第一章 第九話
その週の土曜日の昼下がり、俺は食事を終え、例のごとくボーっとしてテレビを見ていた。でも頭の中は、これから新山さんと会うということで、いっぱいだった。
「お昼ご飯食べてから伺いますから」
今朝、掃除が終わって別れ際、彼女はそう言いながら、初めて一緒に登校した時の様に、手をひらひらさせてバイバイした。
「分かりました」
俺も相当恥ずかしかったが無視するわけにもいかず、ちょっと手を挙げた。
初夏の日差しの中、自転車に乗って走っていく彼女の白いブラウスの後姿が、目に焼き付くほど眩しかった。俺は思わず目を細めながら、彼女が見えなくなるまで見送った。 そんなやり取りをしたのが、今から6時間ほど前である。
結局、彼女と一緒に登校するという試みは、継続ということになり、毎日、頭が痛い周囲の仕打ちに曝されながらも、昨日までたってきた。
ただ今日は土曜日なので、公立の俺は休み、私立の彼女は学校なのだ。
ピンポン!
さてそうしているうちに玄関のチャイムが鳴った。
「あ、俺、出る」
新聞を読みながらピクンと反応した母親を制して、俺が立った。あら珍しいこともあるわね、みたいな目で新聞越しに見る母親を置いておいて、玄関に急ぐ。
「はぁい」
玄関のすりガラスのところから、日の光が入ってきている。こちら側の薄暗さのコントラスト際立ってて、日の光の強さを感じさせた。
遠くからテレビの音と、時折する母親が新聞をめくる音。そんな静かな玄関先に立ち、俺は今一番うるさい自分の鼓動に、ちょっとは静かにしてろと悪態をつく。それから息を整え、ドアの向こうに声をかけた。
「はあい、なんでしょう?」
念のために、誰にでも対応できる応答をもう一度かけ、突っ掛けを履き玄関ドアを開けると、果たしてそこには、長い髪をポニテにまとめた新山さんが立っていた。
「こんにちは」
今日から彼女は半そでの夏の制服を着ている。
思わず目が、見慣れぬ彼女の二の腕にいってしまう。それは男では有りえないほど白く艶やかだった。
おっと、そんなことに気を取られている場合ではない。
彼女が人の心の変化に敏感なのが、最近良く分かってきた。不用意に邪念に取りつかれたままにしていると、きっといつか、大変なことになるだろう思っている。ここは大事に至る前に、自制が肝要。
「あ、直ぐ行きます」
俺は用意していた、靴を履き替え、いつも持ち歩いているトートバックを取って、玄関先に出た。
「あのう、自転車で行きませんか?」
「自転車?」
こうしてわざわざ会った理由は、彼女から「カラス使い」というものについて、教授してもらうため。
俺的には、駅前にあるファーストフード店みたいに、適当に座れるところに行くのだろうと思っていたので、自転車と言われちょっと不思議に思った。
「自転車で?」
「はい」
俺が問いただしても彼女の笑みは変わらない。ということは、そういうことなんだろうと、俺は自分の自転車、古いクロスバイクを家の横の自転車置き場に取りに行った。
彼女が向かったのは、駅とは逆の方向だった。
駅の近くの町並みはすぐ切れ、周りはずっと田んぼと山。長閑な農道が続く。余り、こっちに向いて走ったことがなかったので、新鮮な気分だった。
更に田圃を抜けずっと行っくと、今度はちょっとした別荘街に差し掛かる。季節が良くなると、東京なんか町の方から人がやって来たりしているようだ。
「わたし、自転車好きなんです」
「そうですか」
そっけない言葉で答える俺だったが、並走する彼女は嫌な顔一つせず、いつになく上機嫌で話してくれる。
と言う俺も、電車や繁華街みたいに人がいっぱいいるところではなく、のんびり自転車を転がしながら話をするというのは、オープンな気分で話せてよいなと思った。
「ここ良く通るんですか?」
慣れた風に自転車を走らす新山さんに、そんなことを聞いてみた。
「え、ええ、良く通ります」
ん??
俺の問いに、微妙に狼狽えているように見えたのは気のせいだろうか?
