第三十三夜 不穏な影
しが無い小さな探偵事務所を抱える私立探偵ーー桂木照夫は、かれこれ四十年近くにもなる、腐れ縁がいる。
数年前までは、桂木はとある県警の刑事を務めていた。今でこそこんなくたびれた事務所を構えてはいるが、ちょっと前まではバリバリのベテラン刑事だったーーというのが本人の主張である。そんな桂木は今では刑事を退職し、浮気調査や人探しといった小さな事件を相手にするだけの、やけに眼光の鋭い中年親父となっている。
ここで冒頭に戻るが、彼には学生時代からの腐れ縁がいる。彼はその腐れ縁とは、できればすぐにでも縁を切りたいと願っている。この願いは今に始まったものではなく、実はこの何十年もの間抱き続けてきたものであった。
そして、どうやら"今回"も、その願いは叶いそうになかった。
***
それは、秋の終わりにさしかかった十一月中旬の出来事だった。
桂木探偵事務所の桂木照夫所長は、いつになく不機嫌な様子でソファに踏ん反り返って腰を下ろしていた。元々鋭い眼光である上に、彼の眉間には深いシワが刻まれ、不穏な気配を漂わせている。
この日の事務所は、臨時休業だった。普段だったら彼のご機嫌とりをしているであろう若い助手も、今日は特別に休暇を与えている。
それもこれも、桂木にとって嬉しくない客がやって来る予定だからであった。
「……遅え」
桂木はありったけの不満を込めて、低く呟いた。
彼の両足が乗せられたテーブルには、すでに山盛りの吸い殻入れが鎮座している。そしてたった今、吸いかけの煙草をもみ消そうとした。
その時だった。
「よお、元気か?」
聞きたくもない声が降ってきた。
桂木はしかめっ面で振り向くと、そこには見慣れた"赤の青年"が立っていた。
「てめえのせいで肺癌になりそうだ」
「それは困るな。これを機に禁煙しねえか?」
「それこそ逆効果だろうが」
音も無く事務所に立ち入り、愛想の良い笑顔を浮かべたその青年は、さも当たり前のように桂木の向かい側に座った。
その青年は驚くほど派手な外見だった。燃え盛るような赤毛の長髪に、これまた赤い瞳。その身を真っ黒なロングコートで包むその姿は、その整った容姿に反して不気味でもあった。
彼の名は、紅蓮といった。
「お前、俺のこと嫌いだろ?」
「よく分かってんじゃねえか。とっととくたばってくれりゃいいのにと思ってるよ」
一見冗談とも言える本音の応酬をしながら、二人の目は真剣味を帯びていった。そして一呼吸置いたあとに、紅蓮の方から話を始めた。
「俺のこと嫌ってるくせに、何で俺をわざわざ呼び出したんだ? お前から会いたいなんて言ってくるなんて、初めてなんじゃねえか?」
紅蓮は笑顔を浮かべながらも、訝しげに尋ねた。すると桂木は、芋虫を噛み潰したような苦い顔で答えた。
「俺だって、自分からお前なんかに会うなんて吐き気がする。だがお前のことは大嫌いだが、お前の"息子"の方は嫌いじゃない」
紅蓮には一人息子がいる。名前は雪夜。桂木からして見ると、紅蓮はその一人息子を親馬鹿とも言えるほど愛情を注いでいる。雪夜はこの紅蓮の息子ではあるが、桂木にとってはまだ好感が持てるタイプの青年であった。
すると必然的に、桂木の中での優先度は雪夜に比重が置かれることになる。
「ふうん……? それで? らしくもないこのお誘いには、雪夜が絡んでるっていうのか?」
紅蓮の表情から笑みが消えた。大事な一人息子が絡むとなると、流石の紅蓮も真剣になるらしい。
それに満足したのか、桂木は新たに煙草を取り出し、ライターで火を点けた。
「ここ最近、物騒な殺人事件が相次いでいる。それも、日本全国でだ」
「何を今更。殺人なんて今の世の中じゃ普通だぜ?」
「まあ黙って聞け。今から話すのは、まだ表には出ていないとんでもない事件だ」
桂木は紫煙を吐きつつ話を続けた。
「警視庁幹部がデカイ案件を持ってきた。どうやらお前らにどうにかしてほしいらしいぞ」
「へえ。サツからの依頼は久しぶりだな」
紅蓮は桂木から手渡されたA4サイズの茶封筒を受け取り、中身の資料に目を通し始めた。
ところが一枚目を見た瞬間、表情が強張った。
「おい、これはまさか……」
「……ああ。"奴"だ。"奴"が日本に戻って来たらしい。実に二十年ぶりだ」
紅蓮が目にした資料は、一枚のピンボケした写真だった。
「本当に帰って来たのかよ……」
忌々しげに呟きながら、紅蓮は己の不運を呪った。それと同時に、この場に雪夜を連れて来なかった自分の判断を心の内で褒め称えた。
写っていたのは、"白の女"の後ろ姿であった。
「"奴"の狙いは恐らく……」
その先の言葉は、聞かなくとも理解していた。
***
「こんにちは」
「は……?」
紅蓮が不在の中、雪夜は見ず知らずの女性に声をかけられた。驚いて振り向くと、彼の背後には純白の美女が立っていた。
「貴方が雪夜ですね? 捜しましたよ」
その女性は、病的なまでに全身真っ白であった。肌も声も若々しい十代の瑞々しさを保っているのに、腰よりも更に長いストレートの髪は、銀色に光る純白。死装束のような白の着物を着たその姿は、まるで幽霊のようでもあった。
彼女は困惑げの雪夜に対し、妖艶に微笑みかけた。そして、雪夜を驚愕させる一言を放った。
「わたくし、"白の断罪者"の白蓮と申します」
純白の闇が、青に侵食した。




