月と胡弓
望月が浮かぶ闇夜の中、長く続く回廊を歩く人影が二つあった。
ここは都で一番広い屋敷を持つ皇帝が住む始延城。
始延城の中でも、さらに奥まっている、この場所は皇帝や正妃、側室、皇帝の子供たちが住まうところだ。
先を歩くのは年配の女官で、その後に続く弱冠十七になる皇帝の息子で太子霄黎である。正装している女官と、対照的に艶やかな長い黒髪を軽くひもで結っただけの軽装。
伸び続けていた儀式をするために、回廊を歩いていたのである。
「くだらない」
「儀式でございます」
問答無用と言った顔だ。
「十五でやるのだろう?」
「はい。ですが、太子様がお逃げになっておられましたので」
「儀式なんて、古臭い」
「太子様」
逃げ出そうかと模索していると、女官が窘めた。これまでの言動から逃げ出したいと言うのを感じ取っていたからだ。二人の間には長きに渡って、古木儀式をするために、いろいろな押し問答が、何年も繰り広げられていた。
儀式を行わせようとする女官、面倒臭いと駄々をこねて逃げ惑う霄黎。
二人の間に、小さな戦いが存在していたのだ。
互いに、熱い抗争が繰り広げられていた。
とうとう女官に捕まってしまい、儀式をするために回廊を歩かされていたのである。
(年の功か……)
恨めしそうに、背筋が伸びた背中を睨めつけた。
城内を抜け出そうとしたところに、待っていましたと待ち構えていた女官に、捕まってしまい、このような事態に陥ってしまったのである。
月を眺め、鮮やかに作り込まれている庭先に目をやる。庭園は先々代の皇帝が作らせたもので、歴代の名工の技術がふんだんに織り込まれた亭や池などがあった。
庭先にある黒いものに、視線を走らせた。
庭の雰囲気に、そぐわない屈強な武官たち。
回廊の周辺は、逃げ出さないように、手負いの武官たちが配置されていた。
何度も逃げ惑っていた経緯があったのだ。
チラッと武官たちに視線を送る。
煌々と射す月の明かりで、武官たちの軽装の鎧が鈍く光っていた。
霄黎の腰回りに、武器になるものが一切ない。
白い夜着しか、身につけていなかった。
逃げようにも、無理な状況だ。
諦めの境地で、嘆息を零した。
「よい心掛けでございます」
勝利を得たように、ニンマリと笑った。
女官が持っている明かりだけで歩いていると、一つの部屋の前で立ち止まる。
「ここか」
「さようでございます」
腹を括った霄黎が頷く。
女官が扉を開け、部屋へ入っていった。
内装は他の部屋と比べると、とても簡素で寝台、卓、椅子、空間を彩る花があるのみだ。そして、寝台の上に、薄い夜着を身に纏った目隠しをした少女が腰掛けている。
その異様さに、微かに顔を強張らせる。
少女がいることは承知していた。
儀式には不可欠だったからだ。
まさか目隠ししているとは思ってもみなかった。
太子が行う儀式は、同衾の儀と言い、成人になった太子が選ばれた生娘と共寝をするものである。
「なぜ、目隠しだ」
部屋に入った第一声だった。
「規則でございます」
胡乱げな霄黎に、女官が答えた。
その顔は当然のことだと言う顔で、元々乗り気ではなかった儀式に、さらに尻込みしてしまう。
辛うじて額に手を置きたい衝動を押し止める。
「規則って、このままするのか」
「はい」
黙り込んでいる霄黎に、淡々と女官が説明し始める。
「太子様のお顔を拝見しないようにでございます。これも歴代の太子様がしてきたしきたりでございます」
胸を張って、堂々と口にする説明に、自分の父親もしてきたことかと思い巡らす。そして、よくこんな真似して、できたものだと感心してしまった。
「顔ぐらい」
「太子様」
「俺の顔ぐらい、ここにいる者たちも知っているだろうし、外の者たちも……」
嫌がる霄黎に、女官が目を細める。
「規則です、太子様」
「わかった、わかった」
押し問答を続けていても、埒が明かないと、それ以上何も言わない。
