第十九夜 悪夢の始まり
「健吾ー!! ちょっと来てー!!」
夏休み最終日の朝。相変わらずじりじりとした夏の陽気に汗を流しながら、健吾は母に呼ばれるがままに声のする方向に向かった。
健吾はたった今起床したばかりであった。時刻は午前九時。最後の惰眠を貪っている最中で大声に呼ばれた健吾は、非常に不機嫌であった。
それでも母の呼び声に従っているのは、母の声から異常な胸騒ぎがしたからだった。
「何だよ、母ちゃん。朝っぱらからうるせーな」
茶色の長い廊下を裸足でペタペタ歩きながら、健吾はそう文句を言った。しかし、その文句は誰にも聴こえなかった。母がいる場所はまだ遠かったからだ。
「母ちゃーん、どうしたんだよ」
母がいたのは、仏壇の間であった。
広さはこの家の部屋としては大したものではない。精々五畳、六畳といった広さだ。薄い黄色の畳には何も置かれていない。あるのは、襖を開けてすぐ視界の真ん中に飛び込んでくる、立派な仏壇ぐらいだった。
その仏壇の左隣に母は座っていた。いつもならこの時間は、仏壇の埃を払い、お供え物のお菓子や白米などの交換をするだけであった。それとついでに手を合わせるぐらいだ。
ただそれだけのはずなのに、 母は仏壇の左端の柱を凝視していた。母は身動きすらしない。
「母ちゃん……?」
「……健吾、あれ、何か分かるかい?」
恐る恐るといったふうに母に歩み寄り、古臭い割烹着姿の白い後ろ姿を見た健吾に、母は震える右手で前方を指差した。
促されるままに前方の柱を見た瞬間、健吾は戦慄した。
「……っ!!」
健吾と母の視線の先には、赤黒く気味の悪い"腫瘍"のようなものがあった。それは柱にへばり付くかのようにくっついており、微かに――いや、明らかに"鼓動"を繰り返していた。
直径は大体二十センチ程度で、節々に血管のようなものも浮き出ていた。
――まるで、何かの心臓みたいだ。
健吾はとっさにそう心の中で呟いた。額から嫌な汗が頬をつたった。
「――祟りじゃ」
突然、健吾の背後からそうしわがれた声が聴こえた。健吾は飛び上がらんばかりに驚き、弾かれたように体ごと振り向いた。
「……ば、ばあちゃん……」
背後に立っていたのは、見慣れた灰色の着物を着た祖母であった。祖母は白髪まみれの髪を掻きむしりながら、赤縁の老眼鏡越しに健吾を睨んだ。
その視線からは、怒りは感じられなかった。その替わりに、普段穏やかで優しい祖母の姿は無く、見るからに軽蔑した視線が健吾を射抜いていた。
健吾は思わず寒気を感じてぶるりと震えた。
理解できなかったのだ。なぜ自分が祖母に軽蔑されているのかが。
「……健吾、これはお前さんへの"罰"じゃよ。わしの忠告を聞かなかったからこうなるんじゃ」
「な、何言ってんだよ……?」
健吾はうろたえながら、必死になって祖母の言葉の意味を理解しようとした。しかし、驚きと言い知れぬ恐怖のせいで、思うように思考することができなかった。
そんな様子の健吾を見かねて――否、呆れたような目で一瞥した祖母は、健吾の疑問に答えた。
「お前さん、虫さん虐めただろう」
「……っ!!」
祖母の言葉に、健吾は息を呑んだ。口の中が猛烈に渇き、飲み込む唾が無かった。
「お前が悪いんじゃよ。もうおしまいじゃ。お前は――」
次の言葉を聞いた瞬間、健吾は恐怖のあまり気絶しそうになった。
「――死ぬんじゃよ」
祖母の言葉は、健吾の肩に重くのしかかった――