跋2
眼に映る景色は全くと言っていい程変化が無く、地獄の深淵へと続く廊下にはこの地獄を行脚する者達の足音しか聞こえない。一体どれ程の道のりを歩んで来たのか、後どれ程歩けば辿り着けるのかを知る術も無く、唯一の光源を手に持つ男の後を追うしか道はない。しかしその光源も粗雑なオイルランプである為、辺りを朧げに照らすだけで先に広がる闇を照らし出す事は出来ず、辺りが目視出来ない暗中と大して変わり無い。
「どうして懐中電灯とかじゃないんですか?」
「一々不満が多い男だなぁ、これしか無かったんだから仕方無いだろう」
着火マンといいオイルランプといい、どうしてこの男は普段常備する物とは違う物を持ち合わせているのだろうか。
「大体この廃病院に行くんだったら懐中電灯の一二本持って来るのが妥当じゃないか?」
「それもそうですね。そういえば前に来た時は持って来たのに、なんで今回に限って持って来なかったんです?」
二人に攻め立てられ、返す言葉も見当たらない。持って来なかった理由は只一つ、鏡水が明かり持っていた為その必要が無いと思ったからだ。しかしこんなに暗い事を知っていたら持って来た筈だ、今となってはどうしようも無いが。
暫く辺りが静寂に包まれながらひた歩いていると、今度は鏡水が話を持ち出してきた。
「霊安室まではまだ時間がありそうだな、暇潰しがてらこの病院が閉鎖された理由でも教えてやろう」
「え? 此処が閉鎖された理由知ってるんですか?」
そういえば悠司は鬼村警部が話をしていた時、彼は事務所で寝込んでいたのであった。僕は彼に事の真相を話す。
「この病院は神宮院長の父に当たる神宮政和氏が元々経営する病院だったんだ。しかし彼は病院の患者から臓器を摘出して裏で違法な臓器売買を行っていた、そして事態があまりに大きく成り過ぎた彼は自白して捕まえられた。その後この病院は閉鎖され、今では誰も近付こうとしない廃墟に成り果ててしまった訳だ」
「へぇー、此処で昔そんな事があったんですか」
悠司は幾分か驚いた様子ではあったが、それ以上は何も言わなかった。
「でもそれは鬼村警部からの受け売りでしょう? それにわざわざ話して説明するまでの事じゃないですよ?」
今となっては十分当たり前になってしまった事実を何故振り返すのか、不思議でならなかった。
「なんだ、あんたその話本気にしてたのか?」
「え……で、でも」
「知らないなら教えといてやろう。俺達はまんまと騙されていたんだよ、この話を語った人間にな」
「え……えぇ!!?」
あの話を聞かされた時以上に僕は驚いた、嘘だと言うの鏡水に僕は詰め寄った。
「そんな、仮にその話が本当なら何故鬼村警部は僕達に本当の事を教えなかったんです!?」
「教えようにも教えられなかったんだよ……なんせあの鬼村って男も本当の事を知らずにいたんだからな」
「じゃあ一体誰が…」
「簡単な話だ、そもそも鬼村とかいう男も受け売りだったんだからな。じゃあこの話は一体誰が話したのか、そう考えれば答えは見えて来る」
「……それって…まさか」
「あぁ、かつて此処の院長だった神宮政和という男、そいつが嘘偽りを伝えた張本人だ」
僕は唖然とした、出会った事すら無い人間だが疑問を抱かずにはいられなかった。
「で、でも…何故政和氏の証言が嘘だと言い切れるんですか?」
「あんたがさっきそこのポンコツに話していたろ、気付かなかったのか?」
「…え?」
その言葉の意味を理解出来ずにいると、業を切らしてか鏡水が話し始める。
「思い出してみろ、臓器売買の為の犠牲になった連中の共通点は何だ?」
「共通点って確か……治る見込みの無い患者、でしたよね」
「おかしいと思わないか? 臓器なんて死んで間も無い患者から幾らでも摘出出来るし、やろうと思えば書類ごまかして健康体からだって取り出せる。わざわざ生きてる重病人使うのに長所なんぞ一つも無い」
「確かに、言われて見れば…」
「加えて患者はどれも動けない程の容態だ、当然臓器は癌や炎症に蝕まれていたに違いない。そんな臓器なんざ売買しても誰も欲しがりゃしねぇよ」
「そうですね……だとしたら何故政和氏はそんな嘘の証言を言ったんですか?」
「それは…」
鏡水が話し始めようとした時、不意に先導するオイルランプの火が揺らめき辺りに映し出されていた影がそれに伴い不気味な蠢きを見せる。鏡水は立ち止まると、ランプの中を覗き込みながら答えた。
「…それは恐らく、ある人物を守る為に仕組んだ絵図だったんだろうな」
「ある……人物?」
疑問を含んだ様な独り言を呟いたが、鏡水は気にせず再び歩き出す。
「ま、待って下さい! それじゃあ今回の連続猟奇殺人とこの病院が封鎖された理由とは関係が有るって事ですか!?」
「あぁ、酷く細い線だが確実に有り得る事象だな」
僕が困惑していると、横で並んで歩いていた悠司がこちらに近寄り話し掛ける。
「先生、そんな事って有るんでしょうか?」
「僕にもよく分からない。でも彼が言っている事はあながち間違ってはいないようだ」
僕は正面を向き、背を見せ歩く鏡水の後ろ姿を見た。彼は一体どんな顔を浮かべているのだろうか、この異常な事件に狂喜しているのか、或いはこの事件で死んで逝った者達に嘆いているのか。
しばらく歩くとふと脳内にとある疑問が過ぎる。
「そういえば……犯人はどうやって吉川翔子の所在を割り出したんですか? 警察さえ捜し出せなかった筈なのに」
鏡水に尋ねるが彼はこちらを全く見ようともしない。不思議に思っていると、鏡水は突然足を止めた。
「…残念だが話は此処までだ。ついに辿り着いたぞ、地獄の深淵に……」
彼はランプを持ち上げ上を照らした、そこには霊安室と書かれた看板が掛かっており見るとすぐ眼前に地獄へと通ずる扉の姿があった。
「…ま、また来る事になるとは数日前までは思いもしませんでしたよ」
「正面に立つだけで否応無く感じるぜ、気味の悪い邪念を体中になぁ」
