第一夜 悲劇の家
小さな不動産会社を経営する社長――田中栄吉はひどく困惑していた。念願の会社を立ち上げて二年、ようやく経営が起動に乗り出した頃だった。
栄吉は二週間ほど前に、同業の知り合いと行き付けの居酒屋で気分良く酒を煽っていた。飯よりも酒を優先して浴びるように飲んでいたために、今思い返せば情けなくなってくるほど泥酔していた。
「なあなあ、田中さんよぉ、実はいい話があるんやけど、聞かんかね?」
酔って顔を真っ赤にした同業者の男は、栄吉の肩にもたれかかり、にやつきながらそう聞いた。
「何だい? いい話ってのは~?」
すっかり泥酔しきっていた栄吉は、その男の話を鵜呑みにして問い返した。すると、その男はさらにだらしない顔でにやつきながら、また一口酒を煽り、こう言った。
「いい物件があるんよ。あんた、安くしてやるから買わないかい? さらに大儲けできるチャンスなんやけどなぁ」
今思えば、これは確実に罠だった。しかし、この時の栄吉の頭は酔いのせいで、全く機能していなかった。栄吉はいつの間にか、男がなぜか用意周到に持って来ていた契約書にサインさせられていた。
酔いが覚めて、その契約書を読んだ時、栄吉は飛び上がりそうなぐらいに驚き、そして己の浅はかさを激しく呪った。
栄吉が買ってしまった物件とは、どこにでもあるような普通の一軒家だった。しかしながら、ただ普通の一軒家を騙されて買ってしまったとしても、栄吉はここまで後悔することはなかったであろう。
栄吉が激しく後悔した理由。それは、その一軒家が地元では有名な"曰く付き"の家だったからに他ならない。
本来、そこは優良物件になりえるはずだった。バス停は徒歩五分足らずの場所にあり、スーパーやコンビニもすぐ近くにある。そこが"曰く付き"でなければ、栄吉は飛び上がって喜んだだろう。それぐらい、立地条件は最高の物件なのだ。
それなのになぜ、そこは"曰く付き"と言われているのか。それは、今から三年ほど前まで遡らなければならない。
三年前。その家には、まだ若い夫婦と、六歳の娘が三人で暮らしていた。その家族は、念願のマイホームを買ってから、まだ半年足らずだった。近所でも噂になるぐらい、仲の良い家族だったという。
しかしある日の夜、悲劇が起こった。強盗が入ったのだ。強盗は、偶然無用心にもカギがかかっていなかった裏口から侵入した。その時の時刻は正確にはわからないが、深夜一時をまわっていたであろうと言われている。当然家族三人とも寝静まっていた。
強盗は一階の部屋を余すことなく荒らしまわると、金目のものを求めて二階に上がった。そこでひとつめの悲劇が起きる。娘がトイレに起きて、廊下に出てしまったのである。そこで、娘は運悪く強盗に遭遇し、強盗の顔を見てしまった。
強盗は叫びかけた娘の口を手で塞ぎ、持っていた包丁で心臓を刺した。が、その直前、娘は幼いながらも精一杯抵抗し、手足をじたばたさせて暴れていた。その音で娘の両親は飛び起き、廊下に出たところで、強盗が娘を刺し殺した現場を目撃してしまった。強盗に覆い被さるようにのしかかられ、無惨に殺された血まみれの娘を見て、両親は何を思っただろうか。
次の瞬間、妻は狂ったような、恐怖の悲鳴をあげた。ところが不運とは重なるもので、この家の近所は家が少なく、しかも一番近いはずの家の住人ですらも、旅行で誰一人いなかった。
妻の叫びは、強盗と夫の耳にしか届かなかった。強盗はまず妻を殺そうとした。妻に向かって包丁を突き付け、刺しかかったが、それを夫が庇って死んだ。腹から大量の血を出して床に倒れ、夫はそのまま事切れた。妻は半狂乱になって逃げようとした。しかし、強盗にすぐに追い付かれ、背中を刺されて死んだ。廊下と強盗は血まみれになっていた。
