第二話 藤田先生
最悪な日だな、きっと。
朝寝坊して、藤田と早朝から会ってしまった。それだけで今日は最悪だと決め付けてしまうのも変なものだが、なぁんか嫌な予感がするような気がしなくもないような……。たまにある、曖昧な予感だ。ポイントは藤田だ。
藤田とは、一緒に下校こそするものの、登校時間まで同じくするほど親しくはない。学生にとって、下校が友達と一緒なのは、普通なのだ。部活が終わり、同じ場所から同じ時間にスタートし、家を目指す。ならば、帰り道が途中まででも同じというのなら、そこまで一緒に帰るのは必然。しかし、登校は、別々の家から、別々の時間にスタートし学校を目指す。目的が同じでも、出発地点も、時間も違う。よほど家が近くない限り、一緒に登校は、あまりしたくない。
うるさい藤田と、学校に来てからはほとんど一緒だ。クラスが違うからまだ授業中はいいものの、休憩になった途端奴は現れる。疲れるから、登校時間だけは一人で落ち着きたい時間だった。それが今日は侵された。これはきっと、何か悪いことの予兆だ。
朝のホームルームを終え、何もやる気が起きずに、授業の準備もせず机に突っ伏していた。藤田のいるB組の担任、確か、国語を担当している大下先生だ。あいつは遅刻に厳しく、校門には八時までに到達できた藤田も、教室についた時はとっくに八時過ぎ。今頃、大下先生に説教でもうけているに違いない。現に今、奴は来ていない。
シリアルのゴミを掴まされ、走り、叩かれた疲れをゆっくり座って癒していた時だ。
「どーしたの? 元気ないね」
目の前に現れたのは、彼女の春奈だった。ああ、君は唯一僕の疲れを癒してくれる太陽だ……、なんて、恥ずかしい台詞を口には出さず、物静かな雰囲気を醸し出して、古一は言う。
「ああ、春奈……。おはよう。今日は朝から疲れたよ」
春奈はツインテールの黒髪を揺らし、古一の机の前にしゃがみこむと、不思議そうに古一の顔を覗き込んだ。古一は、目をチラッと太陽に向けたあと、眩しすぎるとばかりに少し顔を離す。
「なにかあったの?」
春奈に問われ、古一は先程のできごとを話そうとして、やめた。「さっき藤田に会っちゃって最悪だった」なんて言うと、優しくて純粋な春奈に嫌われてしまう。自分は根暗な人間でも、他人から根暗と思われたくない、ということは、自分以外にもよくある……はず。当然のことなのだと、自分を納得させ、朝寝坊で走って、遅れて、竹刀で叩かれた部分だけを説明した。
説明を終えたところで、一時間目の始まりのチャイムが鳴った。
――ああ……、だるい。
確か一時間目は国語。あの大下先生の国語だ。きっと今までずっと説教。B組からここE組まで歩くと、国語の準備をするくらいの時間はあるだろう。「あ、バイバイ」と言って、春奈は、少し離れたところにある自分の席に向かった。春奈も準備はしていない。だが、きっと大丈夫だ、と、思った瞬間だった。
ズシン、ズシンと音が鳴る。確か、休憩に入った途端いつも聞いていた雑音だ。嫌な予感、的中してしまったみたいだ。
「おーしお前ら、国語始めんぞー」
藤田……。何故お前が入ってくる。意味がわからない。帰れ。今なら授業に遅れずに済むから! 大丈夫だから! チャイム鳴っちゃったけど、今、速く教室に戻れば、先生もきっとわかってくれるから! ていうか、大下の奴はどうした。藤田を見逃しおったか! 使えんやつめ。と、心の中で深く叫んだ。
「今の時点で国語準備してない奴、前に出なさい」
はあ? いやいやいや、何故そのままお前が仕切る。大下先生を監禁したってか。代わりにお前が授業するってか。クラスはざわついて、目立ちたがりな男子グループが、藤田に暴言を投げつけたり、笑ったりしている。ガキみたいだ、と、古一は心の中で鼻で笑った。
藤田はそれを完全無視。たまたま古一と目が合って、あ、古一、準備してないじゃん、と、手招きした。
これは行かなきゃいけないのか? 行った方がいいかな? 行かないと、ノリが悪い奴だと思われそうだ。何故か、さっきまで馬鹿にしたり、笑いまくってたりしていた奴らも皆、藤田にのって、こっちを見ている。
困っている古一を、なんとかして助けようと、動いたのは春奈だ。あの人は控えめな性格だから、前に出るか、出ないか困っているんだと。察した。
「ふ、藤田君。私もです」
苦し紛れのひと言だった。古一は春奈に感謝したが、それなら、なんで先生面しているのかと文句をつけてほしかった。いや、でもそれで、周りから春奈が敵視されるのもいかがなものだなと、後から思う。
「え? ああ、君もか。じゃ、一緒に出てきなさい」
藤田に言われるがままに、二人で前に立った。チャンスだ。藤田に質問する。
「な、なあ藤田。お前なんで国語やろうとしてんだ? 大下先生はどうしたんだよ」
微妙に震える声で、古一は訊く。え? と藤田は言い返し、ゴホンと咳払いした。
「大下先生は、二年の人から金の取立てされて、どっか行った。それをお前らに報せるよう言われてきた。まさか、本当に前に出るとは思わなかったけど」
――やっぱり出なくていいノリだったのか。
「藤田君、冗談にしてはちょっとやり過ぎだよ!」
――いや、そこで食い下がらなくていいから! とりあえずここは大人しく戻ろう! 愛想笑いふりまきながら席に着こうって! 春奈、危険な真似をするな!
「はっはっはー。席着いていいぞ」
よかった。春奈は何も起こさずに済みそうだ。と、思って一安心したときだった。
「あ、そーいや、お前の彼女ってこいつ?」
背中に、ツーンと寒気が走った。悪事を働いたとき、作業中に、背後に人が立っていたみたいな感覚が、背中中に走った。
教室全体から、やっぱりそうなのか、お前ら付き合ってたのか、彼女いないとか言ってたくせに、この地味カップルが、逝ってヨシ、と言う言葉がチラチラ聞こえてくる。古一と春奈は、藤田の方に目を向け、開いた口が塞がらない表情で睨んだ。
隠してたのにこのやろう。目立ちたくなかったのに。藤田の野朗、あっさり言いやがった。もともと、C組の幼馴染の小笠原退助にだけに明かした三人だけの秘密が、何故かコイツに知れ渡り、そこから今、クラス全体に知れ渡った。
黙りこみ、ただただこっちを睨む古一を見て、藤田は、あ、もしかして言っちゃいけなかったか、と、さらに気まずくなる台詞を連発してきやがる。もうダメだ。
「う、うん。何、皆知らなかった?」
ここは開き直るしかない! と、古一も春奈も目で合図し、言う。
「そ、そーよ! いつも一緒にいたし、皆知ってるでしょ? とっくに。隠すつもりだったけど」
「いや春奈、そこは言わなくていいから! 元々隠してなかったって思わせ……」
古一適にかなり小声で注意したはずだ。でも、一番前の席の奴には聞こえた。隠してたのか! と、それを聞いた奴が言いやがった。
「え!? 隠してたことを隠すの!?」
春奈ァ! 君は天然すぎるよ! でも可愛いから許す!
心の中で叫び、そのまま古一は床に倒れた。教室が大きくざわめき、藤田と春奈の、古一を気遣う声が、気を失う寸前に、古一の、ボンヤリした頭に響いた。