鏡水は後ろに立ち尽くしている悠司にランプを手渡し、自身は左右のドアノブそれぞれに手を掛けた。
「…この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ…」
「!? それって、確か…」
鏡水が住む神社の鳥居に刻まれていた言葉、確かある文学作品から引用した言葉だった筈。
「此処から先はあんたが欲するものは無い、有るのは禍津が生んだ歪みだけだ…」
「な…どういう意味なんですか!?」
理解に苦しむ彼の言葉に翻弄され思わず声を荒げてしまう、それでも鏡水は振り返りもせず静かに扉を開け漆黒の海へと消えてしまった。明かりも持たず奥へと消えて入った鏡水を不安に思い、僕と悠司も彼の後に続き口を開けた闇に足を踏み入れた。
霊安室は驚く程冷たく、夏もまだ半ばだというのに入ってすぐに僕は身震いを覚えた。この異様な寒さがより恐怖心をくすぐり、眼に映る全てのものが不気味に思えてくる。また入ると同時にとてつもなく嫌な臭いが鼻奥の神経にまで伝わってきた。そういえば初めて霊安室に訪れた時は何も感じなかった、この病院に対する恐怖心が神経を麻痺していたのだろうか。僕は口許を手で覆いながらも必死に平常を保とうとする、ふと横を見ると悠司も壁に手を付いて気分悪そうにしている。
しかし、そんな様相などお構い無しに闇から伸び出た腕が悠司の手から強引にランプを奪った。
「は…早く用件を済ませましょう……此処は長居に最も適さない場所です」
言葉を途切らせながらも必死に懇願する。此処に居ては体力、精神力を時間と共に擦り減らしてしまう。
苦しむ僕達を尻目に、鏡水はランプで室内の至る所も照らし出している。
「残念だが早く帰れる等という希望は何処にも無いぞ、欲しけりゃその辺で拾ってくるんだな」
濃い皮肉味を含んだ言葉を当たり前の様にぶつけてくるが、それよりも彼が何をしているのかが頗る気になってしまう。
「…一体何を探しているんです?」
「何も探していない、いや正確には探し出そうにも見付からない、というべきか……」
「また訳の分からない事を…」
「訳は分かるさ、ただ理解しようとしないだけでな」
そう言うと鏡水はランプを部屋中央に据えある机に置いた。それは一時的に死体を安置しておく為の物、しかし置かれたランプは机上の詳細を明瞭に照らし出す。見ると机には微かだが血痕の様な跡が残っており、僕は腰が引けてしまう。
「こ…これは……」
「あんたもとっくに感づいているだろう。この場所は異常だ、この部屋だけで無くこの建物全てが」
鏡水はランプから離れ闇にその姿を眩ました、いくら明かりとは言えこの部屋の隅々を照らし尽くすには及ばず未だ暗闇の恐怖を拭えずにいた。
「まずおかしいのは、先にも述べたようにこの病院には資料が少な過ぎる事だ。此処は昔、当時の院長だった神宮政和が臓器売買の罪で捕まった事は先程話した通りだ、仮にそれが嘘だろうが本当だろうがその直後に封鎖されたのならば多少の資料が残っていてもいい筈だ」
鏡水の声が何処からとも無く聞こえるが、姿無きその声は虚しく響き闇へと消えて逝く。
「さらに資料が無いのは此処に限った事じゃない。あの神宮第二総合病院にも禄な資料が残っていない、当時の新聞も当てにならず結局神宮政和の言葉だけが全ての真実を物語っているかの様な状況だ」
「当時の新聞って……いつそんな物まで調べていたんです?」
「あんたが三島楓殺しの捜査に躍起になっていた時だ、おかげで病院の資料室には一人で忍び込む羽目になってしまったがなぁ」
「…またそんな事したんですか、本当に捕まりますよ?」
「あんたも同じ穴の貉だろう、俺を責めるにはちょっとばかり分が悪いぞ」
再び鏡水が闇から姿を現し、安置台に両手を付き前のめりになりながら話し続ける。
「神宮政和は真実をこの病院の封鎖と共に隠してしまった、しかしながらある人物によって闇に葬られた筈の真実は再び日の目を拝む次第になった訳だ。皮肉にもその人物とは、自分の身を破滅させてまで守ろうとした人物だった」
その言葉に僕の頭は即座に反応し始める、鏡水の話から導き出される人物に僕達は出会っているかもしれないのだ。
「…まさか……この事件の犯人って…」
「せ、先生にも分かったんですか!? 連続殺人犯が誰なのか!」
僕が口を開こうとしたその時、すかさず鏡水が手を前に押し出し僕の言葉を塞いだ。
「まぁ落ち着け、先を急ぐ気持ちも分からんでもないが残る疑問は山程有る」
鏡水は手を下ろし、一息着いてから再び話し出す。
「まず一つ目、そもそも犯人は何故こんな狂気滲みた犯行を繰り返すのか、俺にはそれが気掛かりだった。あそこまで死体を散乱させるにはかなり時間が掛かる所業だ、わざわざ危険を冒してまで犯人がこだわる理由を俺は死に物狂いで調べたよ」
「それで…何か収穫はあったんですか?」
「偶然だが昔此処で働いていた看護婦を見つけた、此処が封鎖された後新しく建てられた神宮第二総合病院で今も現役で働いていたよ。その看護婦いわく、この霊安室は単なる死体安置だけに使われていた訳ではなかったみたいなんだよ」
「…じゃあ……他に何の目的で使われていたんです?」
今度は悠司が問い掛けたが、彼に一瞥もせずに話を続けた。
「…昔、この近辺で伝染病が蔓延していたんだ。おかげでこの病院はその当時伝染病患者で溢れ返り、治療は追い付かずただただ重病人だけが鼠算式に増えていってしまった」
伝染病、この辺りでそんな恐ろしい事が起きていたなどとは思いもしていなかった。
「そこで病院側は苦肉之策ながら対処法を考え出した。それは……惨い事だが、治る見込みが無く手に負えなくなった連中をこの部屋に監禁したんだ、もうすでに死んだものとして扱われ治療すら受けられなかったんだ」
「そんな…酷い……」