「では、始めましょう」
「……」
訝しげな顔で、女官を見る。
いっこうに退室しないのだ。
「ここにいるのか?」
「ご指南するためです」
真面目な表情のままでいる女官は、指南する役割を持っていたのである。これも儀式の通例だった。儀式を把握していたつもりでいたが、共寝の最中に付き添うことまでは知らなかった。
あまりの事態に、愕然とする霄黎。
「太子様?」
飛んでいた意識が戻ってくる。
「気が散る」
「なりません」
「逃げ出すぞ。どんなことしても」
目を細め、厳しい女官を睨む。
静寂の中で、無言の戦いを交わした。
「……わかりました」
今度は女官の方が譲った。
足音を出さずに、目隠しの少女に近づく。
「太子様に無礼のないように」
従順に女官の指示に頷いた。
女官が霄黎の方に身体を向ける。
「では、下がれ」
「畏まりました」
深々と頭を下げてから、部屋を出て行った。
部屋は霄黎と目隠しの少女だけだ。
二人の距離を霄黎がつめた。
「女官はいない。その目隠しを取れ」
「ですが、規則……」
「俺が言っている。早く、その目隠しを取れ」
真摯に、規則に従おうとする目隠しの少女にうんざりする。
恐る恐ると目隠しを取った。
目隠しの中から、現れたのは大きな黒曜石のような瞳だ。
その瞳に怯える色がない。
まっすぐに黒い瞳が目の前に立つ霄黎を見据えていたのである。
(面白い女だな)
興味が湧かないと思われた少女に、僅かに話してもいいかと気持ちが揺れ動く。
小さな卓の上に、酒が用意されている。その脇に小さな小瓶も置かれていた。
用意周到な女官に呆れてしまう。
小瓶の中を、瞬時に把握したのである。
はたして、目隠しの少女はこの小瓶の中身を知っているのか疑問が流れ込む。
視線の先を、もう一度少女に注いだ。
「名前は? 偽りの名はよせ。お前の本当の名が知りたい」
一拍の間を置いてから、ぷっくりと膨らむ唇が動く。
「彩蘭でございます」
「年は?」
「十五でございます」
「これからすることを知っているな」
「はい。伺っております」
「じゃ、好きにしろ」
大きな瞳は、パチパチと瞬きをくり返す。
彩蘭にとって、予想だにしていない言葉だ。
「彩蘭が寝たければ、寝ればいいし、起きていたかったら、起きててもいい。彩蘭の好きにしろと言っている。俺は彩蘭に手を出さない」
「儀式は?」
「したと、女官には言っておけ」
半信半疑のままで、いいのですかと尋ねた。
「いいも悪いも。くだらないと思わないか?」
わからないと言う顔で首を傾げる。
「この儀式だよ。彩蘭がやりたいと言うなら別だがな」
きょとんとした表情で、霄黎の言葉を考えた。
「太子様がいいと言うなら、私は結構です」
「そうか」
先程まで重苦しかった心が、僅かに軽くなり、室内を見渡した。
朝が来るまで出られないので、何かないかと巡らしたのだ。
暇を持て余している様子に、優しく微笑みを浮かべて彩蘭が声をかける。
「胡弓でもいかがですか?」
「弾けるのか」
「はい」
「では、頼む」
寝台の近くにある胡弓を取り出す。屋敷から始延城に入る際、持ってきた愛用の品だった。
寝台に霄黎が腰掛けた。
椅子に腰掛け、彩蘭が胡弓を構える。
「何か、聞きたい曲はありますか?」
「そうだな……『夏蛍悲恋』」
「わかりました」
弾き始め、美しい音色が部屋中に響く。
霄黎は静かに耳を傾けた。
これほどの腕を持つ演奏を聞くのは久しぶりだった。それほどに胡弓の腕前が素晴らしいものだった。
張りつめていた糸がぷっつりと切れ、心がゆっくりと開放されていく。
心に浸透していく演奏が、あっという間に終わった。
「つたない演奏でした」
「いや。上手いものだ」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
演奏の余韻を、まだ堪能している霄黎を見入っていた。
