はぐれ者のお嬢様は迷子の羊を飼い慣らす
「さてと…」
人もまばらになり始めた、放課後から少し経った時間。
学園内の二学年、入口付近にFの文字がデカデカと刻まれたプレートの教室で、残っていた課題も全て消化しきった俺は帰りの支度をし始める。
もっとも、これから屋敷へ帰る前に執事の務めとしてお嬢を迎えにいく必要があるので、お嬢の待つ一学年の教室へと向かわなければいけないわけだが……。
唐突だがこの学園は広い。
それはもう、そういった要人の子と従者である俺達を分けれるくらいには教室の数も多く、棟も比例して多く存在しているくらいに。
当然、俺達従者と要人の子の方々の教室、使う施設は別棟だ。
さらにそこへ繋がる通路は最上階にある渡り廊下のみで、下からは例え要人のボディーガードでも入れない仕様になっている。
警備面は完璧だというのが学園側の言い分だが、この仕様は些かどうかと思うね。
して、だ。
長々と語ったが、要するになにが言いたいのかと言うと……長い階段を上がるのが面倒なんだよなぁ。
シンプルに、面倒だ。
なにせ通常の学校に存在する階段は平均13段だが、俺が今見上げている階段はどう見ても20は超えている。
初めの頃は要人の子息子女の棟は平均よりも少なめだったはずなんだが? と言いたい気持ちはあった。
が、こういうのにも、お嬢の執事兼ボディーガードとして仕えると決まった時から既に四ヶ月が経っている。
短いようだが、当然それだけの歳月を毎日ここで踏んでいればこの程度も慣れたもんだ。
「ま、お嬢的には俺のお迎えは絶対らしいし、さっさと行って帰らないとさすがに旦那様に怒られるからな」
半年前の俺からしたら考えられたもんじゃないだろうが、案外慣れってもんは身近にあるもんだ。
愚痴は言わずに、さっさと向かうに限る。
「はい? 教室にはいない?」
「ええ、みのりなら昼休みの後くらいからいなかったけど? まあいつもの事だとは思うけど」
いや、いつものって……そんなに楽観的に考えないでいただきたい。
それはつまり、迷子になってるってことじゃないか。
「……………」
俺はそっと、窓際最後尾に座るお嬢の唯一といっていいご学友へと視線を向ける。
基本的にお嬢が迷子になったり、授業中に帰ってこなかった場合彼女から連絡が来るはずだ。
そのためだけに、俺は『他の女の連絡先は登録しちゃダメ』なんていうお嬢の反対を押し切って彼女と連絡先を交換したんだから。
だが、俺と目が合った彼女はビクリと体を震わせこちらに向き直り、静かに口を動かすだけであった。
『ご、ごめーんちっ』
読み取るにそんなことをのたまっているようだ。
よし、アイツの連絡先はあとで消しておこう。
「…はぁ」
「?」
今さっき俺の質問に答えてくれていたお嬢様は、俺のため息に疑問符を浮かべるだけでそのまま立ち去っていった。
たかだか一執事のため息に反応するほど、ここの方々は高尚じゃない。
しかしまあ、この学園内においてお嬢は必ずといっていいほど安全だ。
ここにいる連中とは、文字通り身分が違う。
位が高いお人にしてはボディーガードの一人もつけていないお嬢だが、幸いな事に俺を置いてお嬢が学園の敷地外に出るような事はさすがにない。
学園の敷地内にいるならば安全は確実といっていい。
なにせ一介のボディーガードなんかよりも遥かにレベルの高い警備員が徘徊しているんだから。
だが、見つけるためには情報が必要だ。
ないとは思うが、俺は誰彼構わず話している方へと耳を向けてみる……が…。
「いやさ、俺の家この前まで―――」
「バカ言え、あの明光寺さんだぞ? 声なんてかけられるわけ―――」
「明光寺さん、今日も美しいですわぁ―――」
「これから喫茶店にご一緒しませんこと? 私あそこの―――」