これまで落ち着きかけていた感情が再び慟哭しているのが感じられる。この場所は只の呪いの現場ではなかった、本物の人間の怨嗟が酷くこびり付いた本物の地獄であったのだ。
「…人権を蔑ろにして…只単に自らの死を約束されるなんて……そんな…そんな!!」
「せ、先生、落ち着いて下さい!」
悠司の言葉は僕の高ぶった感情を抑え切れず、完全に決壊しそうになる。
「その怒りは何処に向けても昇華出来んぞ、ぶつけるべき相手はこの場所にいないからな」
その言葉で僕はふと我に返り、気持ちを抑えどうにか落ち着こうとする。
「話を戻そう、その風習はこの病院が閉鎖されるまで続けられていたらしい」
「…それじゃあ…臓器売買で殺されたと思われていた人達は……」
「あぁ、此処に囚われ此処で殺されたんだ、狂気に満ちた犯人によってな。病室ならまだしも霊安室には普段誰も近付こうとしない、犯人にとって殺人にこの上ない場所であった筈だ」
この場所に淀む邪念に搦め捕られた僕とは違い、鏡水は至って冷静に話をしている。
「それで……犯人の動機は?」
「…それは……」
そこで鏡水は言葉を止めた。しばらくしてから鏡水は重い口を開いた。
「…恐らく、人間の本質を覗こうとしたのだろう」
「……え?」
僕は間の抜けた声を零してしまう、彼の言葉は常に謎を含み常人の踏み入る隙すら与えない。
「く、詳しく教えてください!!」
「まぁ待て、残り疑問は他にも有る」
何一つ詳しい事を聞き出せぬまま、鏡水は話題を移し替えた。
「二つ目、この病院が閉鎖されてから二十五年後に何故犯人が再び殺人を犯すようになったのか、不思議に思わないか?」
「確かに…二十五年のブランクはあまりに長過ぎますね」
「なに、答えは簡単だ。この病院の閉鎖後、犯人はその猟奇性を塞ぎ込み一般的な人間として生活していたんだ。しかしこの病院の呪いの噂を聞き付け霊安室を訪れてみると、そこは不気味且つ悍ましい雰囲気に染め上げられた呪いの本殿と化していた。犯人は此処の異常な狂気に触れその猟奇性が再発してしまった、と考えるのが妥当だろう」
確かにこの場所を見れば気がおかしくなってしまう人間は少なくないだろう、此処はそれ程までに恐ろしい迷い込んではいけない場所なのだから。
「つまり正確に言えばこの場所は地獄の深淵では無い、此処は犯人の抑圧出来ぬ歪みが生み出した精神、心の深淵なんだよ」
「心の…深淵…」
その言葉が僕の中で深い意味を持ち始める、この場所は呪いの怨讐と犯人の猟奇という二つの邪心によって彩られていたのだ。
「そして三つ目、これは望月さん、あんたがさっき俺に尋ねていた疑問に似ている。犯人は殺された被害者をどう特定していたのか、これについては周知の事だと思うが葉書には呪ってほしい相手についての内容が書かれていた、犯人はそこから狙う相手を絞り出し犯行に及んでいたんだ」
周知の事実かどうかは別として、確かにそこまでは時間を掛けて考えれば辿り着ける範囲だ。
「だがそれでも解けない糸は存在する、互いの名前を書き記した三島楓と後藤行雄はともかく名前すら公表されていない吉川翔子の存在を犯人はいつ知ったのか」
それはまさしく僕が彼に尋ねた質問の内容そのままであった。
「…恐らく探偵事務所の近辺で見張っていたんじゃないでしょうか、出入りする人間が分かりますしそれしか考えられません」
「本当にそれだけか?」
「何ですって?」
僕の推理をこの男は軽く一蹴してしまう、そして鏡水は机に置いていたランプを再び手に取り僕の目線の高さまで持ち上げた。
「その推理では五割弱の正解でしかないがあんたの推理はあながち間違っちゃいない、しかし犯人はそれ以前から彼女の事を知っていた。恐らく、俺やあんた達が彼女と出会うずっと前から…」
「ど、どうやって!?」
眼前のランプのまばゆい光が邪魔をして、その向こう側にいる鏡水の姿が見えない。それでも僕は彼に問い詰める。
「至極簡単な事だ。見ていたんだよ……今まさにこの状況と全く同じようにな」
(同じ? 同じとはどういう意味だ?)
自分の言葉で目の前の人間が困惑している事に見向きもせず、ランプを虚空へと突き付けた。ランプが指し示す方へ眼を向けるがそこには物珍しい物は何一つ無く、有るのは先程この霊安室に入る為にくぐったただの戸口だけであった。
しかし鏡水はその虚空へ敢然と向かい言葉を放った。
「そうですよね……神宮第二総合病院現院長、神宮英章殿」
彼の言葉は僕の思考を停止させるのに十分過ぎた、彼の言葉を理解するよりも先に進む事態の変化に頭が着いて行けなかったからだ。
すると廊下へと至る扉がゆっくりと開き始めた、甲高い金属音と共に扉はその向こう側に佇む闇を映し出す。本来ならその先には何も無くこの場所とさほど変わらぬ絶望の墨色が広がっている筈である、しかし僕の想像とは違いその先にはいる筈べきで無いものがあった。僕達と同じように薄暗を身に纏いこちらに近付いて来る、それはかつて出会った事のある人物、白髪混じりの髪に眼鏡を掛けた年配の男であった。
「……神宮…院長!?」
「そんな、どうして此処に……せ、先生!!」
困惑する悠司は僕に頼りを求めて来るが、今の僕にさえ何が起こっているのか分からないのにどう説明すればいいというのだろうか。
「じ、神宮院長、何故こんな所に!?」
「それは私が言いたい言葉だ、此処の管理者である私がいて何の問題も無いだろう?」
神宮院長はうろたえる僕と悠司とは反対に、この場所では異例な落ち着いた様相である。
「何故君達は此処にいるのだ? 此処は殺人現場だぞ、それを理解していない訳では無かろう?」
「そ…それは、ですね……」
返答に困っていると、突如鏡水が神宮院長の真正面に当たる位置へと移動した。どうやら彼が話を着けるようである。
「ん? 誰だね、君は」
