第十八夜 理不尽な遊び
桐谷健吾はどこにでもいるような、反抗期まっただ中の中学二年生である。
少し色素が薄い茶色がかった短髪に、真っ黒な小さめの瞳を持っていて、いかにも内向的な外見であった。
しかし健吾は、中二の夏休みにこんがりと日焼けした。そのおかげと言ってはなんだが、外見だけなら活発そうな少年へと変身していた。
とは言っても、所詮それは見た目だけのことであった。なので中身は今までと変わらず、ゲームと漫画は好むが勉強は嫌う、普通の少年であった。
そんな彼が、なぜ夏休みの暑い時期に外出し、あまつさえ日焼けをすることになったのか。その理由を説明するには、今から二ヶ月以上前の夏休みを振り返る必要がある。
健吾はこの町では少し有名な、立派な日本家屋に住んでいる。そこは築五十年の木造二階建てで、普通の一軒家の三倍ほどの大きさであった。
外観は濃い茶色の木々と古びた色の瓦の屋根なので、実際の年月よりも古く見えた。しかし、それを取り囲むようにある真っ白な塀と立派な門があるため、その家自体はよく見えない。
健吾は八月上旬のある日の昼頃、外からは全く見えないその家の縁側に座って扇風機の風にあたっていた。
しかし、いくら扇風機の風にあたっていようとも、陽当たりのいいこの縁側では、そんなものはただの気休めでしかなかった。
それなのに、なぜ健吾は縁側にいるのか。それは夏休みの宿題が原因だった。
夏休みの宿題には、数学などを始めとした各教科のドリルが配られていた。だがそれは健吾にとっては大した問題ではなかった。一緒に配られた模範解答を写せばいいことだからだ。
ところが、模範解答がない宿題も一緒に出されていた。それが健吾を悩ませている自由研究であった。
健吾は縁側に横になって、真っ白なレポート用紙を掲げながら溜め息をついた。扇風機の風で汗で濡れた髪をなびかせながら、額の汗を拭う。それでもすぐに汗は吹き出てくる。
とにかく、この日は暑かった。暑いのはいつものことではあるが、今日だけはなぜかいつも以上に暑く感じていた。
――さっさと終わらせて楽をしよう。
健吾は勉強は嫌いだが、その分嫌いなことは先に片付けておく性分だった。だからこそ、健吾は自由研究の題材を考えあぐねていた。
健吾はようやく上半身を起こし、縁側に腰をかけた。そしてジリジリと身を焦がすように照りつける憎たらしい太陽を睨みつけた。
が、すぐに目をそらした。太陽を肉眼で見ることなど無謀極まりないことであった。
健吾は扇風機のすぐ傍に置いてあった麦わら帽子を被ってサンダルを履き、庭先に飛び出した。そしてすぐに、塀でできた日影に歩いて行った。
この家の庭は、普通の一軒家ぐらいなら余裕で入りそうなぐらいに広かった。一面ただの土でできた地面が広がっているのだが、塀の近くには雑草が生い茂っていた。数本桜の木もそびえ立ってはいたが、それらは今の時期はただの木であった。
健吾は塀の近くにしゃがみ込むと、雑草の辺りに視線を落とした。何か自由研究の題材になりそうなものはないかと考えたからだった。
「――あ」
首にかけたタオルで汗を拭いながら雑草を掻き分けていると、健吾はあるものを発見した。
――蟻の巣だ。
健吾の視線の先には、一センチあるかどうかの小さな穴があった。雑草の茂みに隠れて地面に掘られていたそれには、黒い点々のような蟻たちが忙しく群がって動き回っていた。
その様子は、夏になればどこでも見れるものであった。当然珍しいものでも何でもない。それなのに、健吾はその蟻たちに目が釘付けだった。
蟻たちは、頭上に突如現れた巨人のことなど一切気にすることなく、仲間たちと協力しながらせっせと餌を巣に運んでいく。
その蟻たちが運んでいた餌の中に、小さな黄緑色のバッタの死骸があった。何十匹もの蟻たちが、自分たちよりも何十倍も大きな虫を運ぶ様は、ある意味逞しいものだと見えた。
しかし、健吾はそうは思わなかった。
「――気持ちわりい」
健吾は冷めた目でそう呟くと、おもむろに立ち上がって歩きだした。向かった先には、花壇への水やりなどに使う、水道と水色の長いホースがあった。
健吾は地面に落ちていたホースを水道の蛇口に繋げた。そして繋がっていないほうのホースの口を掴んだまま、水を流し始めた。
