11.姫の心は届かない
アーデン様が生徒会長になってから勉強会はテスト前だけになっていたが、順位は30位以内をちゃんとキープ出来ている。マナーの点でも細かい指摘がなくなったので、私はようやくアーデン様の信頼を勝ち取れたのだと心をなで下ろした。
大好きな紅茶を部屋でゆっくり飲み、ほっと一息ついたところで私は気づく。
(私、こっちに来てから勉強ばかりだったわね)
一時期とても苦しくて、逃げ出したい思いに駆られたり、人と比べて自分を卑下してしまったりしたけれど、ようやくここまで来たのだと思うと感慨深かった。
『王妃教育』は順調だ。
(でも、いつだって私の心をざわつかせるのはアーデン様だけ……)
香る紅茶は祖国のもので、前と寸分も変わらないはずなのに舌先にわずかな苦みを感じた。それは、この国に来てからどんどん変わってしまった私の心に、どこか似ていた。
そんな不安を抱えたまま、私達は最終学年に上がった。
***
ディオル様も学園に入学を果たした。登下校を一緒にしようかとはじめに誘ったのだが、彼は私やアーデン様に遠慮してか別の馬車で登校している。ディオル様は人に懐くのが上手で、常に人の輪の中心にいるタイプだと学園の様子を見て私は初めて知った。成績は側近達が常に上位をひしめかせている。ディオル様はそれを歯牙にも掛けず、「優秀な部下に囲まれて、僕は幸せ者です」と笑顔で晩餐の席で言っていた。
どこまでも我が道を行くディオル様が羨ましくて仕方がない。そう言った部分に、周囲は惹かれているのだと私は思った。
『人の心に入り込むのが上手なディオル様』
『人を心に入り込ませないアーデン様』
学園での2人の評価は、対照的なものであった。
しかし、国民によるアーデン様の評価は格別だ。様々なジャンルの学問に精通している彼は、訪問先で話題が尽きない。薬効技術の研究所では、臨床試験のやり方の不備を見つけ、第3者委員会と監査員を定期的に送る事項を設けた。赤潮が発生した際は早急に現場に急行し、貝毒の予防や海産物の被害状況把握を直ぐに行ったと聞いた。
行動力と実績があまりにも違いすぎる。
妃の務めとされている孤児院や修道院の訪問先では、シスター達から口々に私は言われる。『聡明なアーデン様と添い遂げられる姫は幸運だ』と。『必ず幸せになれる』とも。
アーデン様の名声が高まれば高まるほど、私は喜ばなくてはいけないし、彼を讃える人達に礼を述べなくてはならない。それなのに婚約者として全く嬉しくないのは、彼らの瞳の奥から『姫はどのように国に貢献するのか?』と圧力を感じてしまうからだろう。
国民に求められているような『聡明な王子に相応しい妃』に成らなければならない。
今度はその事案が私にのし掛かってきた。
(アーデン様にこのことを相談したら、なんて言うかしら?)
出会ったばかりのアーデン様ならばきっと、「あれをしたら良い」「これをすれば良い」と言ってくれたに違いない。しかし、今のアーデン様なら私にこう言うだろう。
「何もしなくてもよい」―――と。
それが堪らなく悔しくて、惨めで、嫌で嫌で仕様がない。だからといって、何をどうすれば良いのかも分からない。
私はこの醜く愚かな胸の内を誰にも知られたくなくて、誰にも相談することが出来なかった。
そうして迎えた、あるうららかな日のことだった。
「聞きまして? クシャーナ様」
「最近殿下がショーンとか言う男爵令嬢とご一緒しているそうですわよ?」
食堂に行く途中でスーレーンとカーレーンが私に耳打ちしてきた。
「入学したての1年生」
「聞けば『道に迷っていたところを殿下に助けて頂いた』ですって」
私は男爵令嬢の名前は知らなかったが、アーデン様からその話は聞いていた。そのご令嬢は下校時間が過ぎていたのにもかかわらず校内に残っていたらしい。『刺客だと思って思わず身構えた』とアーデン様は笑って教えてくれた。そして、『姫も気をつけるように』とこの前言われたばかりである。しかし、昼食などを一緒にしているのは初耳だ。
私とアーデン様は晩餐を共にしているのでーーーと言ってもセントラル王族の方達も一緒だがーーー昼食は学園内のご令嬢達と一緒にしている。週に1度くらいはアーデン様と共にしているが、それもお互いの都合が合わなければ流れることの方が多い。アーデン様はアーデン様で、子息達と交流をしているからだ。
私の胸はざわついた。
(あの真面目を絵に描いたような殿下が?)