「紹介が遅れました、俺は比良坂鏡水、辺鄙な下町の御社にて宮司を勤めいる者です。貴方の話はかねがね聞かされています、この様な場所で御会い出来るとは正しく縁は異なものと言った所でしょうか?」
「そんな事はどうでもいい、何故君達が此処にいるのかを私は尋ねているのだが?」
彼とは一度しか会って話をした事がないが、その時よりも心なしか口調が厳格になっている。
「ならばこちらは原点に帰って何故貴方が此処に居るのか問いましょう」
「何度も言わせないでくれ。私は此処の管理者だ、この場所に居て何等問題は…」
「それは答えになってませんよ、俺は此処に居る理由を問いている、権限など問題じゃないんですよ」
その問いに対して神宮院長は何も語らず、口をつむり黙してしまった。
「言えない筈じゃないでしょう? 貴方が此処に居る理由、それは俺が貴方を招いたからだ」
「神宮院長を招いた? それは一体どういう事です?」
分からない事は反射的に聞いてしまう悪い癖、鏡水は訝しげな顔をこちらに向けた。
「俺が二度目に院長室に訪れた時だよ、今夜この場所を訪れる、という紙をわざわざ置いておいたんだ、あんたの事務所から去った後にな」
「二度目って……まさか病院の資料室に無断で侵入した時にですか」
「まぁ深い事は気にするな、それより神宮院長、何故貴方が此処に居るんですか?」
「それは…君達がこの廃病院に向かうと知り、止める為に来たんだ」
「紙には携帯電話の番号を添えておいた筈ですよ、わざわざ会いに来てまで止める必要は何処にも無いじゃないんですか?」
神宮院長のペースに呑まれかけていたが、冷静に考えて彼がこの場所に居るのはあまりにも不自然だ。再び気不味い沈黙が流れたが、それを破ったのは鏡水だった。
「まぁそんな細かい事はどうでもいいか、俺が貴方を招いた理由は貴方と直に話せる状況を作る為なんですよ」
「私と話だと? 一体何を話そうと言うんだ?」
「別にそんな、大した話じゃありませんよ」
ランプを安置台に置き、鏡水は薄い笑いを含んだ口調で神宮院長に歩み寄る。
「神宮英章殿……貴方ですよね、此度の一連の猟奇連続殺人の犯人は…」
その言葉はこの空間を一時的に凍てつかせた、しかしその言葉自体に僕はあまり驚愕の念を生み出さなかった。
「…そんな、神宮院長が……どうして……ま、まさか先生もそう予見していたんですか!!?」
そうだ、悠司の言う通り僕は薄々感付いていたのだ。鏡水の話から推理するとそれらの条件に一致するのは、今この場所に居る神宮院長しかいなかった。しかし僕はその推理を一切肯定したくは無かったのだ。
「貴方ならこの廃病院に堂々と侵入して霊安室の呪いの葉書を見る事が可能、被害者の身体を物の見事に分解出来る凶器だって病院に幾らでも持ち合わせている。考えてみれば死体をあれだけ上手く切断したり皮膚を綺麗に剥ぎ取るには、人間の身体の構造を熟知し尚且つ手先の器用な人物だけ……」
「それが出来るのは私しかいない、そう言いたいのかね?」
「流石神宮院長、物分かりが良く嬉しい限り、何処かの自称探偵助手とは比べものにならない程ですよ」
恐らく悠司の事を言っているのだろうが、この状況下でよくすらすらと暴言が吐けるものだ。
「君の推理はよく分かった、しかしそれは推理と言うには程遠い粗末な憶測でしかない。そんなもので私を犯人呼ばわりしようとは…」
「無論こちらもこんなもので貴方を捕まえよう等とは思ってません、それにわざわざ貴方を此処に招いたのにはもう一つ理由が有るんですよ」
(もう一つの理由? それは一体何だ?)
疑問を募らせていると、鏡水は神宮院長の横を通り過ぎ後ろ手に周った。この空間唯一の光源を持って行かれ、僕達の居る場所は闇に包まれてしまう。
「神宮院長、御気付きになりませんか?」
「一体何をだね」
「奇しくもこの場所は陰惨な殺人が行われた現場です、なのにこの病院は警察の見張りも無ければ現場立入禁止のテープすら見当たらない、何故だか分かりますか?」
「……まさか…」
「き、鏡水さん!! それってつまり…」
僕の脳裏に嫌な記憶が蘇る。この男は目的の為ならどんな事でもやらかす人間だ、そして神宮院長を呼び出す為に何を仕出かしたのか、想像さえしたくないのに答えが思い受かんでしまう。
「望月さん、俺はあんたがこの病院に来るずっと前から既に到着していた。案の定立入禁止のテープが至る所に付けられていたが、偶然にも見張りの警官が一人も居なかったおかげで事を順調に進めれたよ」
「じゃあやっぱり……此処は警察によって立ち入りが禁止された場所、って訳ですか…」
「ち、ちょっと待って下さいよ、それじゃあ俺達また警察の厄介になるじゃないですか!! 先生、まさか俺達逮捕されませんよね!?」
悠司は抑え切れない動揺を表に晒した顔を僕に向けているのだろう。逮捕はされないが、厳重注意兼取り調べの為にまたあの取調室に向かわなければならない筈だ。
(それが狙いか、警察に神宮院長の身柄を引き渡す為の布石であったという訳か)
続けて鏡水は懐から自身の携帯電話を取り出し、立ち尽くす神宮院長の肩から腕を伸ばしそれを向けた。
「今すぐにでも警察に電話出来るようにはしてあるんですよ。連絡すれば警察がこの場所にやって来る、此処に居る全員が背負っ引かれ仲良く取り調べを受ける羽目になる」
挑発的な鏡水の言葉にもまるで動じず、神宮院長は変わらぬ低い調子で言葉を返した。
「その言葉信用に足らないな、そもそも本当に警察が此処まで来るか分からないじゃないか?」
「自慢じゃないですが、俺は警察から大変煙たがられているんですよ。連絡して知らん振りされる可能性が有りますが、俺を取っ捕まえる為にやって来る可能性の方が高いと思われます」
「…仮にこの場所に警察が踏み込んだとして、私が取り調べを受ける事にはなる過程は分かった。しかし、だからと言って私が連続殺人容疑で捕まる事とはまた別の話である筈だが?」
