第四夜 恐怖、再び
栄吉が赤と青の青年――紅蓮と雪夜に出会ってから、二時間が経過していた。
現在の時刻は翌日の零時半。栄吉は半ば無理矢理に二人の青年に連行される形であの"悲劇の家"の門前に呆然と立ち尽くしていた。
あの恐怖から奇跡的に生還できたというのに、またしてもこの家の前に立っているこの状況を疎ましく思うのと同時に、この二人の青年に対する不満は最高潮に達していた。
ところが栄吉のそんな憂いなど全く気にせず、二人の青年……もとい紅蓮と雪夜は、栄吉を挟んで"悲劇の家"を興味深げに観察していた。
特に紅蓮は緊張感ゼロに、あろうことか鼻歌を歌っている。そんな紅蓮を栄吉はせめてもの反抗心から睨みつけてやったが、意外にも、雪夜も同じ考えだったらしい。
「おい、紅蓮。うぜえ鼻歌なんか歌ってんじゃねえよ」
「んだよ。こういうドキドキ感が味わえるのは滅多にないんだぜ? 楽しい肝試しにしようぜ」
「ふざけんなこの野郎」
どうやらこの二人は別に仲がいいというわけではないようだ。二人は栄吉を挟んだまま睨み合った。
――こいつらは一体ここに何しに来たんだ。
栄吉は自分を挟んで殺気立っている二人に溜め息をついた。しかし、内心はこの二人のやり取りを見て、若干心に余裕ができてきていた。緊張感ゼロの二人に感化されてしまったらしい。
――気に入らないが、一応感謝しておこう。
栄吉は心の中でそう呟いた。
「なあ、社長さん。一年前にこの家を買った不幸な夫婦以外に、この家で死んだ人間はいないんだよな?」
「ああ。そのはずだが」
「ふうん」
紅蓮はようやく意味不明な鼻歌を止めたかと思うと、栄吉にそう確認した。
「そもそも、何でここの最初の住人たちは強盗なんかに狙われたんだ?」
今度は雪夜が聞いた。
「これはあくまで噂だが、殺された家族は、宝くじを当てて三億持っていたらしい。その金でこの家を購入したという話だが……その残りの金は全額募金してしまったために、全く残っていなかったとのことだ」
「へえ、よくできた家族だな。ちなみにどこの募金にだ?」
「確か……あしなが募金だったか?」
栄吉は淀みなく紅蓮のとりとめのない質問にも答えた。すると、雪夜はいぶかしむような目付きで栄吉を睨んだ。
「……おい、おっさん。随分とよく知ってるじゃねえか。調べたのか?」
「は? い、いや、その……私は自分で管理する物件はきちんと調べておかなければ気が済まない性分でね」
雪夜の鋭い指摘に、栄吉はまるで誤魔化すかのように答えた。
「そ、そんなことよりも、君たちはこの家の調査に来たんだろう? だったら早く中に入ったらどうなんだ。私はここで待ってるから、早く行ってきなさい」
まるでできの悪い生徒に言い聞かせる先生のような口調になってしまったが、それでも栄吉は早くこの二人から離れたかった。何か言い知れぬ恐怖をこの二人から感じたからだ。
しかし、二人は栄吉の思いなどどこ吹く風で、栄吉の両腕を左右からがっちりホールドした。これには栄吉も慌てた。
「な、何をするんだこのガキ共め!! 離さんか!!」
「口調が悪くなってるぜ、社長さん」
「逃がさねえぞおっさん」
結局、栄吉は引きずられる形で"悲劇の家"の門を再びくぐることになった。
***
「何度来ても薄気味悪いよな、この家」
紅蓮は見渡す限り真っ暗な家内を見回しながら、感心したような声で呟いた。その表情には、恐怖よりも興味の色が窺える。
そんな紅蓮を横目で見ながら、栄吉は恐怖に身を震わせた。
――こいつは緊張感が無いというより、ただの馬鹿なんじゃないのか。
栄吉は紅蓮の態度に心中でそう毒づいた。
今度は左隣にいる雪夜の様子をちらっと窺ってみた。
「……いやな感じだな。さっき来た時よりも気配が凄い」
雪夜は紅蓮とは対照的に、表情を不快げに歪め、意味深に呟いた。
――青い方がまだまともな感性を持っているな。……いや、待てよ。今気配が凄い、とか言ったか?
栄吉は不安げに雪夜を見た。しかし、雪夜は目を合わせることはなかった。
栄吉は途端に表現しようもない不安感に襲われた。一人ではないから大丈夫なのではないか、という根拠のない僅かばかりの安心感が、覆された気がした。
栄吉は思わず後退り、背を扉に預けた。それでも二人は動かない。不審な動きを見せた栄吉に、目もくれなかった。
「……雪夜」
「……わかってる」
二人の纏う雰囲気が変わった。辺りに唐突に緊張が走る。それが合図だった。
ぴちゃっ
「!!?」
あの、忘れもしない……というよりも決して忘れることができない、恐怖の音が家内に響いた。
栄吉は目を見開き、扉にもたれかかったまま硬直した。栄吉の目の前には、身構えた紅蓮と雪夜……そして二人の間から見える、血まみれの女がいた。
ぴちゃっぴちゃっ
女は長い黒髪で顔を覆い隠したまま、足を引きずるようにして、血を滴らせながら、真っ直ぐ栄吉たちに向かって来る。
栄吉はあまりの恐怖に、声も出なかった。目の前には、自分を助けてくれそうな青年が二人もいるのに、助けを請うこともできなかった。
ぴちゃっぴちゃっ
パニックに陥っている間に、どんどん女は近付いて来る。女は細く蒼白い両腕を栄吉に向けて突き出し、ゆっくりと歩を進める。
明らかに栄吉を狙っていた。
そのことに気づいた栄吉は、扉を開けて逃げようとドアノブを必死に回したが、前回と同様にびくともしなかった。
栄吉は絶望した。扉は開かないうえに、頼みの綱の紅蓮と雪夜は全く動かないからだ。
――いくら大口を叩いても、所詮はガキか。全然頼りにならないじゃないか。
栄吉は理不尽にもそう思ったが、生憎二人に直接文句を言う度胸も余裕も持ち合わせていなかった。栄吉は前を向いたまま微動だにしない二人を視界から外し、自分に向かって来る女を半ば諦めの入った気持ちで呆然と見た。
すると、
《どう……して……》
誰かの声がした。聞き覚えのない声だった。
栄吉ははっとして女をよく見た。が、髪に隠れて口元は見えなかった。
《……どう……して……殺……し……たの……》
また同じ声が聞こえた。ひどく悲しげな、そして怨みの籠った声だった。
栄吉はその声を聞いて、顔を真っ青にした。全身がガクガクと震え、今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「なるほどな。そういうことか」
女から目を離せず、ただ震えながら立ち尽くしていた栄吉は、肩を震わせながら笑いを堪えている紅蓮と、後ろから見てもわかるぐらいに呆れている雪夜を、やっと交互に見た。
紅蓮と雪夜は目の前の女を無視して、ゆっくりと栄吉の方に振り返った。
「社長さん、あんたがこの女を殺したんだな」