第二十四夜 襲来
紅蓮との話し合いのから、数時間が経った。
時刻はすでに夜十一時。健吾はいつもよりも少し早いこの時間に、自室の布団に横になって、不気味な夜を過ごしていた。
明かりはすでに消してある。障子も一分の隙間も無く閉じられている。加えて、窓と呼べるものが無いために、月明かりが入ってくることもない。
それ故に、健吾の部屋は完全な闇に包まれていた。
健吾は落ち着きなく、数秒ごとに寝返りをうちながら、必死に眠ろうとしていた。目を固く閉じて心を鎮めようと努力をしてみるものの、全く眠気は来なかった。
むしろ、ますます眠気が吹き飛び、目が冴えていく一方であった。
そんな時だった。
――ミシッ
「……っ!?」
何かの物音が、室内に微かに響いた。それはまるで、板が軋んだかのような音だった。
それに気づき、体を硬直させた健吾は、恐る恐る目を開いた。そして、物音がした"天井"を仰向けの体勢で見上げた。
暗い中で必死に目を凝らしたものの、見えたのは、脆そうな薄い板の天井だけであった。
それを確認した健吾は、大袈裟なぐらいに大きな安堵の溜め息を漏らした。そしてまた目を閉じ、心を落ち着けた。
――大丈夫だ。きっと大丈夫。
健吾は自身にそう言い聞かせた。しかし、そんな漠然とした安心感は長くは続かなかった。
――ミシッ
"ソレ"は、健吾の真上の天井から現れた。板の隙間をミシミシと音をたてながら這い出てきた"ソレ"は、ズルリと嫌な音をたてて真っ逆さまに落ちた。
落ちた場所は、タオルケットがかかった健吾の腹の上だった。
「ひいっ!!」
健吾は短い悲鳴をあげてのけぞると、がむしゃらに腹の上の何かを手で払い除けた。すると、ベシャリと何かが潰れるような音をたてて、畳の上に落ちた。その時に手に触れた"ソレ"は、生暖かくて柔らかかった。
"ソレ"に触れてしまった手を改めて見た健吾は、粘液のようなもので濡れているのに気づき、慌てて布団に擦り付けて拭った。それでも不快感は拭えない。むしろ、増していった。
――何だよアレっ……? 何で上から落ちてくるんだよ!?
健吾はそう心の中で悲鳴をあげながら、尻餅をついたまま後ずさっていく。すると、すぐに背中が障子の扉にぶつかった。そして、すぐに後ろ手で障子を開けようとした。
しかし、どんなに力を込めても、障子は全く開かなかった。
必然的に、健吾は激しく混乱した。
――何で開かないんだよ!?
終いには、不気味な"ソレ"に向けられていた目は障子に向けられ、必死の形相で開こうとしていた。が、それでも開かなかった。
健吾は絶望した。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかと、心の奥底から自身の境遇を憎んだ。
半ば諦めの気持ちが強くなった健吾は、恐る恐るといった様子でゆっくりと振り返ってみた。
そして振り返った先にあったものに、更なる絶望を感じた。
――バリッ
何かが破れたような音が室内に響き渡る。健吾は衝撃の余り、悲鳴をあげることも忘れて"ソレ"を凝視した。
"ソレ"の中から、"何か"の生物が、まるで卵から孵化するかのように――まるで蛹から孵るかのように――"心臓"という名の殻を破っていく。
健吾はその様を、半ば魅せられたかのように見つめていた。
徐々に姿を現したのは、まず、黒光りする鋭く大きな二つの"牙"であった。それらは、カチカチと噛み合わせるかのように音をたてて、少しずつ出てくる。
次に現れたのは、"牙"と同様に――否、それ以上に黒く、何より妖しい輝きを放つ、丸い双眼であった。それらはじっと健吾を見つめたかと思うと、更に輝きを増した。
健吾は思わず全身を震わせた。額から滝のように汗が流れていき、頬を伝って落ちたそれは、畳の上にポツポツと小さな染みを作っていく。