鏡水は携帯電話をしまい、再び神宮院長の正面に回り込んだ。暗くてよく見えないが明かりに一瞬だけ照らされた鏡水の顔は不気味な程に破顔していた。
「あそこにおられる探偵先生は、悲しいかな数年前まで警察官として働いておられたんですよ。厄介者の俺ならまだしも、こちらの先生の言葉ならば多少なりと信憑性があると思われますが」
鏡水は僕を指し示しながらそう答えた、僕達は彼の逮捕劇に付き合わせる為に呼ばれたというだった訳だ。
「さらに言えば、一連の猟奇殺人はどの死体も悲惨なものだった。死体をあそこまで徹底的に破損させたのであれば、少なからず被害者の血液が付着している筈だ。仮に貴方が事件に一切の関与をしていないと申されるのであれば、警察のルミノール反応の検査を受けて下さい。それでもし反応が出ないのであれば、貴方を犯人扱いするのを諦めましょう」
神宮院長に顔をより近付かせ笑みを零しながら語る鏡水、酷い悪人面で威嚇するその姿は見ているだけで恐怖心を煽る。何も語らず完全に沈黙してしまった神宮院長、その彼の正面からは自らを追い詰める獰猛な捕食者が存在している。
精神を押し潰す様な長い静寂の後、拮抗を破ったのは神宮院長であった。
「…いつから気付いていたんだ……私が犯人だという事に…」
遂にその言葉を聞かなければならない時が来てしまった、この現在に固執していた時間がようやく動き始めた瞬間であったのだろう。冷たい視線を崩さぬ鏡水は顔色一つ変えずに答えた。
「貴方の話を聞かせて貰った時には既に怪しいとは感じていました。しかし決定打となったのは貴方の部屋、つまり院長室に忍び込んだ際に見つけたこれですよ」
再び懐をまさぐり始め何かを取り出した鏡水、それを後方に立つ僕へと向かって放り投げた。危なげなく受け取ったそれは錠剤入りの小瓶だった。
「これって……確か神宮院長が服用していたビタミン剤じゃ…」
「薬剤学に疎い探偵先生に教えてやろう、そいつはマイナートランキライザーに属するベンゾジアゼピン類の薬品、つまり……精神安定剤だ」
「精神安定剤……これが…」
僕の言葉は自然と震えてしまう、この薬の服用者が精神を病んでいるとは全く思いもしなかった。呆然としていると掌で握られていた小瓶を、鏡水は静かに抜き取った。
「神宮院長、俺は幻滅しましたよ……仮にも医師として責務を果たして来た貴方が、こんな物で心の奥底に住み着く怪物を抑制しようとは情け無い限りですね」
「そこまで言われると反論のしようが無いな。しかし精神や心理は自身の問題だ、他人が干渉した程度で解決出来る程単純な話では無い!」
「その歪曲した人生観をひたすらに満たす為に、貴方は多くの他人の人生を自分の人生に絡ませたという訳か!」
感情を露にした二人の静かな怒りが感じられた。これでまた一つ真実が明かされた、神宮院長が自らの猟奇性を抑える為に精神安定剤を服用していた、そしてその証言は本人の言葉により揺るがぬものとなった。
しかしまだ納得がいかない、彼が犯人ならば非常に重要なものが未だ明かされず終いになっているからだ。
「…して……どうして…」
「!? せ、先生!」
僕は自身の感情の暴走を止められなかった、それは犯人に対する怒りにも被害者達へ悲しみにも似た感情であった。
「どうして貴方は殺人を犯したんですか!? 何の罪も無い一般人に手を掛けて、あれ程惨たらしく殺して、一体何のつもりですか!! 貴方は人間の命を何だと思っているんですか!?」
「先生、落ち着いて下さい!」
悠司は僕の腕を掴み必死に止めようとするが、僕は乱暴に彼の腕を振り払った。我慢が出来なかった、眼前に佇む医師が平然としている事もだが何よりこの男が殺人を犯した動機、それを知らずにはいられなかった。
「…望月先生、貴方にはあの無惨な肉塊が人間に見えたのですか?」
「な、何を言って…」
「そうか…やはり駄目でしたか……」
淋しく、何処と無く悲しげに見える神宮院長は目を伏せそのままうなだれてしまう。
「ふざけるな!! 一体何の話をして」
神宮院長に詰め寄ろうと鏡水を横切ろうとした時、突然後ろ襟を掴まれ思い切り引っ張られる。掴んだ手の正体は鏡水、後ろに回り込まれ反対の手で両目を塞がれる。顔に触れた鏡水の手は酷く冷たく、興奮で熱を持った自分とは相反するものだった。
「いっ…な、一体何を」
「気持ちは分からんでも無いが取り敢えず冷静になれ、眼に映る事象ばかりに気を取られて感情に身を任せるは愚者の典型だぞ」
低く重みの有る声が耳元に響く、おかげで逆上した心を多少なりと落ち着かせる事が出来た。
「望月さん、あんたが知りたがっていた事を教えてやる、神宮英章がこの猟奇殺人を行っていた訳をな」
未だ両目は解放されず、僕と周囲の世界を繋ぐ道は鏡水の言葉だけであった。黒い闇の中で僕は鏡水の言葉に耳を傾ける。
「……この男はな…人間が人間で在る訳を知りたかった、つまり…人間が人間で無くなるその狭間、人間が自身を人間と確信出来る何かを探しだそうとしていたんだ…」
(人間が…人間で無い? 人間が…人間である理由?)
その言葉で僕の思考は一瞬だが確実に停止した、頭蓋に収まる脳髄と肋骨に納まる心臓だけが流動し鼓動するものを感じるしか無かった。
隠されていた視界をようやく解放されたが、今の僕には辺りを確認する事すら出来無い程に困惑の嵐が頭の中で吹きすさんでいた。立つ事さえままならず、遂には倒れてしまいそうになったが間一髪悠司に支えられた。
「先生、しっかりして下さい!」
「人間の理由…狭間……」
僕は散乱した思考を纏める事が出来ず、口からは意味の無い独り言を零す有様である。そんな僕を余所に鏡水は神宮院長と話を始めた。
「貴方に殺人衝動を植え付けさせた要因は、恐らくこの病院内で人間が実際に分解される場面を幾度となく見て来たからでしょうか」
「分解って……そんな、まさかそれって!!」
(…解剖……手術室!)