「なあなあ伊作治君、今日の勉強でわからな―――」
案の定、このクラスの誰一人として、お嬢がいないことを話題にあげている連中はいなければ、空いている席に視線を向ける奴すらいない。
いつもこうだ。
いつ来ても、彼女を話題にあげる連中はいない、いやしない。
まるで腫れ物のように扱われるのも癪に触っただろうが、こうやってあからさまにいない者として扱われると、少しイラつく。
たった四ヶ月、そんな短い関係ではあるが、俺はお嬢に救われた身だ。
地獄の底から掬いあげられ、彼女に癒してもらった立場だ。
怒りに駆られていようと、身分を忘れるくらいの感情に突き動かされそうになろうとも、その恩義を忘れるほど腐っちゃいない。
だから俺は、腹の底が煮えたぎる想いを感じながらも耳を傾けるのをやめるだけにする。
「ひっ」
だがどうしても少しだけ怒気が漏れてしまったのか、今し方教室を出ようとした子息が小さく悲鳴を漏らす。
それを見た俺は、少しだけ、ほんの少しだけ以前の俺に戻るのを感じながら、足早に教室を去った。
「仕方ないが探すしかない」
そう結論付けた俺は、一刻も早く恩人の居場所を突き止めるために足を動かした。
中庭、グラウンド、庭園、泉の広場、テニスコート、ランニングコース、門の沿い。
食堂、多目的ホール、総合体育館、音楽棟、美術棟、帝王学棟、歴史館、屋上、各棟にある職員室での聞き込みに至るまで歩き回る。
当然、学園内のそれぞれの学年、教室も回ったがお嬢が見つかることはなかった。
「あ゛ぁ゛~、いないっ」
放課後という時間帯の都合上、他の学生の姿も徐々に少なくなってきた。
そのため、必然的にお嬢の目撃情報も少なくなる。
結果、お嬢の姿どころか影すら掴めない状態にまでなってきた。
「はぁ……って、あ!」
ため息を吐いて座り込んだ途端、ケツに違和感を感じて思い出した。
俺はケツの左ポケットに入れていた大型の四角いブツを取り出す。
そうだ、よくよく思い返してみれば。
「携帯があるじゃねえか……」
なんで今までその事に気が付かなかったのか。
俺自身が正気を疑うレベルである。
はぁ、ちょっとイラついただけで冷静さを失うとか……マジで以前の癖が残り続けてる証拠だな。
ま、今気付いただけ儲けもんだと思う事にしよう。
「それじゃあ早速っと」
ピ、ピピ、ピ、と、慣れない操作でダイヤルを押していく。
「まったく、最初っからこうすればよかったんだよな」
プルッルルルルルル、プルルッルルルルルル。
「…………」
やがてコールを知らせる音が耳から響くと、なぜか近くからも携帯の着信音が聞こえてくる。
なんでこんな近くで聞き慣れた着信音がするんだろうか?
「た、たぶん、誰か他の人の携帯だ。似たような着信音が鳴ってるだけ…だよな」
そうだと信じたい、切実に。
「……しっかし繋がらないか。一度切ってみるか」
…………。
なぜか鳴っていた着信音がパタリと止む。
「……………ん~」
俺は確認のため、もう一度、番号をしっかりと確かめながらお嬢の携帯にかけ直した。
指は滑っちゃいない、間違いない。
コールも押した、間違いない。
プルッルルルルルル、プルルッルルルルルル。
間違いない、聞き慣れたあのヘンテコな着信音だ。
「…………」
俺はスマホから鳴り響くコールの音から耳を離して、辺りをよぉく見渡す。
そして、長い廊下の隅に、ものすごぉく、それはもうものすごぉく! 見覚えのあるピンク色のスマホが落ちているのを発見した。
それを拾い上げてロック画面を見てみると、そこには出会った頃の嫌悪感丸出しの俺とニッコニコのお嬢のツーショットが……。
ピッ。
「スマホ落としてんじゃねぇかァア!! あの馬鹿女ぁぁぁあああ!!!」
どうしろってんだよおいぃぃい!
頼みの綱の携帯がこんな状況じゃあ、探しようがねぇぞッ!?
