トラウマ
ティアさんにとって最初の試練です。
それはわたしがあと数十日で10歳の誕生日を迎えようとしていたある日のことだった。
この日もわたしは笛の練習のために件の広場に来ていた。
ロークとリズは、この場には居ない。わたしたちから時間をずらして遊びに来てくれることになっていた。
しかし、この日はいつもと様子が違っていた。
「今日は何か静かね・・・」
母がぽつりと独り言ちた。
母が言う通り、いつもは聞こえる鳥の囀り声も動物たちの鳴き声も聞こえない。それどころか普段は感じるはずの風のささやきすらない。まったくの無音の世界と化していた。
「なんだか、不気味だね」
わたしもつぶやいた。
何か悪い予感がした。
わたしは思わず母の大きな体に身を寄せ、ぎゅっと抱きついた。金色の滝のように流れる母の髪を触るのが好きだったわたしだが、今はそれを楽しむゆとりもなかった。母を見上げるとやはり同じように感じていたのか、緊張の色をその美しい顔に浮かべていた。
そんな感じだったから、わたしたちは何もする気になれなかった。ただただ手持ち無沙汰にその場にたたずむのみだった。
最初に異変に気付いたのはそれからさほど間をおかない後だった。村の方角からかすかな爆発音が聞こえてきたのだ。今にして思えば、あの音は火球がはじける音だったのかもしれなかった。
わたしたちはほぼ同時に村の方に顔をやった。わたしは再び母の顔をちらっと見た。母の顔はさらに厳しい表情になり、顔色は見たこともない蒼白なものになっていた。
それからの母の行動は素早かった。やはり冒険者としてやってきたが故の反応だろうか。
母はさっとわたしを抱きかかえると手近な草叢まで移動しわたしを下した。そこはわたしの肩くらいの高さまで草が生い茂り、わたしが身をかがめると頭まですっぽり隠れる絶好の隠れ場所だった。
「ティア、ママは今から村を救いに戻る。あなたは危険だからここで隠れていなさい!いいわね!?」
そういうや否や、母はつむじ風のように浅緑の服をはためかせ村の方に消えていった。
それから後というもの、村の喧騒は距離があったせいかあまり伝わっては来なかったが、時折聞こえてくる何かの爆発音が村を襲った緊迫感を表していた。わたしは恐怖感もありしばらくの間母の言いつけを守っていたが、やはり長い間隠れていると村や母がどうなっているのか心配になってくる。わたしは思わず母が消えた方向を見ようとわずかに首を上げた。
その時だった。
「ほう、こんなところにガキがいやがったか」
(しまった!)
ハッとしてわたしは声がした方向に恐る恐る顔を向けた。
そこにいたのは一人の大男だった。
パッと見は母よりもはるかに背が高い、身長170センチ以上あるだろうか。漆黒のような衣を身にまといその体格は村にいるいかなる男性よりも一回り大きく力も強そうだったが、それよりも特徴的なのは・・・
(ダークエルフ・・・!?)
その男性の肌の色が真っ黒だったのだ。それは夜の闇をも思わせるほどの、恐怖心を抱かせるほどの黒。
わたしは背中に冷たいものを感じた。ダークエルフはわたしたちが住むエルフの村に対して容赦がない。破壊の限りを尽くすのだと母に教わっていた。
しかし、かといって一体わたしはどうすれば・・・!?絶望的な思いで考えをめぐらせても目の前の男をどうにかする妙案が浮かぶはずもなかった。
男はその右手に剣を持っていた。その刀身は真っ赤に染まっている。血の色よりも真っ赤に不気味に光っていた。それは赤というよりは紅色ともいうべきものだった。それはもちろん母が持っている剣の色とは異なり、それどころかわたしが今まで見たことのあるいかなる剣の色とも違っていた。
(魔剣!?)
やがてあの魔剣がわたしに対して振るわれる時が来るのだろうか、そうなった時、わたしの一生は終わる。
(なんとかしなくちゃ・・・!)
そうは思っても体が動かない。どうしたら助かるのか、その知恵すらわかなかった。
わたしが逡巡している間にも男はゆっくりと、しかし確実にわたしとの距離を縮めてきた。
「ちょっと気が変わって本体と別行動をしていたが・・・まさかこんな獲物がいるとはなぁ」
男はそう言い放った。
やっぱりわたしを殺す気だ。
(ママ、助けて、お願い・・・!)
そう願っても、いま母は村を助けに戻っている。それはかなわぬ願いだった。
足が震える、いや体中が震えているのはやむを得ないところだろう。それでもわたしは視線をその男から外すことがなかった。神経を集中して男の一挙手一投足に目を凝らした。それは恐怖から来るものだけではなく、ちょっとでも生き延びる確率を上げるためだったというところもあっただろう。
やがて、剣を持つ男の右手が今までと違いピクリとした動きを見せた。
(危ない!)