悠司の言葉が固着していた思考を呼び覚ました。この病院が封鎖される原因になった事件は二十五年前、神宮院長の容姿から察するに当時は中学、高校生辺りだろう。そんな精神バランスが不安定な時期に人間の開腹姿や解剖姿を見れば、気が狂ってしまうのは些か納得出来る。
(…だがしかし彼は何処でそれを見たんだ、単なる学生が手術中に手術室に出入りなど無理な筈あるが…)
「…確か手術の際にその手術内容をテープで録画する場合がありましたよね? 医療ミスが確認された場合に見返す為のテープだった筈、貴方は父親の目を盗み密かに鑑賞していたんじゃないですか?」
僕の脳内に湧き出た疑問に答える様に鏡水は話し出した。
「……よくそこまで分かりましたね、まるで初めから見ていたかの様だ…」
顔色一つ変えずに話していた神宮院長が少しだけ顔を強張らせていた。そして視線を僕に移し話しを始めた。
「望月先生、この男の言った事は本当です、私は人間が人間で在る所以を見つける為に殺人という非道徳的な行為を行っていたんですよ。原因もこの男の言う通り、私が幼い頃に受けた痛烈な衝撃により私は自分でも制御出来ない程の悪魔を身に宿す事になってしまった……」
そこで言葉を紡ぐと神宮院長は眼を伏せて沈黙した。静寂である事に落ち着けない僕は鏡水の方を見た、後ろ姿で室内が暗いせいもあり顔をはっきりと見ることは出来なかったが一瞬だけ見えた彼の横顔は悲しく憂いを帯びているように思えた。
「……もう二十五年前の事だ、私が変わったあの出来事は……」
精神を病みそうな沈黙の後、神宮院長は静かに自身の過去を話し始めた。
++++++++++++
私はこの病院の院長、神宮政和の一人息子だった。物心付く前に母は既に他界しており、唯一の肉親である父だけが心の寄り所であった。父は厳しい面も時々あったがいつも私の事を気に掛けてくれた、常日頃から孤独な私にとって心の支えとなる存在であった。
ある日の事であった、私は父の迎えの為にこの病院を訪れた、その時私は院長室で待っているようにと言われ静かに待つ事にした。ふと父の仕事机に目をやると何本かのテープが置かれていた、ちょうど部屋にビデオデッキも置いてあり父が来るまでまだ時間があったので見る事にしたのだ。まぁ悪気は無い、単に学生特有の好奇心に負けたせいなのだから。
初めて見た時はそれが何を映しているのか全く分からなかった、画面が覚束ずぶれていたが徐々に見ていく内にそれが何なのかを理解した。手術台の上に男が寝そべっている、最初は死んでいるかと思ったが様子を見る限りまだ死んではいない事に気付いた。手術台を医師達が取り囲む様に並んでいる、見れば父の姿も見受けられ皆張り詰めた表情をしている、これは実際の手術の映像だ。そういえば私は手術というものがどういうものなのか当時はよく分からず、どうやって人の体内を治療するのか常々疑問に思っていた。
しかしそこに映っていたのは、学生であった私にとって酷く衝撃的な映像だった。手術台に横たわる男の体、ちょうど鳩尾にメスが深く刺さりそこから下腹部までメスで切れ目を入れている。そうして出来た皮膚の切れ目を開くと、そこには人間の体内にあるべき胃と腸が露となり周囲で見守る医師達に晒される。しかし医師達は戦慄の声一つも上げず今度は胃と思われる臓器にメスを押し当てた、想像していたものとは違う血に塗れたそれはぬめりを帯び手術用ライトの強い光が反射する。動きこそ無いが生々し過ぎるそれはまるで別の生物が巣喰っているようにも見えた。
私の頭では眼に映る全てを理解するには及ばなかった、先程見たあれは正しく人間のものであった。つまり私も含めて全ての人間はあの不気味な部品によって成り立っているのか、背筋に冷たいものが走り抜け酷い吐き気に襲われ無意識に私は自分の腹部に触れていた。そして考えた、私は小さい頃は人間とは固有の物質であると信じてきた、それは違うと知っていたがこの様な方法で知りたくは無かった。それに認めたくはないがあれは人間のものだ、ならばあれが人間の本体なのか、となれば私達が人間だと思い込んでいるこの身体は部品により動かされている「器」でしかないのか。しかしあのグロテスクなものは人間では無い、ならば何が人間であるというのか、臓器は人間のものであるが人間では無い、では人間と非人間の境とは何処に在るのか、質問と応答が自身の脳内で蠢き葛藤している。そもそもこの脳も同じで脳は私である事を自覚させてくれるが私では無い、私の身体は行動し考える度に私をより深い苦悩へと陥れていき頭痛は唯一私とこの世界を結ぶ橋の役目を果たしている。苦しむ私を尻目にテレビの中では今尚も手術が続いている、私の父もより険しい表情で悍ましい物体に手を入れている、私は父にこれまで感じた事の無い恐怖を感じた。無限に続く様な混沌とした苦痛が私の脳を完全に支配していった。
一体どれ程の時間が経ったのだろうか、気が付くと目の前の映像は消えており今は砂嵐が耳障りに己を主張している。先程まで響いていた頭痛は和らぎ、その余韻を微かに残していた。
茫然自失とした自分に思考が少しずつ私を覚醒させていく、神経が研ぎ澄まされ体の末端まで痺れる感覚が伝わっていく。気が付くと私は自分の中に無性な渇きを覚えた、満たされない欲求を求め始めていた。
私は変わってしまった、それは他でも無い自分が一番分かっていた。ふと掌を見下ろした、皮膚の下で血液が脈動しているのが分かる、前までは感じる事など全く無かったというのにも関わらず。私の体は自然に動き出す、ビデオデッキからテープを取り出し別のテープを入れ再生する。脳手術、心臓手術の映像が眼に映り疑問とも欲求とも言えない感情が溢れ出す、人間離れした身体の状態、それを人間として救い出そうとする医師達、私は不思議で仕方が無かった。
生きていれば人間、死ねば物体、しかし死体をまるで生前の個人として皆接する。死ねば人間じゃ無くならないのか、分解された個々は人間じゃ無いのか。
人間を人間と定義しているものは何だ
人間という存在は一体何処にあるのだ
人間とは何だ
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「私は追求することにしたのだ、この世界であまりにも存在がなおざりになっている真の「人間」というものを探し出そうと思ったのだ。当時学生だった私はこの霊安室で死を迎えるだけの患者達を使い自らの理論を追究した、ちょうどこの場所は普段誰も近付かず私の行為に気付く者は一人もいなかった。しかし父だけは私の行為に気付いた、そして私を庇う為に居なくなった患者達は自分が殺したと嘘を付きその秘密を死ぬまで隠し続けた。私も父を失ったショックで一度この人格を深く閉ざしてしまった…」