まさかと思った。
(わたくしというものが有りながら……そんな)
動揺が顔に出ないように取り繕い、半信半疑のままスーレーン達と共に現場を見に行った。私は校舎の柱に隠れるようにして中庭に設けられた王子専用のテーブルを見た。そこにはアーデン様とスミス様、エスタ様とーーー令嬢が1人座っていた。
令嬢の顔は後ろ姿なので確認することが出来なかったが、私はアーデン様が『令嬢と2人っきり』で無いことに安堵した。そして、何気ない風を装って彼らに近づこうと足を踏み出すと、思いがけない光景を見てしまった。
(え……うそ……?)
アーデン様の、楽しいのか楽しくないのかよく分からない笑顔。
見ているようで見ていない視線。
(同じだわ。全く一緒)
私と共に過ごすときと全く変わらない姿のアーデン様が、そこにいた。
季節は春真っ盛りなのに、私の手足は冷たくなっていき、身も心も凍りそうだった。いたたまれず、私は踵を返した。スーレーン達が何かを言っていたが、私は歩みを止めなかった。
(あの方は誰とでもあのような態度なのだ)
婚約者の私の前でも。
他の女子生徒での前でも。
その事実が、私の心に刺すような痛みを感じさせた。私は誰もいない廊下で立ち止まり、スーレーン達が追いついたのを感じて振り返った。
「アーデン様のお顔を見た? いつもと同じだったわ。私と共いるときと同じ、他の人達と全く同じ……!」
私は震える手を握りしめながら、彼女達に訴えた。
「いつになったら私は特別になれるの!? どうして特別になれないの!!」
怒りと悲しみがごちゃ混ぜになって、私の心は悲鳴を上げた。
「ねぇ……? 私は、私はアーデン様の事をお慕いしているのに……いつだって私の想いはあの方に届かないのよ…? どうしてだと思う?」
視線を泳がせる彼女達の様子を見ながら私は続ける。
「私、頑張ったわ。アーデン様の妃になるためには、前みたいにのほほんと生きてちゃ駄目なんだって……。だから、ずっと……知識を詰め込んで、成績も落とさないようにしたし、マナーだって必死に覚えた…」
溢れる心と同じように、涙がどんどんこぼれていった。
「視察だって、この国の貴族とのお茶の席だって頑張ってこなしたわ。分からなかった所や間違いは、アーデン様がいつも助けて下さって……私、わたし……」
「……姫様…」
アーリアが私の涙をハンカチで押さえた。その優しさが、今の私には痛くて更に涙が溢れた。
「皆、私のことを『幸せになれる』って言うけど、どう言うことなの? これが幸せなの?」
―――ねぇ、教えて。
―――私、どうしたら良いの……?