堕落していると言う太子の噂や、いくつもの浮き名を下々の女と流している霄黎から、想像がつかない楽曲を指定してきたからだ。そして、それらのことを鑑みても、同衾の儀を断るとは思ってもみなかった。
儀式をしなくてもいいと言うありがたい申し出ではあったが、霄黎の言動に不可思議さを感じていたのである。
「どうかしたか?」
「いいえ」
「構わない。言ってみろ」
「どうして、儀式を行わないのですか?」
それなりの覚悟の上で、儀式の相手を了承した。それが儀式をしなくていいと言われ、拍子抜けしてしまい、なぜ?と言う疑問符が生じたのである。
「理由か?」
小さく霄黎が笑う。
コクリと頷いた。
「面白いことを聞くな」
「そうでしょうか。私としてはしなくいいと言われて、嬉しいのですが。やはり、どうしてなんだろうと気になります」
胸にあった疑問を、素直に口に出した。
「嬉しいか。正直だな」
「すいません」
「いや、いい」
太子に対して、正直に答え過ぎたと反省した。
「俺には同衾の儀をする必要性がない」
首を傾げた。
「十一で、すでに経験した。する必要性ないだろう? 女には不自由していない、噂の一つや二つ聞いているだろう? それにだ、人に縛られるのが嫌いなんだ」
「十一ですか。随分と、早い経験ですね」
「そうか。この辺にいると女どもは、俺の顔や俺の地位に引かれて、簡単に寄ってくるぞ」
「そうなんですか」
真面目に彩蘭が返事した。
「お前は興味がないか? 俺の顔や俺の地位に?」
少し間を置いた。
「確かに太子様の顔は綺麗いですが、興味がありません」
その姿勢に、さらに興味を抱かせたのである。
「興味がないなら、お前はどうして受けた?」
「家が没落貴族なのです。名ばかりの貴族なので、屋敷の中は火の車です。ですから、家を助けるために、この話を了承したのです」
「そんなに貰えるのか」
逆に、目を丸くしている。
「お金もいただけますが、それなりの貴族の方に嫁げますから。それに小さな弟には後ろ盾になる人もいませんし。ですから……」
「ああ。そう言うことか」
同衾の相手を務める少女は、城内で室を与えられて、人の出入りを四ヶ月禁止されてから、城を出て有力な貴族の男のところへ、嫁ぐことになっていた。たった一回で、太子の子を身籠る可能性もあるので、四ヶ月だけは人との接触を禁止されているのである。
「相手は決まっているのか?」
相手の男に興味がなかったが、話の流れで何となく聞いただけだ。
「はい」
「誰だ」
「それは……」
「規則で言えぬのか」
肯定した返事に、無性に誰かと興味を惹かれる。
口を結んだまま頷いた。
「太子の命令だ。言え」
強い口調で問い質した。
鋭く厳しい視線。
「黄賢流様です」
「賢流……。若手の中でも有望株と聞いたな。それにかなりの野心家だと聞いた」
逡巡していた頭の中に、一人の男の顔が浮かぶ。
最近よく耳にする名だった。貴族としての地位は、それほど高くはないが、そこらにいる貴族たちよりも金持ちで、賢流は金と知でのし上がってきた男であり、若手の中では頭が抜き出ている存在なのである。
「その通りです。都の中でも、そう囁く者が……」
「外に出るのか」
「はい。先程も申した通り、家が名ばかりの貴族なのですから。外はいろいろと安いものも手に入りますし、いろいろと便利なものです」
貴族の娘が外へ出歩くとは面白いと抱く。
普通の貴族の娘ならば、外に出ないものだからだ。ましてお供もつけずに外に出るなんて考えられないことだった。
「別な曲でも、いかがですか?」
「さっきのがいい」
「お好きなのですね」
「そうではない」
霄黎は窓の外を眺めた。
「望月に合うと思ってな」
同じように、窓へ視線を傾けた。
黒い背景に、くっきりと輪郭が浮かび、月の白さが際立っていたのである。
「綺麗ですね」
「演奏をしてくれ」
「わかりました」
