも何名か雇っていた。
親父は代々続いている貿易商社の息子で、中国支社のボスとして日本と中国を行ったり来たりしていた。
3人兄弟で末っ子の公一、両親からも祖父母からも可愛がられていた。
特に母方の祖父母の愛情は深く、若い頃の娘によく似ている公一を甘やかしていた。
何をするにも誰かが先回りし、公一が苦労する事も困る事もなかった。
あの時は幸せだった。
欲しいものは何でも与えられ、人生に不満なんてなかった。
そんな大金持ちの息子が、何故グレてしまったのか。
これは深雪すら知らない、昔の話だ。
────────────────
人間は一人きりだと、弱く脆い。
器の深さも、家庭環境によってとんでもなく浅くできてしまう。
公一が反抗期を迎えたのは、中学生の時だった。
何もかもが嫌で、他人も自分も嫌いだった。
理由は公一が12の時に起きた、母親の事故死だ。
いつもの様に学校から帰った公一は、母を探してあちこちを探し回った。
小学校最後の夏休みに入る直前で、通知表を貰った。
成績だけは良かったから、それを見せて褒めて貰いたかったのだ。
しかし、どこを探しても、母の姿は無かった。
リビング、サロン、キッチン、立ち入りを禁止されている蔵。
なんだか妙な胸騒ぎがした。
ただ出掛けているだけかもしれないし、見つけられないだけかもしれない。
だけど早く見つけないと、取り返しのつかない事になりそうな気がした。
中庭を歩いていると、前方に温室が見えた。
中には母が大事に育てている花がたくさんある。
汗で湿った通知表を握りしめ、温室のドアを開けた。
「お母さん」
むせるような、強い花の香りに眉を寄せ、進んで行く。
お母さんはここにいる。
確かにそんな気配がした。
「どこにいるの」
真っ赤な花束の中から、笑顔の母さんが顔を出す。
そして通知表を受け取り、言う。
「スゴいわね!じゃあ、ご褒美に今年の休みは好きな所に連れて行ってあげるわ」
不安な気持ちを消し去るように、頭の中で何度もシュミレーションする。
どこに連れて行って貰おうか。
海や遊園地や、山でもいい。
一歩づつ歩みを進める。
その時大きな音が響き渡り、同時に公一の目の前に何かが落下してきた。
甲高い悲鳴と、ドン!という鈍い音が、ほぼ同時に聞こえた。
動けなかった。
目を見開き、ただ立ち尽くしていた。
わずか1m先に落下してきたのは、母だったのだから。
「お母さん、どうしたの?」
呟きながらゆっくり歩み寄る。
人間というのは不思議で、頭ではわかっている筈なのに、そんな言葉が口を次いで出た。
通知表も手放さなかった。
小さな紙切れが、正気を保っていられる全ての様な気がした。
母は見た事がない顔で、ぐったりと両手足を下げ、目を見開いていた。
不自然に折れ曲がった手足は、まるでゴム人形の様に見えた。
母の体の下には、大切に育ててきた薔薇が、血を浴びて更に赤く染まっていた。
その後はよく覚えていない。
気付いたら病室にいた。
大人になってから聞いた話では、髪を掻きむしって奇声を上げていたらしい。
「今だから言うけど、あの時は気が狂ったと思ったよ」
兄は悲し気な顔で笑っていた。
なぜ母があんな死に方をしたのか、聞いても父は話してくれなかった。
小学生に言うような事ではない為、仕方がないだろう。
当時は死の理由よりも、目の前の現実を受け入れるのに精一杯だった。
母がいない世界。
どんなにくまなく家を徘徊しても、もうあの笑顔を見る事はできない。
温室も取り壊されてしまい、花の甘い香りが風に乗って漂ってくる事もない。
それが悲しくて、絶望的だった。
このままで終われば、公一の性格も違っていただろう。
内向的で臆病で、暗い人間になっていたかもしれない。
だけどそれを変えたのは、決して喜ばしい出来事ではなかった。
公一は聞いてしまったのだ。
知らなくても良かった、母の死の理由を。