逆墨俣城方式後の混乱
東十条が近代的墨俣作戦を実行した後、その噂が日本各地に広まった。
「江戸は焼け野原になってしまったのかい?」
「それにしては、川下下町に立派なお屋敷があったが?」
「上方は大丈夫だった」
「何も残っておらん」
「全て川下に流した」
「捨てたのか?」
「羽柴秀吉の墨俣方式で、川上から川下に、一晩でとは行かなかったが、三日もすれば、立派な城下町ができていた」
「一家で来い。みんな呼んできてくれ。参勤交代だと思ってくれ」
東十条の誤算は、大衆の噂の広まり方を甘く見ていたことだ。
諸藩百藩、都道府県の各地から江戸住まいができると聞き、江戸を立て直そうと、建物用に角材や職人、荷駄に農夫が集まってきた。
東十条宮の縄張りに流入してきた関東大震災の難民たちの中には扱いに困るものもいた。
「おい、貴様ら」
東十条は、野菜を盗むもの、木を切り倒すものを注意し、事情を説明して回った。
「こんなに来てしまったよ」
「ちっとは考えろ」
聞けば、江戸までの道中、通りの茶店にお宿で、ひとしきり飲み食いしてきたそうだ。
後になればなるほど、道中の店の待遇が悪くなった
「東十条様」
「今度はどうした」
「米も野菜も足りません。冬場の燃料も、寝るところだって」
下町の人々が、衣食住を求めて上方へやってきた。
兵站を築かねばならなかった。
だが、平和呆けした日本人は、着物も食べ物も住処も有り余っていると思っていた。
扱いに困ったの現地調達主義の輩だ。
「おい、勝手に木を切るな」
「なんでぇ」
「この一本は誰かの命に等しい」
「自分の土地でもないくせに」
「いや、俺の土地だ」
さらに米野菜でも、
「おい、それまで食うな」
「なんでぇ」
「それは来年の種籾なんだ」
。
これだけの人数を養うには日本各地から食料が必要だった。
被災者の中には当然女の人も多かった。生活の足しになるのであれば、と衣服と物々交換をするものもいた。
「種を下さいませんか? 衣食住の衣類は、お譲りする余裕もあります。住居は先日目処が付きました。ただ、食べ物が足りません」
「俺の子種でよければ……って、痛いなぁ、お母ちゃん」
「全く下品だね」
「ほら、育て方は分かるんだろう? これを持って行き」
「ありがとうございます」
「そんなところで小便をするな」
「お前には関係ないだろ!」
「お前の小便でうちの畑が汚れる」
下水道が行き届いておらず、肥溜めを作って処理していた。
花摘み雉打ちは、軽犯罪法違反であるが、防ぎようがなかった。
戦後の混乱期、人糞の始末を誤れば、飢えてしまう。
新興宗教に頼らざるを得なかったのだろう。乱立する新興宗教は学園紛争の火種となったに違いない。
しかし、人糞の危険性を、適切に、教えるには、どうすればいいのだろうか?
「この菜っ葉は、お前の大便と小便を発酵させた堆肥を吸わせた出物だ」
とでも言うのだろうか?
「総員退避!!」
「ちと待ちな、こっちの牛肉ならいいはずだ。なにせ、例の菜っ葉をよく食っていた」
そんな下世話な話で心地よい食事が送れるものか。会話が弾むものか。
食物連鎖、一つ誤れば、暴力の連鎖が待っている。
「どうしてこんな馬鹿な工事をしてしまったのだろう?」
近代的墨俣作戦に後悔するのであった。