希望した『夏蛍悲恋』を弾き始めた。流麗な音色と共に、鮮やかな月がより一層美しく輝いているようだった。
辺鄙な場所に室を移されて、彩蘭が一人で決められた四ヶ月を過ぎるのを待っていた。幾人かの若い侍女たちが、日に何度か訪ねる程度で、人の出入りが少なかった。
部屋は厳しく出入りが制限されていたのだ。
退屈な日々を、広すぎる部屋で過ごしていたのである。
袖をまくっていると、突然の声で驚く。
「何をするのだ」
声の主の方に、顔を傾ける。
窓から物珍しいものを見るような眼差しで眺めていたのだ。
「太子様」
予期せぬ訪問者に、目が見張る。
彩蘭がいる部屋は、男子禁制だった。
数少ない部屋の出入りは、侍女の女性だけだ。
「そのように、驚くこともなかろう」
「ですが、ここの出入りを禁止されているはず」
「規則なんて、面倒だ。俺は太子だぞ、このくらい構わん」
儀式の時に会った彩蘭に興味を憶え、彼女に会うために部屋を調べさせて訪ねてきたのだった。それに彼女が奏でる胡弓の音色も会いたい理由の一つだった。
無邪気に笑う姿に負けてしまう。
「困った太子様ですね。で、何か御用ですか?」
窓から部屋の中へと、勝手に侵入していく。
「表から入ったら、いかがですか」
「人に見つかる」
窓から降りやすいように台を探して、窓の下にそっと置いた。
侵入した霄黎は、興味津々と言う顔で室内を一通り見渡す。
「ここだけか? だったら随分と狭い部屋だな」
「部屋はここだけです。私にとって、とても使いやすく広い部屋でございます」
「そうか。ならいい」
穏やかに微笑む彩蘭に視線を注ぐ。
「彩蘭。何をしようとしていた」
袖を途中までまくり上げている姿に、目を止めていたのである。
不可思議な表情を浮かべる霄黎、きょとんと霄黎の顔を凝視している彩蘭。
霄黎の視線の先に、ようやく何を尋ねたのか把握したのだ。
「掃除をしようかと」
「掃除? その格好でか? 侍女は来ないのか?」
素朴な疑問を投げかけた。
高価な上衣で、まずいわよねと改めて自分のいでたちを認識する。
(ここを出る時に返さないと、まずいわよね。売ったら、いいお金になりそうなんだけどなぁ……)
「してくれますが、暇を持て余しておりましたので……」
「暇か」
「はい。書や水墨画を書いておりましたが、時間が長く感じまして」
ここに来てからしていたことを、素直に話し聞かせた。
貴族の娘として生まれたが、生まれた時より家が没落していたので、身体を動かすことの方が得意だった。貴族の娘としての教養は、お金が掛かる教師からではなく、父や亡き母から、すべて教えを受けていた。貴族の娘として、恥ずかしいところがないぐらいに、豊富な教養は持っていたのである。
「侍女がすることまで、やっていたのか」
「はい。でも、楽しいものですよ」
清々しいほど、すっきりとした表情だ。
(何ていい顔している)
「彩蘭の顔を見ていたら、そうなんだろうな」
「私の顔ですか?」
どんな顔しているのだろう?と首を傾げる。
そんな仕草が愛くるしいと見惚れた。
「苦と思うところがない。楽しそうな顔をしてる」
「そうですか」
話もひと段落して、別なことを口にする。
「彩蘭、茶を頼む」
「わかりました」
茶器を取り出し、鮮やかな手さばきで、お茶を二人分淹れた。部屋に一通りのものが揃っていたのだ。
部屋の中にさすがに酒が用意されていないだろうと先読みして、部屋に用意されていると思えたお茶を求めたのだった。
椅子に腰掛け、淹れてくれたお茶を飲む。
卓を挟んで向かい合う形で、彩蘭が椅子に腰掛けた。
「太子様……」
「霄黎でいい」
意外な申し出に、目を丸くする。
彩蘭の次の言葉が予想できた。
だから、先手を打って、彩蘭に言わせないようにする。
「霄黎だ」
「……霄黎様。お仕事の方はよろしいのですか?」
「前にも話したが、俺には興味がない。勝手に皆で決めるだろう。だから、俺はここにいていい」