ホースの口からは、冷たそうな水が大量に溢れ出てきた。健吾はその水を、迷うことなくあの蟻の巣に流した。
みるみるうちに、巣から入りきらなかった水が溢れ出し、中にいた蟻たちもろとも流れていった。巣の外にいた蟻たちも同様にパニックに陥りながら、どんどん流れていってしまった。
それを見ていた健吾は、口元をつり上げて厭らしい笑みを浮かべていた。
その日の健吾は、庭中にある蟻の巣を探すことに時間を費やした。そして見つけだした巣は、一つ残らず水を流して壊し、蟻たちを虐殺した。その間の健吾は、始終嬉々とした表情を浮かべていた。
――次の日は久しぶりの雨だった。健吾は母親に冗談で、こう言われた。
「あんた、蟻でも虐めたの?」
蟻を虐めたら雨が降るのよ、とどこまでが本気で冗談なのかが分からない一言を発した母に、健吾は特に何も言わなかった。
母の言葉について考えるよりも、明日からは一体何の虫で遊ぶか――健吾はそれだけをずっと考えていた。
――翌日の早朝。健吾は水色のTシャツにグレーの短パンといった動きやすい格好で庭に立っていた。頭には昨日と同じように麦わら帽子を被っている。
健吾は今日も蟻を探すつもりでいた。しかし蟻だけではつまらないので、その他の虫も探して"遊ぶ"つもりであった。
まず始めに、健吾は昨日と同じように庭の草むらを掻き分け始めた。すると難なく新たな蟻の巣を見つけた。
健吾は考えた末、一昨日の水とは違う方法で"遊ぶ"ことにした。健吾が取り出したのは、使うかもしれないと思ってあらかじめ用意しておいた殺虫剤だった。
健吾はスプレー缶の先に付いている細いノズルの先を、小さな蟻の巣に差し込み、殺虫剤を注入した。
するとシューっと音をたてながら白い煙が上がり、健吾は少しだけむせかえった。それでも、健吾はなぜか満足げに笑っていた。
巣の中から、死にきれなかった蟻たちが噴き出すように外に出てきた。健吾はその蟻たちにも殺虫剤を噴きかけ、とうとう中身が無くなるまでそれを続けた。
しばらくして、シューっというスプレー音が聴こえなくなったのに気づいて、健吾はやっと虐殺をやめた。しかし、これで終わらせる気は毛頭無かった。
健吾は未だかつてないほどに興奮していた。この十四年間の人生の中で、ここまで高揚したことがあっただろうか。いや、そんなものは無かった。
健吾はスプレー缶をそこら辺に投げ捨てた。後で片付ければいい、そう思いながら、健吾は新たな"獲物"を探し始めた――
***
「――健吾、お前さん、最近はよく外に出て遊んでるみたいだねえ。いいことじゃ」
蟻の虐殺から数日後。涼しげに扇風機を回しながら、和室の一室にて冷たいお茶をすすっていた祖母が、突然健吾にそう声をかけた。
健吾の祖母はもう七十歳になる。体力が衰えてしまったこの祖母は、いつも庭がよく見えるこの和室でお茶をしているのだ。
祖母の突然の言葉に、僅かに瞠目した健吾だったが、すぐに笑った。その笑顔は、中学生の少年とは思えないほどに、悪どいものであった。
しかし、祖母はそんな孫の表情には気づかなかった。いや、気づかなかったと言うより、"見えなかった"と言ったほうが正確だった。
祖母は、殆ど目が見えていないのだ。
「ばあちゃん、俺さ、最近虫とりにはまってるんだ」
健吾は比較的普通にそう応えた。すると祖母は、しわくちゃな顔をにんまりとさせて笑った。
「そうかい。虫さんたちを苛めないように気をつけなさいな」
祖母はまたお茶をすすってそう言った。健吾はその言葉に、ぴくりと肩を揺らした。
「虫さんたちもわしらと一緒で、生きているんじゃ。優しくしてやらんと罰があたるじゃろおな」
この言葉は、殆ど独り言に近い呟きだった。健吾はその言葉には何も返すことなく、そのまま無言でサンダルを履き、外に出ていった。
「あんな気持ちわりい虫どもが、俺たち人間様と同じなわけねーだろ」
健吾は虫とり網と虫籠を持って門に向かいながら、半ば自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
だが、この時の健吾はまだ気づいていなかった。この何気無い"遊び"が、自身の破滅を呼ぶことなど、知る由も無かった――