プロローグ
雪が解けて、春の花が咲きだし、ここらあたりも一番華やいで綺麗な季節を迎えようとしていた。
古い街並みの向こうには、ずっと田んぼや畑が広がっていて、そのずっと向こうに山々が蒼くに見える。
耳を澄ますと、鳥の声、小川のせせらぎ、やっと出かけた黄緑の若芽が風で揺れる音、なんとも長閑で穏やかだ。
チチッ チチッ
「ん?」
手にある箒によりかかって辺りをぼーっと見渡していた俺は、小さなさえずり声に導かれ足元を見た。そこには白と黒のツートンの小鳥がいた。
「おはよ、大分、温かくなったな」
その小鳥は、俺のことを恐れるでもなく、ピョンピョンあたりを飛び回っている。それを見ていると、なんかすごく癒された気分になり、思わず頬が緩んでしまう。
しばらくピョンピョンあたりを跳ね回る小鳥の後を目で追っていたが、ハッとして顔を引き締めた。こんなところ見られたら、変な奴と思われるに違いないし、いつまでもこうしていると時間が無くなる。さっさとやること済ませて、学校に行かなければならないのだ。
「ちょと、どいてくれよ」
掃除を再開しても、その小鳥は離れようとはしなかった。逆に俺の箒とじゃれあうように、こっちにちょっかいを出してくる。
「おまえも、暇な奴だな」
ここらでは珍しくないセキレイと言う鳥だが、こいつだけではなく、なぜか俺がここを掃除していると、毎朝のように小鳥や小動物たち、何かが必ずやってきては、朝の掃除に付き合ってくれるのだ。
そしてこいつらとの他愛もないじゃれ合いが、妙な理由からすることになった面倒なこんな作業を、毎日、二年の間、続けることができた、理由の半分である。
もう半分の理由、それは、もう少ししていたらやって来る……。
静かな朝、遠くから、毎日聞く聞きなれたあの音が聞こえてきた。それは、自転車のフライホイールの軽やかな音である。
あのシャーという音をさせて、緩やかに下っているこの道を通っていくその人こそ、残ったもう半分の理由である。
ほんと、お姫、だな……
乗っているのは、まるで平安時代の女の人のように、真っ黒い長い髪をし、雪のように白い肌をした女の子。じろじろ見るのは何なので、通りすがり、それとなく見るだけにしている。
でも、その整った顔立ちの美しさは、ちらっと見ただけでもよく分かったし、それ以上に醸し出す雰囲気がヤバいほどで、鈍い俺でも息を飲むほど気品に満ちている。
そして何より、そんな子が普通の自転車でシャーと通っていくのだから、そのギャップに俺は毎朝のようにドギマギしているのだ。
彼女は俺がここを掃除することになって直ぐのころから、こうして毎日ここを通って学校に行っている。町でも時折見かけるあの人の着ている制服は、この地域で有数のお嬢様・お坊ちゃん学校のもの。
そこから考えても、相当ハイソの人だろうことは容易に想像がつき、従って、この道を少し行ったところにある別荘街に住んでいるのではないかと、考えている。
まあ当然ではあるが、そんなことを俺がこうして考えているということは、あの人には伝えてはならない。いや、ちょっとでも感ずかれたら最後、きっと気持ち悪がって、ここを通らなくなるに違いないのだ。
そんなことになるなら毎日の掃除の張り合いとして、後姿を見送るだけで良い。
俺は、足元になおも飛び回っているセキレイに手を伸べた。
するとそいつは、待っていましたと言わんばかりに、俺の指先にとまり、チチッ、チチッと鳴いて見せた。
そうさ、このちっちゃな仲間といっしょにいて癒され、あの人からからモチベーションをもらう。
それでこの妙で退屈な奉仕作業も、変哲のない眠たくなるような高校生活も、ここまでどうにかやってきたのだ。
これだけの天恵に不満を抱き、もうちょっとなどと欲を出すと、「鶴の恩返し」みたいな話になるに違いないのだ。
長い髪をはためかせて、今日も行ってしまった自転車の姫を見送りながら、そう考える俺だったが、やはり胸に広がるのは微妙に湿った気分である。
チチッ、チチッ
「お、そうだな、さ、仕事、仕事」
セキレイのやつが、俺に向かって鳴きかけるのにハッとした。するとそいつは自分がここにいると、俺の仕事の邪魔になるとでも思ったのか、俺の指からパッと飛び立ってどこかに行ってしまった。
「今日も、お掃除、お疲れさまです」
恥ずかしがり屋の少女は、そんな少年に気づかれないよう、そっとねぎらいの言葉をささやくのだった。