そんなふうに話す姿に、思わず苦笑してしまう。
「ですが、霄黎様を必要と……」
「言ったはずだ。俺は必要ない。それより、彩蘭。胡弓を弾いてくれ」
ずっと頭に彩蘭の胡弓の音色が残っていた。無性に聞きたくなったので、軟禁状態になっている彩蘭に会いにここまで訪ねて来たのだ。
意外な申し出に驚愕した。
「胡弓ですか」
「ああ」
愛用の胡弓の準備を始める。
その姿を、待ち遠しそうに眺めていた。
「『夏蛍悲恋』ですか」
「いや。別な曲がいい。あれは夜、聞く方がいい。気に入っている楽曲を弾いてくれ」
「わかりました」
好きな楽曲を、霄黎のために弾いて披露した。
黙って耳を澄ませて、彩蘭が奏でる胡弓の音色に聞き入っていた。
静かで穏やかな時間を二人は過ごす。
隔離されている部屋を訪ねて以来、霄黎は密かに昼夜問わずに、部屋に訪ねて来るようになっていたのである。
白く輝く月が出る夜中、彩蘭の部屋の窓がゆっくりと開く。
怖がることなく、真夜中の訪問者を出迎えた。
「霄黎様。訪ねてくださると思いました」
月が綺麗な日は必ず訪ねて、彩蘭が弾く『夏蛍悲恋』を堪能していたからだ。
いつものように窓から侵入し、薄暗い部屋の中で慣れたように歩く。霄黎が来ているからと言って、部屋に明かりを灯せない。
それは霄黎が来ることは、二人だけの秘密だったからだ。
窓の下には踏台が常に置かれていたのである。
部屋に訪ねて来る侍女たちは、窓の下にある踏み台に不思議がっていたが、片づけようとする侍女たちに、そのままでと頼んでいたのだ。
「よくわかったな」
「月が綺麗でしたので」
「そうか」
侵入した窓から美しい月を眺める。
定位置に座って、月を眺めることがいつもの行為だった。
胡弓の準備をする前に尋ねる。
「酒の用意もしてあります」
「よく用意できたな」
僅かに驚く。
「少しお酒をいただきたいと、侍女の人に頼んでおきましたので」
小さな気遣いに顔が綻ぶ。
いつ訪ねてきてもいいように、茶菓子や茶の用意がされていたのである。
「では、頼む」
「はい」
慣れた手つきで、酒の用意をし始める。
別な卓の上に、一つの文があるのを見つけた。
「文か?」
何気ない呟きに気づき、誰からの文かを明かした。
「家令からです」
「父ではなく、家令なのか」
「心配性なもので。父や弟の様子、屋敷の近況などを知らせてくれます」
「心配性か」
「はい。そうそう、稼ぎがいいものですから、妓楼で胡弓の演奏をしてお金を稼ごうとしましたら、それだけはやめてくださいと懇願されまして……本当に心配性で」
家令の意見に、もっともだと賛成したが、それを口に出さない。
(妓楼で働くとは……。のん気と言うか、世間知らずと言うか。やはり貴族の娘か、世間に疎いな)
酒の用意も終わり、彩蘭が卓の上に出した。
「では、いただく」
固定席となった椅子に、胡弓を手にして腰掛ける。
霄黎が何も言わなくても、気に入っている『夏蛍悲恋』を弾き始めた。
酒を飲みながら、窓から見える月を眺める。
必ず聞く際は眺めていたのだ
胡弓を弾きながら、月を眺めている霄黎を見つめていた。
とても物悲しい表情を覗かせている。
この曲を聞くたびに。
他の曲では、このような物悲しく、愁いを帯びた表情をみせない。
だから、どこか気になっていた。
夜の訪問の時しか、『夏蛍悲恋』を所望しなかった。昼間の訪問の際は、別な楽曲を提示し、決して聞こうとしなかったのである。
名残惜しい気持ちが残る中で、心地いい音色が終わる。
「上手いな」
「ありがとうございます」
酒に口をつける。
「霄黎様。どうして、この曲が好きなんですか?」
酒を飲んでいた手が止まった。
誰に対しても本心を隠していた霄黎は、出逢った彩蘭だけには、偽りない気持ちを打ち明けていたのである。
「亡き母が弾いていた」
「胡弓が弾けましたの?」
「ああ。彩蘭ほどではなかったが、それなりに上手かった気がする」