口から出た音がちゃんと言葉になったか分からなかったが、彼女達は私を抱きしめて、泣き止むまで辛抱強く待ってくれた。
―――酷い。酷いわ。
「クシャーナ、貴女はちゃんと頑張っているわ。皆わかってる」
(……違うわ、そうじゃ無いの……)
「そもそもあんな人に合わせるのなんて無理よ。むしろ、誰があの人に釣り合うって言うの?」
「そぉよ~。私だったら菓子折と一緒に送り返しちゃうわよ!」
「「カーレーン……」」
「なによぉ。私なんて殿下の側にいるだけで息が詰まるわよぉ。だって、何考えてるのかさっぱり分からないんだもの。不気味よぉ」
顔を上げると、いつの間にかカーレーンも涙ぐんでいた。いつも強気なのに、とても珍しい。
「……姫、このままでは……姫が姫じゃなくなってしまいます」
今度はアーリアが背中をさすりながら話してくれた。
「私達は、幼い頃の貴方様をよく知っています。あの姿を知っているからこそ、今の姫様の姿に違和感を感じてしまっていましたが……根っこは変わっていないのですね」
「クシャーナは、箱の中の更に箱の中にしまわれたお姫様だったものね」
「勉強が嫌いでマナーもよく逃げ出して……」
「……それはカーレーン達も一緒では?」
「「なによぉ」」
彼女達の労りの言葉で、私は涙が収まってきた。
「でも、婚約と同時に、自分がどれほど幼かったか思い知らされたの。頑張らなきゃって思ったわ。子どもの時間は終わったんだって、王女としての務めを果たさないといけないんだって思った」
でも、頑張れば頑張るほど、周りは次を求めてくる。
「出来ることが増えると嬉しかったわ。でも、要求はどんどん増えていくの。アーデン様の妃になるのだからこれくらいはやりましょう。やってみましょうって……」
そして勝手に失望するの。想像と違ったと、扉の影でため息を付かれる。
「出来ないときに向けられる視線が怖いのよ。アーデン様は事あるごとに「出来ないのなら出来ないと言っても良い」って言ってくれるけど、それって、私に「期待していない」って言ってるのと同じよね?」
あれ程アーデン様がこだわっていたマナーの指導も、勉強の指南も、今ではパッタリ止んでしまった。
「アーデン様にとって、この婚約は、政略で、契約で、同盟で」
私は顔を上げて彼女達に微笑んで見ようとしたが、上手くいかず、涙が静かに一筋流れた。
「そこに私はいないの。いるのは、彼に見合うお妃様だけ……」
静かで、従順で、いつもニコニコ笑っていて、賢く美しく、聡明なお妃様。
「それに私は成らなくちゃいけなくて、成るために頑張って……頑張って、認めてもらえれば、私のことを好きになってくれると思ってた。でも、でも……」
―――そうよ、気づいていたじゃない。
「私の気持ちはあの人に届かないの。全然。欠片も、微塵もよ」
泣きながらのどの奥に溜まっていた言葉を吐き出すと、以外にも頭がスッキリしてきて、自分が何で1番悩んでいたのかが分かった。私は、他の誰かに認められるのではなく、彼に認めて欲しかったのだ。『私』という1人の人間をーーー
「王女という肩書きがない『私』に、一体どんな価値があるというの? ……何もないじゃない。本当に、何も無い……」
たどたどしく呟いたあと、頭に浮かんだのは風紀委員長の姿だった。
「彼女が羨ましい……」
(皆に必要とされる、彼女が……)
風に揺れる木の葉の音が、耳に良く聞こえる程あたりは静かだった。私は踵を返して、彼女達と距離を取ろうと思った。しかし、それは肩を強く掴んできたスーレーンによって阻まれた。
「逆よ、クシャーナ」
「……え?」
ふざけた雰囲気を一切まとわず彼女は告げる。
「王女という肩書きは、貴女が思っている以上に、価値あるものよ」
そう言うとスッと私の肩からスーレーンは手を離した。私が彼女と目を合わせると、スーレーンはおだやかに笑った。
「それを忘れてはいけないわ」
アーデン様はその後「末端貴族の現状を聞くのも1つの勉強」と言って、ノイン・ショーン嬢と私を引き合わせた。その時彼女は私の目の前で手作りのお菓子をアーデン様に渡すのだがーーーアーデン様はそれを「ありがとう」と言って受け取り中身を砕いて庭に放る。私とショーン嬢があっけにとられていると、しばらくして小鳥達が集まりクッキーの欠片をついばみはじめた。笑顔でショーン嬢に「優しいんだね」と言うアーデン様に、私は新たな一面と恐怖を感じるのであった。
ショーン嬢と2人っきりと言うことはないのだが、事あるごとにアーデン様は私に話を通してきた。
本当に、あの日が来るまで……彼は『良く出来た』私の婚約者だった。
~アーデンの魚愛~
スミス「殿下! 赤潮が発生して海産物にダメージが起きているようです!」
アーデン「何だって…? 今すぐ現場に向かわなければ! カーダシアン! 馬の手配を!」
カーダシアン「畏まりました」
ス「え? ええ?! 今すぐですか?」
ア「当たり前だ! 明日から腸詰めになったらスミスのせいだからな!!」
ス「え? ソーセージおいしいじゃないですか??」
ア「私は血のソーセージも腸の食感も苦手なんだ」
ス「あ~……」
ア「海が荒れたら川に魚が登ってこなくなるじゃないか! 早急に向かう…!」
ス「…………ここまで魚好きだったとは…」