第二十夜 天国か地獄か
奇怪な"心臓"を前にして祖母が言い放った言葉は、健吾に強い衝撃を与えた。
この時の健吾には、いつも優しかった祖母が悪魔や鬼にも見えた。母も祖母の言葉に衝撃を受け、目を見開いて呆然とすることしかできなかった。
その日の健吾は、一日中落ち着かない思いで夏休み最後の日を過ごした。その間、健吾は食事とトイレ以外では一切自分の部屋からは出なかった。また、食事も殆ど喉を通らず、水ぐらいしか口にしなかった。
そんな健吾に、母は何も言わなかった。普段なら小言の一つや二つを口にするはずなのだが、この日ばかりは母も放心状態でいた。
しかしそんな健吾と母とは対照的に、祖母は朝の不気味な様子からうって変わって、普段通りに振る舞っていた。寧ろ、普段よりも若返ったのではないかというぐらいに元気そのものだった。
その日の夜。健吾は蒸し暑い自室の中、眠れない夜を過ごしていた。畳の床には漫画や教科書、ゲーム機などが散乱していて、布団を一枚敷くだけでも一苦労な部屋だった。
その真ん中に敷いた布団に横たわった健吾は、ひたすら冴えた目で天井を睨んでいた。
――ばあちゃんの言うことなんて信じる必要ない。虫をちょっと虐めたぐらいで死んでたまるか。
健吾は祖母の不吉な言葉を頭から振り払おうと、心の中で自分にそう言い聞かせた。
夜はどんどん更けていく。暗闇にもすっかり目が慣れて、健吾は少しずつ不安を消し去りつつあった。
カサッ
突然、何かの物音が聴こえた。いや、物音ではなかった。
"何か"が動いているのだ。
健吾は驚き、布団に横になったまま微動だにできなかった。そのまま仰向けの体勢で、健吾は目を固く閉じ、耳を澄ました。
カサッカサカサ――
"何か"がいる。しかし、何なのかは分からなかった。
――カサカサカサッ
その"何か"は、驚くべき速さで健吾のすぐ傍に迫ってきた。しかもその"何か"は、一つだけではなかった。
――何かがたくさんいる……!
健吾はまるで金縛りにでもなったかのように硬直した。得体の知れない恐怖を前に、固く閉じた瞼を開くことができなかった。
カサッ
その"何か"は、しばらくして動きを止めた。途端に再び訪れた静寂に、健吾は大した理由もなく安堵の溜め息を漏らした。そして、ゆっくりと瞼を上げた。
「……っ!?」
健吾は息を呑んだ。悲鳴すらも挙げることができずに、表情を恐怖でひきつらせた。
健吾の視界に飛び込んできたもの。それは――
――虫……!!
異様な数の、"虫"だった。とてもじゃないが、数えることなど到底不可能なぐらいのおぞましい数の"虫"たちは、何をするでもなく健吾を取り囲んでいた。
健吾がもし指一本でも動かしたとしたら、その"虫"たちに触れてしまう、それほどまでに迫ってきていた。
蝶、蜂、カマキリ、ダンゴムシ、カナブン、カブトムシ、クワガタ、ムカデ、ゴキブリ――
健吾がこの夏休みに手にかけた虫たちは、ただひたすら健吾を睨んでいた。動くことも、襲うこともしない。ただ見ているだけであった。
それは、攻撃を仕掛けてくるよりも、より一層不気味に思えた。
――早くどこかに行ってくれ……!!
健吾は心の中でそう叫び続けた。しかし、"虫"たちは何も反応しなかった。
健吾にとっては悪夢としか言い表しようのないこの夜は、朝日が昇るまで続いたのだった。
***
翌朝。いつの間にか眠りに堕ちていた健吾は、はっと我に返るかのように飛び起きた。
健吾の周りには、昨夜と同じ漫画や教科書などが散乱しているだけであった。
健吾は何度も自分の周りを見回すと、深い安堵の溜め息を漏らした。そして汗で額に張り付いた髪を後ろに乱暴にかきあげた。少しずつ冷静さを取り戻してきたところで、健吾はやっと上半身を起こした。
まだ心臓が落ち着きなく激しい鼓動を繰り返していた。汗で背中に張り付いたTシャツがひどく不快に感じる。
健吾は先程のあの"悪夢"を思い出し、その恐ろしさに思わず震えあがった。しかし、健吾は自分でも予想外な早さで立ち直った。
何かを決心したかのように表情を引き締めた健吾は、素早く立ち上がった。そしてバタバタと大きな音をたてながら、ある部屋を目指して走った。
健吾が向かったのは、昨日奇怪な"心臓"が見つかったあの仏壇の間であった。
襖が閉めきられたその部屋にたどり着くと、健吾は一瞬躊躇した。しかし、意を決して襖を開け、仏壇の左側に張り付いているあの"心臓"に目を向けた。
「……っ!?」
健吾はその"心臓"を見た瞬間、声にならない悲鳴をあげ、その場に硬直した。
"心臓"は、肥大していた。昨日までは二十センチ程度の大きさだったソレが、離れた場所から見ても分かるぐらいに、大きくなっていたのだ。
少なくとも、十センチ以上は大きくなっていた。
健吾は部屋には入らず、襖に手をかけたままで呆然としていた。ソレに近づいてわざわざ確認する気も起こらなかった。
「――へえ、あれはなかなか厄介なもんだな」
「……え」
突然、健吾の背後から聞いたことがない男の声が聴こえた。驚いて振り向くと、そこには見ず知らずの赤い青年がいた。
男にしては長めの真っ赤な髪に赤い瞳。モデル顔負けの顔立ちにスタイルではあるが、なぜかひどく冷たい印象があった。真夏なのにも関わらず真っ黒のロングコートを着ているせいで、怪しげな雰囲気がより濃く感じられた。
その赤い青年は、あの"心臓"を興味深げに凝視していたが、少しして健吾に視線を落とした。その赤い瞳は、爛々と輝いているように見えた。
「なあ、お前が桐谷健吾か?」
「……そ、そうですけど……」
挨拶も無しに名前を尋ねる青年に、健吾は困惑げにそう応えた。すると、青年はニヤリと妖しい笑みを浮かべた。
「そうか。俺はお前のばあさんから、"アレ"の処理を頼まれた者だ」
「え、アレを処理してくれるんですか!?」
青年のその言葉に、健吾は飛び上がらんばかりに喜んだ。早くあの気味の悪いものをどうにかしてほしいと、目で訴えていた。
そんな健吾に、青年は微かに苦笑した。その表情は、まるで健吾の望み通りにはいかない、と釘を差しているようでもあった。
「……残念だが、お前の望み通りにはいかないかもしれない」
「……どういう意味、ですか?」
健吾は一転して怯えた表情で青年を見上げた。青年は今だに苦笑していた。
「お前はアレを取り除いてほしいだけなんだよな? 心配しなくても、ちゃっちゃと処理してやる。――けどな、」
青年は楽しげに笑った。そして、健吾にとってはひどく残酷な言葉を口にした。
「――場合によっては、お前を殺すかもしれない」
そう言われた瞬間、健吾は頭の中が真っ白になった。表情を強張らせ、硬直してしまった健吾に、青年はまた言葉を繋げた。
「俺は"赤の断罪者"紅蓮だ。精々、俺に殺されないように足掻くんだな」
その死刑宣告にも似た言葉は、健吾の心に深く突き刺さった――