一つの疑問が解消され、優しく微笑んだ。
「私なんて、まだまだです」
「謙遜するな」
霄黎が笑った。
「優しいお方だったのでしょうね」
「さぁな。よく憶えていない。母上はよくこうして綺麗な月が出ている時に、『夏蛍悲恋』を弾いていた。それもこっそりな」
「そうだったんですか」
「ああ。だから意味なんてない」
母親の死後に、こっそりと胡弓を弾いていた理由を知った。その時に母親は女だったのだなと思い知ったのだ。
「いいえ。きっと霄黎様は、お母様と同じような気持ちで味わいたかったのです」
「……」
何気ない言葉に、衝撃を受けて目を見張っている。
そんなこと、一度も考え浮かばなかったのだ。
「……そうかもな」
「そうです」
まっすぐな眼差しだった。
それを霄黎が見入っていた。
「もう一つ、よろしいですか?」
「何だ」
「どうして、仕事をなさらないのでしょうか?」
「……」
離れた場所にいても、城内で流れてくる噂は届いていたのである。太子としての仕事もせずに、遊び回り、城内を抜け出しては妓楼などに通っていると、太子には相応しくない話を耳にしていたのだ。
霄黎と会い、話すたびに、博識であることに驚かされていた。どうして何も動こうとはしないのだろう、霄黎様にはできるはずなのにと、思う気持ちが芽生えていたのだ。
「霄黎様は素晴らしい才能の持ち主だと思います。こうして何度もお会いして、そう思いました。人を見る目、市の現状の詳しさに長けたところもあるのに、それを活かそうとはしない。どうして、自分の能力や、太子として立場を利用されないのですか? きっといい太子様になります」
一点の曇りがない表情で、そのまま伝えた。
「……買いかぶりだ。俺にはそんな力がない。それに好きで太子になっている訳でもない。俺は堕落している太子に過ぎない」
「違うと思います」
自信満々に、否定したのである。
逆に、その自信がどこから来るのだろうと過ってしまう。
「違わない。太子なんて好きなやつがやればいい」
「選ばれたのは霄黎様です」
きっぱりと断言する彩蘭が食い下がらない。
食い下がらないどころか、さらに突っ込んでいった。
黒曜石のような綺麗な瞳に、吸い込まれそうな感覚を憶える。
「自分で選んだ訳じゃない」
「確かに霄黎様自身が選んだ道ではありません。でも、天から選ばれて、この世に生を受けた訳じゃないですか。これは凄いことです、誰にも真似できることではありません。霄黎様しか、できなかったことです」
「他の人間を選べばいい」
乱暴に吐き捨てた。
「霄黎様が選ばれたのです」
食い下がらない彩蘭に、徐々に苛立ちを憶えていく。
「……。では、聞く。どうして、俺の相手になることを決めた。彩蘭だって、好きでここに来た訳ではあるまい。そう言っていたではないか」
「確かに好きで、来た訳ではありません」
はっきりと認めた。
「霄黎様の相手に選ばれて、私はこう思いました。これは私が天から貰った天命なんだと。これを受け入れて、どうだ、私はこうして天からの天命をやってのけたぞと言ってやろうと思いました」
屈託のない笑みを零す。
「……」
彩蘭の話に意表を突かれて、返答をするのも忘れてしまった。
「だから、ここへ参ったのです。天にやってのけたぞと、自慢したかったものですから」
嘘偽りのない表情が垣間見えた。
彩蘭なら、そうするだろうと目の前の姿を眺めてそう思えた。
ふっと、霄黎が息を吐く。
「……凄い女だな」
「そうでしょうか。何事も後ろ向きになってはいけないと、亡き母から教わりました。自分の天命を受け入れて、しっかりと前を向いて、天に向かって、堂々としてなくてはいけないと」
「面白い母親だったんだな」
しばらくの間、彩蘭は亡くなった母親の姿を思い浮かべていた。
「そうかもしれません」
彩蘭は母親が父親と結婚したいきさつを語り始める。彩蘭の母親は周囲が反対する中で、花鳥風月を愛するだけしか能がない父親と結婚した。
