プロローグ
ここはオルス王国の北端にあるミルドの街。同名の湖のほとりにある大きな街だ。王都ほどではないにしてもこの街では多くの人が住まい、人々の欲求を満たす市場も大きく、彼らの心のよりどころとなる神殿もある。そして魔術師を志す若者が集い勉学に励む魔術師学院もある。もっとも魔術師の街ともいわれるオルスの分院という位置づけであり、本院とは異なり小ぢんまりとした建物に構えている。
わたしはミルドの街を訪れていた。目的は、その魔術師学院分院の出張講義のためだった。
わたしは王都オルスにある魔術師学院で高級導師として後進魔術師の指導を行うとともに数人の一般導師の管理監督を行っている。とはいっても、数か月前に高級導師試験に合格したての新米高級導師だが。
過去にはミルドとオルスの街の間を幾度か往復したことがある。その時はいつも陸路での移動だった。自然と触れ合いながらの旅というものが好きなわたしであったので今回もそのようにしたかったが、今回は今までと異なり誰の付き添いもないたった一人での旅となる。いくら魔術師として実力があり剣も駆け出し戦士以上には使えるとはいえ、十何日もの間の女一人旅というのは心もとなかったので、「転移の術」という瞬間移動の高度魔術を使って移動してきた。高級導師は自由に転移先として使用できる部屋が与えられているのだ。
オルス魔術師学院では国の内外にある数か所の分院に年に1回、延べ6日間程度の出張講義を行っている。わたしにとりオルスの魔術師学院の所属となって初めての出張講義がミルドの分院。正魔術師になりたての時はこの分院に所属していたので、奇遇にも初めての出張講座がわたしの凱旋帰院ということになる。
わたしは魔術師学院で教えている古魔術以外に精霊魔術にもある程度通じており両者を絡めた講義を行っているが、今までの講座ではおおむね好評だったので今回はその経験を踏まえつつどのような講座をすれはよいだろうかと思案を重ねていた。
わたしには、ミルドの街に来て最初に行きたい場所があった。わたしは転移の部屋を出て廊下をまっすぐ進んだ。数人の魔術師がすれ違いざまに頭を下げたのでわたしも礼を返した。いずれも面識がある魔術師だった。玄関を出ると通りを右に曲がると、そこには小高い丘が見えた。ミルドの街と湖を一望できるこの丘の頂上が今の目的地だ。母とこの街に逃げ込むときに来てから、寂しいこと、つらいこと、忘れたいことがあるたびにここを訪れたものだった。
頃合いはだいぶ日が傾いてきてはいたが、日の入りまではまだ2時間前後はある様子だった。わたしは肩に白鳩の使い魔クックルを伴い丘のふもとからゆっくり上がっていった。一歩一歩進むごとにセミロングに切りそろえられたブロンドとダークブラウンのメッシュヘアが揺れる。実はブロンドとダークブラウンの髪の色は生まれつきのものであり、それぞれ母と父の髪の色を引き継いだものだ。以前はこの変わった髪の色で苦労をしたこともたくさんあったが、今となっては両親からのこの上ないプレゼントでうれしいという気持ちにすらなっている。
ゆっくりと、しかし確実に高度を稼いで行き、数十分ほどかけて上り切り街の方を振り返った。
「ミルドの街・・・なんて懐かしい。街並みも湖も、あの山もちっとも変ってないわ・・・」
湖を渡ってくる春の緑を帯びた風が心地いい。クックルも同じ気持ちだったのだろうか、クックル、クックルとのどを鳴らしている。
その時吹いてきた一層強い風に薄赤紫のローブとともに風がなびき、わたしの耳もあらわになる。その耳は人間のそれでもエルフのそれでもなく、その中間のような形をしている。わたしは人間とエルフの間に生まれた、ハーフエルフだ。
ミルドの街は、わたしが魔術師を目指すことになるきっかけとなる街。それだけに思い出もいろいろある。もっとも、つらい思い出も少なくはなかったが。そしてそのつらい思い出はわたしのハーフエルフという出自も少なからず関係している。
わたしは幼少のころ、母の生まれ故郷のエルフの村に住んでいたが、とある事件に巻き込まれわたしの出自も相まって母とともに村から逃げた。その時の経験もあって、もともとわたしが幼いころから母から習っていた精霊魔術と剣術のほかに、母とその旧知の仲である女性からわたしの力になればと古魔術を勧められた。そこで古魔術の勉学のためにミルドの魔術師学院分院の扉をたたいたのだ。
魔術師学院に入学するには多額の金が必要とされるが、幸いわたしに魔術の素養があることを認めてもらい、入学金は免除され授業料も格安の金額で受講することを許された。しかし、それでも多額の資金が必要だった。そこで精霊魔術と剣術を頼りに慣れない隊商の仕事をこなしたりして大変な思いをしてお金を稼ぎ、魔術師への道を歩き始めた。
しかし。まもなく正魔術師試験というときわたしはさらなる試練を迎えた。その当時の住まいを襲撃され、母と生き別れになってしまったのだ。わたしが生まれる前に父に別れを告げ故郷の村に戻った母の手一つで育ってきたわたしだから、唯一の肉親を失い絶望の淵に立たされた。
そこで冒険者となり母を探す旅に出てはという助言を件の母の友人からもらった。偉大な母と同じ道を歩むということに最初は戸惑いもあったが、彼女に肩を押してもらい冒険者稼業に身を投じた。そして様々な国を転々とする中でついに母との再会を果たした。冒険者稼業の中で魔術の腕も上達し、とんとん拍子に正魔術師から一般導師、高級導師と昇進を果たしたのだった。いま母は遠い西国のターフェルラントの街で国の精霊魔術顧問に就いていて、折に触れわたしの方が「転移の術」を使用し母の家を訪問している。
わたしはひとしきりその光景を堪能した後、懐から一本の笛を取り出した。母のものと対になっている横笛だ。まだ母と再会を果たす前はこのような見晴らしの良い場所に来ては笛を鳴らし母と会えない寂しさを紛らわしたものだ。
そしてわたしは笛を口元にあて、曲を奏で始めた。母がよく聞かせてくれて教えてもらったあの懐かしい曲。どれだけ寂しくてもつらくても、この調べを奏でるとわたしの心は不思議と落ち着いてきたのだった。母もそのような気持ちでこの曲を奏でていたのだろうか。
今は寂しさを紛らわせるのではなく、昔を懐かしんで笛を吹く。すると、幼かりし日々がつい最近のことのように思い出されたのだった。