その後強盗は大したものを盗らずに逃げた。おそらく、妻の悲鳴を聴いて近所の人間が通報したと思ったからだろう。
結局、強盗は何も得ることができなかったばかりか、人を三人も殺めてしまった。その強盗は不思議なことに、未だに捕まっていない。
それから一年後、その家で再び悲劇が起きた。
冒頭に出てきた不動産屋の男は、その家で殺人事件が起こったことを知りながらも、それを気にせずに手中に収めた。いくら殺人事件が起きたとは言っても、立地条件は最高で、そのまま放っておくには惜しいと考えたからだった。
その家は、売りに出して一月後に売れた。購入したのは、一組の夫婦だった。この夫婦に、購入後すぐに悲劇が起きた。
その妻は、専業主婦だった。夫は営業のサラリーマンで、帰りはいつも遅かった。
悲劇が起こったその日も、妻は珍しく早く帰ると連絡してきた夫を、首を長くして待っていた。夫が帰宅したのは、夜の八時だった。家に着いてすぐに、夫は家の異変に気がついた。
――電気がついていない
夜とは言ってもまだ八時。それにも関わらず、家には灯りが灯っていなかった。夫は不思議に思いながらも、いつも通り玄関に向かい、ドアノブに手をかけた。が、そこで夫はピタリと動きを止めた。
ぴちゃっぴちゃっ
――何か音がする
ドアの向こうから、何か不気味な音がこちらに近づいてくる。
ぴちゃっぴちゃっ
その不気味な音は、ドア一枚隔てた距離で立ち止まった。夫は恐怖に震えた。不気味な音を出していた"何か"は、確かにそこにいるのだ。その"何か"の正体は分からなかった。しかし、夫は本能的に悟っていた。
――今ドアを開けたら、殺される……!
夫は金縛りにあったかのように、ドアノブに手をかけたまま、微動だにしなかった。夫は全身の毛穴から汗が噴き出してくるのを感じていた。今の時期は冬なのに、冷や汗が止まらないのだ。
ぴちゃっぴちゃっ
またあの不気味な音か響いた。しかし、その音がしたのは、ドアの向こう側からではなかった。
――後ろに何かいる……!
夫は自分の背後にその"何か"がいるのを分かっていた。振り向こうかとも考えた。だが、夫はあまりの恐怖に全身を痙攣させ、その場に立っているのがやっとの状態だった。
ぴちゃっ
夫が動く前に、その"何か"が先に動いた。夫は自分の右肩を、氷のように冷たい手が掴んだのを感じた。
夫はついに、後ろに振り返った。
……その翌日の朝。その家の玄関先に、血まみれの夫の死体が仰向けに横たわっていた。夫の顔は、それはもう、見るに耐えないほど青白く、恐怖に歪みきっていたという。
そして妻も、居間で血まみれの死体となって発見された。こちらも、凄まじいほどに恐怖に歪んだ顔をしていたという。
この謎に満ちた悲劇の事件の真相は、迷宮入りとされている。この事件以来、地元住民はこの家周辺には一切近寄らなくなった。皆が噂した。殺された家族の怨霊だと。
誰からも恐れられるこの家は、いつしか"悲劇の家"と呼ばれるようになった。
栄吉は、その"悲劇の家"を買ってしまった。普通に売ろうとしても、どうせすぐに曰く付きだとバレてしまう。手放したくても手放せないこの状況を、栄吉は苦々しく思っていた。
ここで栄吉は、ある思いきった行動に出る。
自分一人で"悲劇の家"を訪れ、その様子をビデオカメラに収めようとおもったのである。その映像に何も映らなければ、曰く付きから脱却できるのではないか――
栄吉は自らをそう励まし、叱咤した。
しかし、栄吉は後で、この時の判断を死ぬほど後悔することになる。
そして、栄吉は出会ってしまう。
――赤と青の断罪者に。