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短編集  作者: 石月 ひさか
母親
18/28


近藤公一は、所謂『金持ち』の生まれだった。


明治に建てられた家は『屋敷』と呼ぶに相応しい豪邸で、自宅にはお手伝いさんも何名か雇っていた。


親父は代々続いている貿易商社の息子で、中国支社のボスとして日本と中国を行ったり来たりしていた。


3人兄弟で末っ子の公一、両親からも祖父母からも可愛がられていた。


特に母方の祖父母の愛情は深く、若い頃の娘によく似ている公一を甘やかしていた。


何をするにも誰かが先回りし、公一が苦労する事も困る事もなかった。


あの時は幸せだった。


欲しいものは何でも与えられ、人生に不満なんてなかった。


そんな大金持ちの息子が、何故グレてしまったのか。


これは深雪すら知らない、昔の話だ。


────────────────


人間は一人きりだと、弱く脆い。


器の深さも、家庭環境によってとんでもなく浅くできてしまう。


公一が反抗期を迎えたのは、中学生の時だった。


何もかもが嫌で、他人も自分も嫌いだった。


理由は公一が12の時に起きた、母親の事故死だ。


いつもの様に学校から帰った公一は、母を探してあちこちを探し回った。


小学校最後の夏休みに入る直前で、通知表を貰った。


成績だけは良かったから、それを見せて褒めて貰いたかったのだ。


しかし、どこを探しても、母の姿は無かった。


リビング、サロン、キッチン、立ち入りを禁止されている蔵。


なんだか妙な胸騒ぎがした。


ただ出掛けているだけかもしれないし、見つけられないだけかもしれない。


だけど早く見つけないと、取り返しのつかない事になりそうな気がした。


中庭を歩いていると、前方に温室が見えた。


中には母が大事に育てている花がたくさんある。


汗で湿った通知表を握りしめ、温室のドアを開けた。



「お母さん」


むせるような、強い花の香りに眉を寄せ、進んで行く。


お母さんはここにいる。


確かにそんな気配がした。


「どこにいるの」


真っ赤な花束の中から、笑顔の母さんが顔を出す。


そして通知表を受け取り、言う。


「スゴいわね!じゃあ、ご褒美に今年の休みは好きな所に連れて行ってあげるわ」


不安な気持ちを消し去るように、頭の中で何度もシュミレーションする。


どこに連れて行って貰おうか。


海や遊園地や、山でもいい。


一歩づつ歩みを進める。


その時大きな音が響き渡り、同時に公一の目の前に何かが落下してきた。


甲高い悲鳴と、ドン!という鈍い音が、ほぼ同時に聞こえた。


動けなかった。


目を見開き、ただ立ち尽くしていた。


わずか1m先に落下してきたのは、母だったのだから。


「お母さん、どうしたの?」


呟きながらゆっくり歩み寄る。


人間というのは不思議で、頭ではわかっている筈なのに、そんな言葉が口を次いで出た。


通知表も手放さなかった。


小さな紙切れが、正気を保っていられる全ての様な気がした。


母は見た事がない顔で、ぐったりと両手足を下げ、目を見開いていた。


不自然に折れ曲がった手足は、まるでゴム人形の様に見えた。



母の体の下には、大切に育ててきた薔薇が、血を浴びて更に赤く染まっていた。


その後はよく覚えていない。


気付いたら病室にいた。


大人になってから聞いた話では、髪を掻きむしって奇声を上げていたらしい。


「今だから言うけど、あの時は気が狂ったと思ったよ」


兄は悲し気な顔で笑っていた。


なぜ母があんな死に方をしたのか、聞いても父は話してくれなかった。


小学生に言うような事ではない為、仕方がないだろう。


当時は死の理由よりも、目の前の現実を受け入れるのに精一杯だった。


母がいない世界。


どんなにくまなく家を徘徊しても、もうあの笑顔を見る事はできない。


温室も取り壊されてしまい、花の甘い香りが風に乗って漂ってくる事もない。


それが悲しくて、絶望的だった。


このままで終われば、公一の性格も違っていただろう。


内向的で臆病で、暗い人間になっていたかもしれない。


だけどそれを変えたのは、決して喜ばしい出来事ではなかった。


公一は聞いてしまったのだ。


知らなくても良かった、母の死の理由を。

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