亡くなった父親思ったのか眼には薄い哀愁の色が窺える、しかしその色はやがて猟奇性を帯び始めた。
「しかし二十五年後、呪いの噂を聞き付け此処を訪れると中は全く違う様相をしていた。そしてこの場所を訪れた瞬間私は再び覚醒したのだ、この部屋に巣喰う怨念が閉じ込められていた人格を呼び覚ましたのだ」
彼の話で僕は悟った、猟奇殺人の動機、二十五年のブランク、その全てが鏡水の言った通りの事象であった。
「この体は「人間」という精神を乗せる「器」でしかない、ならば「人間」という存在は何処にあるか、一連の殺人はそれを見つけ出す為の過程に過ぎないのだよ」
神宮院長は饒舌に話している、その顔は不思議と満足そうな表情を浮かべていた。
彼の話を聞いて僕は理解した、この男は完璧に狂ってしまっている、という事を。僕は震えが止まらない、医者それも大病院の院長がまさか連続猟奇殺人の犯人だとは、精神安定剤で殺人衝動を抑えていたからよかったものの一つ間違えればより多くの人間が犠牲者になる所だった、そう思うだけで寒気がする。
「…しかし幾ら人間を切り裂こうと、どれ程解剖を続けようとも答えは見つからない。絶対に存在している筈だ、そうで無いなら我々は自身を人間と認識出来無いじゃないか」
神宮院長は尚も話を続けるが、どの言葉も意味を解するには及ばない。眼はこちらこそ焦点が合ってはいるが完全に常軌は取り払われている。この男はもはや僕達の住む、見える世界を凌駕する程に歪んでしまっている、彼にとってすれば人間は皆同じ肉塊なのだろう。理解は出来無い、すればこの男と同じ運命を辿ってしまいそうだからだ。
既にこの場所はこの男の世界へと形を変えてしまった、深く恐ろしく血を吐く様な絶望渦巻く魔窟、鏡水の言った通り此処は地獄では無くこの男の精神の深淵であったのだ。頭痛と吐き気が自らの精神の安定性を削ぎ落としていく、肩を支える悠司の顔も恐怖に引き攣っていた。
狂気に包まれた霊安室の中、この異常な状況をも掻き消す出来事が行った。
「……フフ…フハハッ、クハハハハハハハ!!」
突然空気を乱す笑い声、驚き声のする方へ目をやると声の主たる白装束と黒袴の男が腹を抱えていた。
「ハハハッ、いや成る程、中々面白い御鞭撻だった。近頃そこまで人間について真摯に考えてるのは貴方ぐらいなもんですよ」
笑いを露骨に出しながら話す鏡水、暗がりに浮かぶその顔はまるで悪鬼羅刹の如く恐ろしいものに思えた。
「しかしながらその理論は間違ってますねぇ、発想自体は申し分無いが理論自体は恐らく万人には理解出来無い領域の話だと思いますよ」
「…どういう意味だそれは?」
愉悦に満ちていた神宮院長の顔が少しずつ不満の表情に変化していき、代わりに鏡水の顔に笑みが零れる。
「まず身体は人間の精神を乗せる「器」に過ぎないと言っていたがそれは違う、生物学上「人間」と分類される全ての動物は人間だ。例え精神と肉体が相反するものであったとしても肉体が人間のものだったならばそれは間違い無く「人間」と言い切れる」
見た目の禍々しさからは想像が着かない程鏡水の言葉は冷淡で理論的である、彼の言葉は重く聞く者を威圧するのだろう。
「しかし個々の部品が本人或いは人間では無いとは言い切れる。例えば人の指を切り落とし「これは貴方のお姉さんです」と言ってもそれは言われた本人にとっては単なる人間の指でしかない」
(確かにそうだ、眼や耳、鼻、口、腕と脚、表面だけでなく骨や血肉、臓器等の人間を構成する物質全てが揃ってこそ自分なのだ、どれか一つだけでは自分であるとは証明出来ない)
「つまり言ってしまえば貴方の考える「器」とは「人間」の存在を乗せるものでは無く「個人」の存在を乗せる為のものなのですよ」
「!? な、そんな……馬鹿な事を!!」
鏡水の言葉に反応し神宮院長が声を荒げる、普段冷静そうなこの男の怒号に少し驚いてしまう。しかし怒号を喰らった当の本人は全く怖じ気付いていない、むしろより気持ちが猛っている様だ。
「貴方に言うべき事は一つ、人間が人間で無くなる事態は有り得無い。例え切り刻まれようと飛散し肉片に成り果てようとそれは人間である、これは何人にも覆せない絶対的な事実なんですよ」
「う、嘘だ! 舌先三寸で出鱈目な事を言うな!!」
神宮院長は怯えている、新たな自分を覚醒させた理論を完全に崩壊させる者と対峙しているからだ。自分が殺人を犯してきた訳をいともたやすく打ち砕こうとする、彼にとってすれば自分が只の殺人鬼へと落ちぶれてしまうのが余程恐ろしいのだろう。
「貴方は自分は人間の真理の探究者だと思っているようだが、世間から見れば貴方は冷酷非道な殺人鬼でしかない。「個人」とは本人の一存だけで決めるものではなく、周りの複数人によっても決まるもの、貴方は所詮発狂した犯罪者でしかないんですよ」
「黙れ!!! 私の考え築き上げた理論を意に解する事も出来ぬ分際で、私を罵倒する権利は有るのか!!」
「言葉さえ意に解さず脳髄と両腕のみで行動する貴方が言える立場か? 貴方の意見は興味をそそるものだったが人殺しが何を言おうと結果は変わらない、天才科学者ガリレオ・ガリレイが天動説提唱の為に邪魔者を殺したとて結局は低度の殺人となってしまう。理論の為の殺人などこの世の何処にも存在しない、犯罪の正当化は精神が虚弱な人間の常套手段だ!!」
鏡水の言葉は神宮院長だけで無く僕の心をも貫いた、彼の唱える真言はこの霊安室に淀む狂気を鎮めているようである。鏡水の言葉に打たれたのか、神宮院長はその場で膝を着きうなだれてしまった。
怒号が部屋を払拭した後、先程とは打って変わり再び低く穏やかな口調の鏡水へと姿を変えた。
「二十五年前、貴方の父親が貴方を庇護し一度その猟奇性を失った時、貴方は自身の過ちに気付くべきだった。犯してしまった事は仕方が無いが今からでも遅く無い、警察に捕まり法の裁きを受けた上でその狂った精神を治すしかありませんね」
それはこの歪んだ執念に終止符を打つ言葉、もう時間が分からなくなる程この暗黒でさ迷い続けてきた僕達にとっての希望の光であった。茫然としていた僕は我に帰るとよろめきながら立ち上がる、驚きのあまり力が上手く入らなかったが口はいつも通りに言葉を発した。
「あ…貴方がこの一連の連続殺人の犯人という事は分かりました……僕は警察ではありませんが貴方が自首してくれるのを願っています。僕に出来る事はほとんどありませんが、貴方が公正してもらえるのであれば助力は惜しみません」
多少震えながらも神宮院長を説得しようとする、この事件に決着を着ける為ならば僕は自らをなげうつ覚悟だ。
目線を下ろし虚空を見つめる神宮院長に僕は幾ばくかの情が芽生えてしまう。
