穏やかな日々と突きつけられた現実
「アーデンのデ~ンは、でんでん虫のでん~」
「ひどい!」
「ひどくないもん! アーデン様鈍臭いし! シャツ出てるし!」
「うぅぅ」
(何か、何か言い返してやる!)
と思って僕は、
「キ、キトリーのキーは、木こりのキー」
と言った。だけど彼女は、
「木こりは超強いですから! 斧持って木バッサバッサ切りますから!」
「うぅぅ」
全然効かなかった。
「キツツキのキ!」
「つついてやる!」
「うわぁ! やめろぉ!」
「ホホホホホ!」
彼女との日々は相変わらずだった。変わったことを敢えて言うなら……
「キト姉様~僕も僕も~」
ディオルが混ざるようになったことだ。
「ディ~オルのディ~は……何?」
「キトリーが考えてよ」
「殿下も考えて」
「ねぇ僕のディは~?」
「……」
「……」
「あ! チャコ!!」
(うまく逃げたな)
と思いながらも自分も彼女に便乗して走り出す。
「「チャコーー!!」」
チャコはこの前僕が木の上から助けた猫だ。あれからと言うものチャコは僕たちに慣れてしまったようで、他の猫のようにそそくさ逃げなくなった。
キトリーはしゃがんで、チャコの頭や背中を撫でる。端から見れば可愛がっているように見えるだろうが、そこは流石キトリー。毛並みを上手く整えている。
「君って…」
「可愛いね~」
(ん?)
相変わらずだね。と言おうとした矢先に、ディオルの幼児特有の高い声に遮られた。隣のディオルに目をやれば、奴の瞳はキラキラと輝いていた。心なしかほっぺたも赤い。
「そうね、チャコは猫の中でも可愛いほうね、きっと」
「チャコもだけど、キト姉様も可愛いよ」
「え?」
彼女が返答に窮していた。そして何故か顔が赤らむ。
(何? その反応)
彼女の様子に僕は苛立った。
キトリーは口元を手で隠しながら「ディオル様はおませさんでしたのね……」とつぶやき、
「ディオル様、ありがとうございます」
といつもと違って美しく微笑んだ。それに喜んだディオルは、キトリーの隣にちゃっかり座る。そしてチャコを2人で構い倒しはじめる。
僕はこのやりとりに対し、しばし呆然とした。
(へ? は? 何なんだ? 何が「可愛い」だ? キトリーが可愛いのはいつものことだろう? 今更言うほどのものでも何でも無いだろう?! なのに何でキトリーはそんなに嬉しそうなんだ?? 私の前ではツンケンして笑ってくれることも少ないというのに…!)
自分の中の感情が激しく渦巻く。
(キトリーもキトリーだ! 可愛いって言われたくらいでそんな……そ、ん? な……)
そこで僕はあることに思い当たった。
(今までキトリーに可愛いなんて言ったこと無いな)
……実の弟に対し、謎の敗北感でいっぱいになった。
しばらくするとキトリーに迎えの連絡が来た。彼女は私達に「ごきげんよう」と言って花園からそのまま帰って行った。いつものように洗練されたお辞儀。いつものように滑るような足運び。私は特に気にも留めずいつものように彼女を見送った。
だが、ここにいつもとは違う奴がいた。
弟はチャコを抱きながら、キトリーにいつまでも手を振っている。
(もしかしてこいつーーー)
モヤモヤした気持ちを押さえられず僕は、
「ディオルはキトリーの事が好きなのか?」
と率直にディオルに尋ねた。するとディオルは顔を赤らめて「え? 好き? なのかな??」と言うのでつい、
「お前のその気持ちは気のせいだ。お前がドキドキしているのは、チャコが可愛いからだろう」
根も葉も無い意地悪をしてしまった。
「え? チャコ? このドキドキはチャコのせいなの?」
「そうだ、チャコのせいだ」
「チャコーーー! 大好きだよーーー!!」
弟はチャコの毛並みにこれでもかと頬を埋めた。そのうっとうしいほどの愛情表現に、チャコは「にゃー…」と少し迷惑そうな声を出す。
(そうだ。お前はそうやってずっと勘違いしていれば良い)
僕の胸は妙にスッとするのだった。
だが、そんなつまらない事をしてしまったからだろうか。幸せな日々は、唐突に失われてしまったのだ。
「え? 婚約、ですか?」
王族としての義務が僕に突きつけられた。
「あぁ、お相手はサウス国の次期国王であるアース公爵のご令嬢クシャーナ姫だ」
「キトリーのように、とってもしっかりしたお嬢さんなのよ?」
とても嬉しそうに話を繰り出している父上と母上に、僕は是も否も言えなかった。
初めて血の気が引く思いがした。
(キトリーのようにと言っても、それはキトリーじゃない……)
そのまま話は進んだようで、10歳になった時、クシャーナ姫が正式に僕の婚約者になった。
僕の婚約が決まると、キトリーは王宮へは来なくなった。
『襟がおかしいわよ! も~!』
『カフスボタンを落とした? もう何やってるのよ~!』
『シャツちゃんと仕舞いなさいよ!』
いつも聞こえていたはずの彼女の声が、時間と共にだんだん遠くなっていく。僕は自室に備えられていた姿見の前で立ち止まり、彼女がよく指摘していた場所を見る。
「王子様の着付け係が、ちゃんとして無いわけないだろう」
僕のつぶやきは、部屋の中に静かに消えていった。
(キトリーが来ていたから、ちょっとだけだらしなくしていたんだ。今日は気づくかな? どうかな? って子どもみたいに、構って欲しくて…)
王族という重圧に、息が詰まりそうになる度いつもーーー
サッと身だしなみを直してくれていた小さな女の子の手が見えた気がした。しかしその残像は直ぐに消え、後にはただただ虚しさと、もの悲しさだけが残った。
心は穴でも開いたのか、はたまたナイフでも刺さったのか、しくしくと痛んだ。
身だしなみを自分で直さないといけない毎日に、僕はなかなか慣れないのだった。
「小さな女の子の手が見えた気がした」→ホラーかよ……。
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