「面白く、頼りになる母でした」
「いい母親だったんだな」
「はい」
「俺はそう思えない。太子と言う立場が面倒なのだ。やりたい者が……」
「天が選んだのは霄黎様、お一人でございます。他の誰でもありません、霄黎様なのです。天に向かって堂々と、お前が天命を下した太子と言う立場を、天命以上に素晴らしくやったぞ、どうだ、悔しいか、何か言ってみろと問うてみたらいかがです?」
「……俺には無理だ」
霄黎が目を伏せた。
のほほんと、面白おかしく暮らしたいだけだった。
汚く渦巻いているところには、もういたくはなかったのだ。
「……霄黎様」
「彩蘭は強い女だな」
「私は強くはありません。ただ、まっすぐ前を見て、下された天命をやってみせたと、堂々と言ってみたいだけです」
「それを強いと言うのだ。どれ、もう遅い、俺は帰る」
いつもより、長居をしていた霄黎が窓から出て行ってしまった。
それ以降、部屋を訪ねることはなかったのである。
珍しく朝の議会に霄黎が顔を出していた。
誰もが正装している姿に驚きを隠せない。
正装でいる姿さえ、珍しいことなのに、議会に顔を出したことに、長官やその部下たちの驚愕は、半端なものではなかったのである。
太子になってから、数える程度しか、議会には顔を出していない。
驚くのは当然のことだったが、驚く長官たちの姿に辟易して、出るのではなかったと少し後悔していた。
でも、今回の議会に出たかった。
「いかがされました」
一人の年配の男が尋ねた。
「別に」
面倒だと嘆息を漏らす。
「顔を出せと、お前たちがうるさかったのであろう。だから、こうして出たまでだ。何か出たら文句でもあるのか」
不機嫌そうに答えた。
「いいえ……」
恐縮している年配の男から、視線を外す。
彩蘭に言われて、何日も考えていた。けれど、今一つ彩蘭の言葉を受け入れられなかった。考えた末に、彩蘭の夫となる男を見るために議会に顔を出したのだ。
上席に座っている霄黎の席から、離れた位置に座っている賢流の席に、そっと視線を注ぐ。
事前に賢流が座る座席を調べさせていた。
評判で聞くように、端整のとれた顔して、どこか知性も感じられた。
(あれが彩蘭の夫になる男か……)
その瞳の奥に、大きな野心があるのだろうと思わせる印象を抱く。
霄黎の出現で、議会の初めは紛糾していたが、その後は何の問題もなく進んでいった。
議会が滞りなく終わる。
部屋に戻って、なぜか彩蘭の胡弓の音色が聞きたい衝動に駆り立てられた。
でも、聞ける訳ではない。
すでに四ヶ月の日数が過ぎ、屋敷に帰ってしまったからだ。
他の音色で、我慢しようと馴染みの妓楼に、足を運び、胡弓を弾かせたが、まったく心は落ち着かず、彩蘭の音色を求めてしまっていた。
「音色が……」
物思いに耽っていると、一人の武官が姿を現わした。
霄黎付きの武官だ。
「太子様」
視線だけ、武官に走らせる。
「わかったか」
「はい」
「で、いつだ」
「賢流殿の婚儀は、明日でございます」
「明日か」
微かに驚きの声を上げた。
馴染みの武官を使って、密かに彩蘭の暮らしぶりや、賢流のことを調べさせていたのだ。まさか、彩蘭と賢流の婚儀が、こんなに早いものだと思ってもみなかった。
「……下がれ」
武官が頭を下げ、静かに下がっていく。
部屋の中に霄黎しかいない。
人妻となった彩蘭の胡弓の音色を聞くのは無理に等しかった。
「もう聞けぬのか……」
寂しさが駆けていった。
空虚感しか残らない。
「しようがないか……」
それは幼い頃より、憶えた諦めの境地だ。
次の日。
いつものように、霄黎が部屋で堕落した時間を過ごしていた。
「音色がないな……」
脳裏に僅かに残る音色で空しさが癒されていたが、日数が経つにつれ、その効果は薄れていった。どんなに求めても、彩蘭が胡弓を弾く音色が手に入らない。