「お、落ち着け、落ち着くんだ俺。こんなところで三ヶ月前みたいにバチバチしてたら、お嬢の家名に傷を付けることになる」
恩を仇で返すなんて、そんなことは俺の望むところじゃない。
「そう、ここは冷静になってお嬢がよく見つかる場所を思い出せ」
そうすれば答えはなくとも、自ずとヒントくらい見つかるはずだ。
お嬢がよく見つかる場所……お嬢がよく見つかる場所…………お嬢が、よく、見つかる場所…。
…………ダメだ、あの人に法則性なんてモノはなかった。
ったく、どこまでも面倒なお人だ。
「それでも、とりあえずしらみ潰しに探すしかない」
それから俺は、さっき通った中庭、グラウンド、庭園、泉の広場、テニスコート、ランニングコース、門の沿い、食堂、多目的ホール、総合体育館、音楽棟、美術棟、帝王学棟、歴史館、屋上、各棟にある職員室、それに加えて学園外の敷地内の隅から隅まで回ったが、見つかることはなかった。
「ぜぇ、はぁ、くっ、さ、さすがに体力に、自信がある俺でも、これだけ続けて探すとなると、なかなかに厳しいものがあるなっ」
息を整え、顎に伝う汗を袖で拭いながら、俺は渡り廊下に存在するベンチで休む。
血眼になりながらずっと歩き続けるとか、いったいなんの苦行だよと。
「つか、ホントどこにいるんだよ」
途中でもう一度下駄箱を覗いてみたが、お嬢の靴はまだあった。
つまりはまだ学園の敷地内にいる可能性は高いわけだ。
まあお嬢の場合、上履きのまま帰ったという可能性もまったくないわけではないのだが。
それにしたって迎えに行くっていういつもの約束を、なんの連絡もなしに破ってまで勝手に帰るようなことはないと思うんだがな。
それもお嬢から。
「う~む、考えてもわからん」
とりあえず、一度教室にでも戻ってみるとするか。
こういう展開の場合、案外灯台下暗しっていうのがテンプレだったりするもんだ。
「ほらな?」
自分の教室へと戻って来てみれば、一度目にはなかった姿がそこにはあった。
腰まで伸びた白桃色の長い髪を机の上に扇状に広げ、大きな胸を机の下から垂らして……おまけにヨダレまで垂らしてくれやがっているお嬢が、俺の席でスヤスヤと気持ちよさげに寝ている。
「……良かった」
ひとまずは、何事もなくて良かった。
「……お嬢、みのりお嬢、起きてください」
俺はお嬢の肩をゆっくりと揺すり、お嬢の意識を覚醒させる。
「うーん、もう朝ぁ~?」
お嬢は眠たげな眼を擦りながら、まだ覚醒しきっていない体でフラフラと立ち上がる。
夕陽をバックに、口元から切れた銀の糸が嫌に艶かしく映るお嬢の姿は、女性に対してそれなりに免疫があるはずの俺でも見惚れてしまうくらいだった。
いや、それよりもだ。
俺は言いたいことがある。
「いえお嬢、もう夕方です」
「わわっ、羊くん!」
俺が顔を真正面に合わせお嬢にツッコミを入れると、お嬢は一気に意識を覚醒させたようだ。
目をパチリと開いて恥ずかしそうに口元に手を当てる。
で、これも彼女なりのご挨拶というやつなんだろうが。
「これももう慣れましたが、俺の名前は羊ではなく羊です。まったく、こんなところでなにやってるんですか」
「なにって、ずっと羊くんを探してたんだよー!」
呆れたように本題を聞く俺に対して、お嬢は膨れっ面でこちらを指差してくる。
「えッ」
それを聞いた俺は、体を硬直させて自分の耳を疑った。
あのお嬢が? 探す?
誰を、俺を?
家ですら日常生活に支障をきたすほど方向音痴な、あのお嬢が?
「あー、今失礼なこと考えたでしょー?」
「い、いや、そんなことないですよ?」
嘘を吐くのが得意だったはずだが、なぜか俺は少し言葉に詰まる。
その原因は前屈みになったことで服に付いた跡がより強調された、お嬢の胸が……ごほんっ、女の勘は恐ろしいな。
「まあいいや。気が付いたら放課後になってたから、慌てて羊くんの教室に行ってね? いなかったから自分の教室に戻って、それから――――」
なるほど、どうやら俺は、俺達はずっとニアミスをし続けていた模様だ。
そりゃあどうりであちこちで目撃情報があったり、見つからないわけだよ。
っとと、そういえばこれを渡しておかないと。
一つ思い出した俺は、お嬢へと人差し指を立てて見せる。
「そういえばお嬢、スマホ落としましたね?」
「え?! あ、ホントだ、ない!」
お嬢は今更服のポケットをまさぐり、たった今気が付いたようだ。
その可愛らしい行動に苦笑を浮かべながら、俺は自分の制服の内ポケットに大事にしまい込んだピンク色のスマホを取り出した。
「はい、途中で拾っておきましたよ」
「あー! ありがとー! よかったー、これがないと羊くんにモーニングコールしてあげられないもん!」
俺の部屋、お嬢がそう簡単に入ってこられないよう厳重にセキュリティを張られてますからね。