わたしは危険を察知し、咄嗟に右に飛んだ。この動き、普段から母に剣術をつけてもらっていたからこそできたことだろうか。
しかし。
「いやぁぁ!」
左わき腹に激しい痛みを感じた。思わず叫び声が口から漏れ出てしまった。今まで体験した痛みを足しても余りあるほどの痛みだった。やがて腹回りがしびれ、体が重くなっていく。
「ほう、いかに手加減はしたと言え、あの攻撃をかわしたか」
男はそういいながらさらにわたしに向かって歩みを進める。その態はまるでこの状況を楽しんでいるようでさえあった。
しかし、わたしはもうそんな男に対して全くの無力だった。あと一度同じように剣をふるわれたら、今度こそわたしは死ぬ。
「ママ、助けて・・・ティア、殺されちゃうよ・・・」
今度は声を出して母に助けを請うた。
しかし男は鼻で笑いながらわたしに絶望的な言葉をかけてきた。
「お前の母親はあの村の住民か、しかし残念だな。もうオレたちの本体があの村を襲撃している頃さ。今ごろはもう皆殺しになっているかもなぁ?」
さらに男はこう続ける。
「お前ひとり生きていても仕方あるまい?今すぐお前も母親のところに送ってやる。感謝しろ」
そういい、男は剣を振り上げる。わたしは目をつぶった。もう覚悟を決めるしかなかった。わたし、生き続けることができなかったよ。ごめんね、ママ。
その時だった。
「グリン、何をしている!」
村の方角から別の男の声が聞こえてきた。黒肌の男は振り上げた剣を持つ手の力を緩め、声がしたほうに顔を向けた。
そして村の方角から別の男が姿を現した。グリンとか言う黒肌の男に声をかけたのはたぶんこの男なのだろう。
この男の肌も真っ黒だったが、背は母よりも少々高い程度で体つきも華奢だった。しかし今のわたしにはどうでもいいことだった。ひとまずこの危機が去ってくれさえすればどうでもよかったのだ。
「村の襲撃に失敗した!村人の中にとんでもない剣の使い手の女が潜んでいたのだ!もう大勢の仲間がやられ襲撃隊は撤退を開始した。じきあの女がこっちにやってくるぞ!あいつの手にかかったら我々でも危ないぞ!」
その報告を聞いた男はかすかに舌打ちをした、ように聞こえた。
そして男は構えていた剣を下におろすとすぐにこちらを向きなおし言い放った。
「お前、ティアとか言ったな?命拾いしたな!もしこの私が憎ければグリンの名を頼りに追うがいい!待っているぞ!!」
そして身を翻し森の外へと去って行った。それはまるで黒い疾風のような鮮やかさだった。
「グリン・・・ダークエルフ・・・紅い剣・・・」
わたしはその言葉を繰り返しながら遠のく意識と戦っていた。
それからの時間は実際にはもっと短かったのだろうが、わたしにとってはとてつもなく長く感じた。
その次にわたしにかけられた言葉はこの世で一番聞きたかった、一番たくさん聞いていた人の声だった。しかしその言葉は今まで聞いたことがないほどに切羽詰まったものだった。
「ティア!?」
「マ・・・ママ・・・」
わたしはその声がした方向に手を伸ばそうとした。しかし既に体を動かすことすらままならなくなっていた。
「ティア!動いたらダメ!」
母はそう叫び、手に持ったもの(たぶん母の剣だったのだろう)をその場に捨て、わたしのもとに屈みこむと、両手をわたしの左わき腹のそばに構え呪を紡ぎ始めた。それは今までわたしが聞いたことのないものだった。
するとみるみるわたしの体が熱くなってきた。特に左わき腹は蒸発してしまいそうに熱かった。
「ママ、熱いよ、熱い・・・」
言いながら、その熱さから逃げるように身をひねろうとしたが、
「ティア、動いたらダメ!」
同じ言葉が投げかけられた。しかしその声に涙が含まれていたような気がした。もしかしたら母は泣いていたのだろうか。
その時のわたしにはなぜそんなに切迫した声を上げるのかまるで分らなかったが、母の言うとおりにした。わたしは身をよじることをあきらめた。
その後も時折母の啜るような泣き声が聞こえたものの、少しずつ熱さも和らぎしばらくしてようやく治まった。左わき腹は、痛くない。その代わり激しいしびれのようなものと気だるさが残っていた。
わたし、助かったのかな?
そう思う間もなく、母はわたしを抱き上げ、
「ティア、ごめんね、ママは一番にティアのことを守ってあげないといけなかったのに・・・ごめんね、ティア、ごめんね、こんなママを許してね・・・」
激しく泣きながら謝罪の言葉を繰り返した。
(ママ、謝らないで。ママはわたしのことを助けてくれたじゃない)
しかしその言葉を声にすることはできなかった。わたしは返事の代わりに力なく母の体に腕を回そうとしたが、やがて深い眠りに落ちたのだった。
わたしは母のおかげで一命をとりとめた。しかしダークエルフに対してとてつもないトラウマを植え付けられた。わたしがこのトラウマを克服するのに長い年月を要したのだった。
この節は、特に後半は泣きながら書きました゜゜(´O`)°゜