頭の中は彩蘭が胡弓を弾く姿でいっぱいになっていた。
昨日訪れた武官が、霄黎の部屋に顔を出した。
「太子様」
「何だ」
「本日、外にお出になりますか」
「いや、ここにいる。外に行く気分じゃない」
こっそりと外に出る時に、馴染みの武官を使って、外に遊びに出かけていたのである。けれど、今の気分は外に出かける気持ちにならなかった。
音色に飢えていたのである。
「わかりました」
下がろうとした武官を呼び止める。
「いや、待て。乗馬することにする」
「かしこ参りました」
簡単に着替えを済ませ、乗馬するために馬小屋に行く。
茶色の馬にまたがり、武官に声をかける。
「乗馬は取り止めだ」
「!」
「外に出る」
「太子様!」
武官が驚きの声を上げた。
乗った馬は物凄い速度で、城内を駆け抜けていった。
その頃、彩蘭は花嫁の支度を終え、輿に乗って、夫となる賢流の屋敷に向かっていた。都の人たちは花嫁行列だと、美しく彩られている輿に目を奪われていたが、そんな騒動は輿の中にいる彩蘭に届いていない。
城内にいた際より、さらに豪華な花嫁衣装を身に纏っていた。
それは賢流が金を出して、用意させた衣装だ。
花婿が待つ花嫁の顔に程遠かった。
「霄黎様、怒っているのかしら……」
か細い声で呟いた。
あれ以来、彩蘭の元に霄黎が訪ねてこなかった。だから、ずっと気にしていた。
言い過ぎたのではないかと。
「霄黎様だったら、いい太子様になると思ったのに」
彩蘭の思考は暇ができると、霄黎のことを考えていたのである。
自分の婚礼よりも、父や弟のことよりもだ。
「お会いして、謝りたいけど、そうもいかないし」
自分の婚礼の日だと言うのにだ。
「どうしたものかしら……」
会う機会がない上、運良く会えたとしても、気安く声をかけることができない立場だった。
急に輿が止まる。
輿の中から声を出す。
「どうかしたのですか?」
「それが……急に……」
「輿を開けなさい」
状況が掴めず、てきぱきと外にいる男に指示をした。
輿の入口が開く。
「どうしたのです。お父様」
輿から顔を覗かせると、先頭にいる父親が固まって立ち尽くしていた。
訝しげに、さらに先の方に視線を送る。
馬にまたがっている男がいた。
逆行で顔がわからなかったが、その男が誰か瞬時に認識する。
「霄黎様」
花嫁行列の前に、馬にまたがっている霄黎の姿があった。
か細い声は、先頭の方にいた父親まで届いていない。
「誰だ」
振り絞るような声で、父親が声を張った。
見知らぬ男に怯えきって、固まっていたのである。
けれど、大切な娘を守ろうと、必死に虚勢を張る。
「太子霄黎だ」
霄黎の言葉に、誰しも驚きの声を上げる。
城内に行くことがない父親が、太子である霄黎の顔をよく憶えていなかった。
「道を開けろ」
霄黎の一言で、一斉に輿までの道が広がる。
馬から降りて、輿に乗っている彩蘭に近づいていった。
二人の距離が目と鼻の先に縮まる。
「彩蘭」
「はい」
「お前は天命に従うと言ったな」
「はい」
「お前の天命は俺に出逢ったことだな」
「はい」
「だったら、最後まで俺の傍にいろ。そして、俺に胡弓を聞かせろ」
「……」
霄黎の言葉に、目を丸くする。
「それがお前の天命だ。天に言うのであろう、やってみせたと」
懐かしい霄黎の顔を見つめる。
「違うのか」
「……いいえ。その通りでございます」
「では、彩蘭の天命は何だ」
「私の天命は……、霄黎様の元に行くことのようです」
「そうだ。では、こい」
大きな手を差し伸べる。それに小さな手を乗せた。
呆気に取られたように、呆然と誰もが眺めているだけだった。
霄黎は彩蘭を馬に乗せ、自分も馬にまたがった。
「皆のもの、彩蘭は太子霄黎が貰い受けた」
誰もが呆然とする中で、二人を乗せた馬は走り出していった。
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