主に旦那様のご指示で。
「はぁ、あんまり心配させないでくださいね」
安堵のため息を吐きながら、俺はお嬢の頭を撫でる。
「むぅう、そうやってまた子供扱いするぅ!」
「や、別に子供扱いしてるわけじゃあ……でも俺が迎えに行くってお嬢から約束してたんですから、あまり動き回らないでくださいよ」
でなきゃ今日みたいにいらぬ心配と苦労をすることになる。
今日は良かった良かったで済んだが、明日大丈夫なのかはわからないんだ。
俺はお嬢の悲しむ姿も、痛ましい姿も見たくない。
「そうやってじっとしていられずにすぐにどこかへ行ってしまうんじゃあ、子供扱いされても仕方ないですよ」
「むっかー!」
だから苦言を口にする。
しかしそれはどうやらお嬢には不服だったらしい。
最初見た時よりも大きな膨れっ面を浮かべて、今しがた立ったばかりの俺の席を指を差す。
「キミ、ちょっとそこのイスに座りなさい!」
「……え?」
いきなり意味不明なことを言い出すお嬢に、俺は一瞬戸惑った。
だがお嬢はそんな俺にはお構いなしに、もう一度ビシッと席を指差す。
「いいから座りなさいぁーい!!」
「あ、え、はい」
そして俺は、珍しく声を荒げるお嬢に驚き思わず自分の席に座ってしまう。
「で、お嬢はなにやってるんですか」
「見てわからない? 今お姉さんが大人だという証拠を見せてあげてるの!」
そういってお嬢は、イスに座った俺の体に自分の体を絡ませてくる。
腕にその豊満な胸を押し付け、股に細長くて色白で綺麗な足を絡ませてくる。
見る者によっては煽情的にも、蠱惑的にも映る表情を目の前で見せつけるように目を合わせてくる。
…………………うーん。
正直お嬢の体を擦りつけられただけでは俺は反応しないんだよな。
なにせ俺はスラムの出身、ヤることヤってるどころか老若男女問わず襲わされ襲われるっていう指導をスラムのボスに訓練させられてたわけだし。
うん、やっぱり特になんの反応もできん。
「…ぷう」
そんな俺の素っ気ない態度を見てか、みのりお嬢は行為を切り上げて不満そうに頬を膨らませた。
……どうにもお気に召さなかったうちのお嬢様は、不機嫌モードへと移行したらしい。
「羊くんは慣れてるんだもんねっ! そりゃ私なんかじゃ反応もしないよね!」
「いや、そういうわけじゃあ……あと俺の名前は羊です」
お嬢は俺の過去を知っているからか、そう言って頬を更に膨らませるが。
いやごめんなさい、ホント、なんていうか、うん、興味がないわけじゃあないんだが……どうにも心の御し方を知っているからなぁ。
「まあいいや、当初の目的は達成できたし」
「はい?」
お嬢は突然そんな事を述べ立ち上がると、鞄を手に取り教室の出口へと向かう。
「羊くん!」
お嬢はそこで振り返り、手をこちらに差し出してきた。
「っ」
それはまるで『俺が変わったあの日』の事を思い出させるようで、俺の心に深く突き刺さった。
「一緒に帰ろ!」
「っ、え、ええ、帰りましょうか」
俺はなんとか心の壁が壊れるのを抑え付けて、目元を袖で強く拭う。
お嬢はそんな俺に気付いてか、はたまた気付かないでか、お構いなしに腕にくっついてくる。
7月の暑さからしてこの状態はなかなかに堪えるものがあったが、今の俺にそれを気にしている余裕はなかった。
むしろ、誰かが傍に居てくれることに安心感すら覚えている。
「えへへ~、羊くんの匂いだー」
「…嗅いでていいものでもないでしょうに」
「そんなことないよ? 良い匂い!」
「そうですか」
「そうだよー!」
……こうして俺は、何度も彼女に救われていることを実感する。
こういうみのりお嬢の見た目の幼さに似合った人懐っこさが、俺を救うのに一役買っているのは間違いないだろう。
けどそれ以上に…………。
「羊くん」
「…なんですか」
「好きだよ!」
純粋に、正直に、真正面から好意をぶつけてくれるこの少女の気持ちに――。
「そうですか」
――――俺が応えられる日は来ないだろうが。
その言葉一つで俺がどれだけ救われているのか。
隣で不満げにしている彼女は、きっと気が付いていないだろう。
「むぅー、またそうやって誤魔化すぅー! ちゃんと答えてってばー!」
「って言われましても、ご自身の御立場を考えてください。それでなくとも俺は街の出身ですのに」
「羊くんなら関係ないね! その気になったら全員ぶっ飛ばしちゃえばいいんだよ!」
シュッシュッ、とシャドウボクシングの真似事をする彼女に、くすりと笑う。
静かに笑みを浮かべた俺を見て、みのりお嬢も同じくニッと口の端を吊り上げる。
まったく、誰の真似なんだか……。
彼女の想いに、俺は応えられない。
それでも俺は、これからも彼女を守り続けていくことだろう。
――――恩義に報いる。
それだけが唯一、今の俺を生きさせている理由なのだから。