俺たちは、その別荘街を通り抜け、その向こうにあるいかにも古くからあるであろう雰囲気をたたえた集落に入っていく。
俺は新山さんが、どこに連れて行こうとしているのか、いよいよ分からなくなってきた。
それでもやっと考え付いたのは、この先にある城址公園だろうかということだった。あそこだったら、天気が良いので、ベンチに座ったりしてゆっくり話が益るかもしれない。
でも、それだけにここまで自転車を走らせるのだろうか、疑問は残ったままだった。
もう城址公園まですぐそこと言うところまで来た時、彼女はすっと自転車を止めた。うちから平らな道路を20分ぐらいは走っただろう。自転車だから、そこそこの距離である。
「新山さん?」
彼女は自転車を止めはしたが、何故かそのまま動かない。俺は何かトラブルでもあったのかと心配になり、声をかけた。
それにハッとした彼女は、びくっとし、そそくさと自転車から降りて、スタンドを立てた。
「あ、あのう……」
「はい?」
彼女が立つすぐ横は、大きなお屋敷であった。太い材木を組み合わした、お城のそれの様な門があり、良く時代劇で見る大きな扉の横に、小さな勝手口があるみたいな造りをしていた。それはまんま、時代劇の中に飛び込んできたみたいな風景だった。
それ以上何も言わない彼女に、どうしたのだろうと不可解さを感じつつも、家からそう遠くはないのに、こんなタイムスリップしたみたいな所があることに、ちょっと好奇心をそそられる。
ちらちらとまわりを見ていると、ふと俺の目を引くものがあり、思わず見入った。
『新山』って?
その大きな凄い門に掲げられていた、これまた大きな表札。俺はその表札の字を読み、まさかと彼女の顔を見ると、顔が真っ赤で目が泳いでいた。
「す、すみません」
じゃあ……やっぱり?
「いやあ、謝ることじゃないと思うけど、こちら、新山さんのお宅なんですね?」
「あ、はいそうです」
「ここで、お話しするんですか?」
「はい、できたら、……きっとそれが一番、お話が捗るかなぁーと思いまして……」
なんだか、狼狽えまくっている新山さん。最近はそうでもなくなったが、基本、平安時代かなんかの「止ん事無き」お姫様を連想させるような、超然としてて、近寄りがたい気品を香らせる系の人なのだ。こう慌てふためくというのは、正直、初めてだった。
……まさにツンデレ、誰が萌えずにおられよう。
「……申し訳ありません」
おっと、こっちが「萌え」をかみ殺し息を整えているのを、怒っているとでも思ったのだろうか、物凄く申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、いや、ビックリしましたけど、全然大丈夫ですよ。っていうか、俺なんかが、新山さんのお宅に上がらせていただいて、本当に良いんですか?」
「そ、そんな、っていうか、それこそ御深山さんこそ、主なのですから……」
と、そこまで言って、あぁと何か思い至ったような顔をして、口をつぐんだ。当然、俺は彼女が何のこと言ってるのか、全く分からない。でも、ここで問いただすより、まずは「カラス使い」の話だと、一先ずスルーすることにする。
*********
「どうぞ、こちらに」
玄関の土間から上がり、ピカピカに磨かれた気の廊下を歩いていく。
広い和室がずっと連なっていて、凄い家だなと感嘆する。でも、余り生活を匂わせるところがなく、人影もない。ガラーンとした感じだった。
そうこうして、しばらく行ったところで、彼女は立ち止った。
「あのう、こちらで」
「じゃあ、失礼します」
縁側からガラス入りの障子をあけると、そこも広くて古い和室だった。そして、思わずびっくりして足を止める。
部屋の鴨居のところに、ずっとポートレート写真が飾ってあった。
ちょっと俺が引いたのが分かったのか、彼女は空かさず詫びた。
「こんなところにお連れして申し訳ありません。でも、ここでお話しするのが、一番、分かっていただきやすいと思ったんです」
必死な顔だった。この家に連れてこられたことも、こんな部屋に通されたことも、今の俺には、何一つ必然性を感じることが出来ないのだが、ただ、彼女の真剣な目は信じられると思った。
「了解です。」
そういってちょっと笑ってみせると、彼女はホーッとため息をついた。なんだかそれが、小さな動物みたいに見えて、思わずこっちもホッとする。
「それではどうぞ」
やっといつもの新山さんぽい感じになり、当然のように上座を進める。でも、やっぱりこういう古い家の上座と言うのは、なんだか雰囲気的に憚られた。
「あ、いいえ、俺こっちで良いですか?」
座卓に四枚置いてある座布団の、床の間を横に見る席を希望すると、顔所はちょっとだけ困った顔をしたが、そうでしたらと許してくれた。
彼女は俺が座るのを確認すると、座卓の下に置いてあった急須にお湯を入れお茶を淹れた。そして慣れた手つきで注ぎ分け、上品にお茶を勧める。
「どうぞ」
「あ、どうも」
まるで平安絵巻みたいだ……
古い完璧和風のこの部屋で、真っ白の顔、髪を下ろして、あの絵巻の中の十二単の女の人たちがしていたように、てっぺんで左右に分けている彼女が佇んでいると、まるでその時代を再現したドラマを見ているようだ。
俺は日本史など、本来興味があるわけでもないし詳しいわけではないが、俺が今、目の当たりにしている風景以上、それらしい風景と言うのは、早々ないのではと思うのだった。
「では、『カラス使い』について、お話しさせて頂きます」
「あ、はい」
新山さんの声に、俺は座りなおす。
…… これから俺は、一番身近で、一番遠い話を聞くことになる。