それでも健吾はよそ見すらせずに、ただ目の前の"ソレ"を見つめ続ける。
"ソレ"の正体は、最早誰が見ても一目瞭然だった。
すでに"ソレ"は、心臓の殻を殆ど破り、上半身まで姿を現していた。
「――蟻、だな」
「……っ!?」
突如、この場にいるはずのない人物の声が、隣から聴こえた。驚いた健吾は弾かれたように左隣に顔を向けた。
そこには、すっかり見慣れた赤色の青年――紅蓮が、不快げな表情を隠さずに立っていた。
「……ぐ、紅蓮さんっ」
「何だ?」
「遅いですよっ。早くアレをどうにかして下さい!」
紅蓮という強い味方を得た健吾は、途端に強気にそう不満を洩らした。しかし紅蓮はどこ吹く風で、健吾の顔を見ようともしない。健吾は、更に紅蓮に対する不満を募らせた。
「紅蓮さんっ」
「うるさい。ちょっと黙ってろ。……そろそろ来るぞ」
紅蓮は健吾に冷たくそう言うと、真剣な表情で正面を睨んだ。それに釣られて、健吾も同じように正面に視線を戻した。
二人の視線の先には、巨大な蟻がいた。
体長はおよそ二メートル。あの小さな心臓の殻に、一体どうやってこの巨体を隠していたのかは謎である。真っ黒なその体は、まるで鎧を着けているかのように硬そうだ。ユラユラと揺れる二本の触角も不気味さを醸し出すのには、十分過ぎる存在であった。
この巨体の蟻は、真っ直ぐに正面を向き、健吾と紅蓮を鋭く睨んでいる。
蟻は、カチカチと牙を鳴らして威嚇すると、細長い脚を一歩前に動かした。その動きに合わせて、声を出すこともままならない健吾はビクリと肩を揺らした。
蟻はまた一歩一歩と、六本の脚でジリジリと近づいてくる。その度に絶望感を増していく健吾の表情は真っ青で、生気を失っていった。
そんな時に、とうとう紅蓮が動いた。
「……燃え尽きろ」
紅蓮がそう言って、右手を蟻にかざした瞬間、その巨体は真っ赤な炎に包まれた。途端に室内の温度が跳ね上がった。燃え盛るその炎は、容赦なくその巨体を覆っていく。
健吾はその明るすぎる炎を眩しく思い、思わず手で少し目を遮った。そして目を細めつつも、燃える蟻を見つめたところで、健吾はあることに気がついた。
――燃えてない……?
蟻は確かに炎に包まれていた。それなのに、蟻は苦しむ様子を全く見せない。
健吾は不安げに紅蓮を見上げた。
「――やっぱり、な」
「な、何がですか……?」
紅蓮の独り言に、健吾はすかさず疑問をぶつけた。すると紅蓮は、苦笑してこう言った。
「俺じゃ、アレは殺せない。アレを殺せるのは――」
紅蓮の言葉が途中で途切れた。その瞬間、熱気に包まれていた部屋が、まるで水を打ったかのように静まりかえり、ひんやりとした冷気に覆われた。
「――凍え死ね」
鋭く冷たい声が、部屋に響いた。
途端に燃え盛っていたはずの炎は消え、代わりに現れたのは、透き通った水晶のような"氷"。それは二メートルの巨体を覆うと、そのままピシリと音をたてて動きを止めた。
再び静寂が訪れた。
健吾は何が起こったのかが理解できなかった。ただ呆然とした表情で、凍りついた蟻を見つめていた。
「雪夜」
呆然としている健吾の隣で、紅蓮はニヤリと笑ってそう呼び掛けた。その視線は、凍りついた蟻の更に向こう側に向けられていた。
健吾も釣られてその方向を向くと、そこにいたのは、"青色"の青年だった。
黒がかった青色の短髪に深い青色の鋭く冷たい瞳。鼻筋の通った端正な顔立ちではあるが、まだどこか幼くも見える。
雪夜――そう呼ばれたその青年は、紅蓮と同じ真っ黒なロングコートを翻し、健吾の元に歩み寄る。そして、
「――そろそろ謎解きを始めようか。桐谷健吾」
青の断罪者――雪夜は、冷たく侮蔑の篭った目で、そう宣言した。