「…だから貴方も自分の罪を償うように努めて下さい、そうすればきっと」
貴方も救われる、と言う前に再び後ろ襟に強く引っ張られた。後ろを見る間も無く僕の体は後ろに飛ばされ、部屋中央を陣取る安置台に頭をぶつけた。台の上に置かれたランプの明かりが薄く揺らめき、後頭部を強く打ち激しい痛みが滲み出した。
「いっ…き、鏡水さん何するんですか!!」
怒りに任せ怒鳴り付けたが、振り向いた鏡水の眼に威圧されすぐに鎮静されてしまった。彼のその眼は普段周囲を威嚇する鋭い眼へと既に変わっていた。
「何してるってのはこちらの台詞だ、やはりあんたはつくづく甘い阿呆のようだなぁ」
呆れ果てているのが分かる程にあからさまな苦い表情を浮かべると、すぐにうなだれている神宮院長へと向き直った。
「俺の推理は確かに理に適うものだ、しかし俺の推理には重要な物的証拠が何一つ有りはしない。神宮英章、貴方には幾らでも言い逃れる事も白を切る事も出来た筈、しかし貴方はすぐに自分の罪を認めた、それだけで無く事件の詳しい詳細まで語る始末だ、一体何故か…」
「そ、それは……」
誰に向けられた訳でも無い鏡水からの疑問に反射的に反応してしまう、しかし答えようにも後頭部の痛みが退かず考えがまとまらない。戸惑う僕をあっさり無視して鏡水は再び話し出す。
「人徳、道徳的な観点を抜きにした場合、自身の犯行の目撃者から罪が露見するのを防ぐには罪を隠し続けるよりその目撃者を廃除する方がよっぽど合理的だ。恐らくはこの男も……」
鏡水はそこで話を終えると視点を神宮院長に合わせた、僕も彼に伴い神宮院長を見据える。
「……そこまで見抜いていたとは大変恐ろしい…」
低く冷たい声が狭い霊安室に響いた、体の芯を冷たい舌で舐め回される様な不気味さが全身を支配していった。
「隙を作ったが策を読まれるとは、やはり貴様は只者では無かったか、まさかこれ程まで追い込まれるとは予想さえして無かった事だ。その鋭い観察眼、聡明な推理、もっと早くに気付いていれば消していたものを…」
「それは褒め言葉ですか、もしそうならば非常に嬉しい限りですよ。だが俺を殺そうなどとは実に滑稽、貴方の器の底が知れるぜ」
二人の会話はもはや凡人には理解出来無い領域にあった、今の僕の眼には両人共に狂人にしか見えなかった。
先に動き出したのは神宮院長の方であった、ゆっくりと立ち上がり腰の後ろに手を回す。次の瞬間空を切る音と共にある物が僕達に向けられた、それは刃渡りの長い鉈の様な刃物であった。向けられたそれはランプの光を妖艶に映し出し、少し錆付いた刃はいかにも凶悪そうである。
「あ……あ……」
「ほう、そんな物を隠していたとは全く油断ならなんなぁ、それで被害者の臓物えぐり出していたという訳か」
「察しが良い、だが此処までだ。貴様達が全ての真相を求めようとした結果だ、知ってしまった以上私の手に掛かった連中の同様に私の理論の礎となる物言わぬ死体へと成り下がってもらう」
「邪魔者は有無を言わせず廃除するか……吉川翔子と同じ様に…」
その名前を耳にして僕はふと彼女の顔が頭に浮かんだ、しかし浮かんだ顔は生前のものでは無く洗濯機内で見つかったあの凄惨極まりない顔であった。
「あの娘は目障りだった、あんな劣悪なやり方を私の行為にした罰を与えただけだ。だがあの娘の死は私にとっては有意義なものだった、警察の目がそちらに向いてくれたおかげで残った私の仕事を片付けやすくなった」
「…残った……仕事?」
言葉の意味が分からぬ僕に、渡し舟を出したのは鏡水であった。
「それは…こいつの事ですか?」
鏡水は掌を広げ見せ付ける様に手を伸ばした、掌の上には鋭い銀色の光を帯びたある物が乗っていた。
「…それって、医療用のメス……でも何で此処に…」
「ちょうどこの場所で吉川翔子が三島楓を殺した際、彼女はメスを凶器として使用した。一般的にこれはその辺に転がっている代物じゃない、それじゃあこれは一体誰の物か…」
メスを握ると鏡水はその切っ先を神宮院長に向けた。
「貴方の物ですよね、貴方は三島楓殺しの現場を直に見ていた唯一の目撃者だ、恐らくこの場所に訪れた時同じくこの場所にいた三島楓と吉川翔子から身を隠す際に落とした物、本来ならすぐに拾おうとしたが吉川翔子に自分の存在を知られる前にその場を去った。しかし俺達が三島楓の死体を発見、警察が駆け付ける事態となり警察をこの場所から一時的にでも退散させる為に吉川翔子を殺した、違いますか?」
「……その通りだが、本来警察が管理している筈の凶器を何故貴様が所持している」
「三島楓の死体の傍に置いてあったんで、つい拝借してしまった訳ですよ」
警察署での騒ぎだけでは留まらずこの男は凶器まで盗んでいたのか、もはや僕の眼には程度の違う犯罪者しか映っていない。
「自分の命が惜しいなら、さっさと渡したらどうだ?」
「それは出来ぬ相談だ、このメスには三島楓のみならずその他の被害者の血液が付着している筈、貴方を完全な犯人として裁くのに必要不可欠な物的証拠をそう易々と渡す阿呆は何処にもいないぜ」
「……ならば仕方無い、その腕切り落としてでも奪い返すとしよう」
そう言うと再び鉈を向け、白衣の悪鬼がこちらに歩み寄って来る。少しずつ歩を進める度残酷な現実が床や壁を伝いにじり寄る、それに比例し純粋な死への恐怖が脳内を濁していく。口では言い表せない苦く不気味な何かは着実に脳機能を衰退させる。
もはや死の道しか残っていない、そう諦め掛けたその時であった、突然視界が遮られ僕より少し背が高い黒い影が僕の前に立ちはだかった。
「…ゆ…悠司君……」
「…死なせない……この人だけは絶対に死なせる訳にはいかない…」
身体の震えを抑える度に声が震え彼の恐怖心を映し出す、それでも決して動こうとせず僕を守ろうとしている。その行為に思わず心を打たれてしまうが、それに勝る恐怖が再び訪れこの行為が所詮死期を幾分伸ばしただけのものだと感じた。
僕を守ろうとする悠司に何も言えず只立ち尽くしていると、先程まで視界を遮っていた影は勢い良く横へ飛ばされ壁に激突した。
「っいてぇぇ……」
「無謀に立ち向かうその意気は良し、だが虚勢を振り撒いても守れるものは守れ無いぜ」
「き、鏡水さん…」
このような状況でも常時と変わらぬ鏡水に、僕の心はまた別の恐怖に侵食されていく。
「ポンコツはその辺で寝てろ、これは俺の仕事だ…」
鏡水はメスを手に持ち神宮院長に向かって行く、いくら鏡水でも十何人も殺した猟奇殺人犯をどうにか出来る筈など無い。
「…何故貴様には分からない、貴様は日頃から眼に映る人間に対して何の疑問も抱かないのか? 自分が何者で在るか知ろうともしないのか?」
「つまらない事をまだ聞くのか? 自分の事は他でも無い自分が一番知っている筈だが貴方にはその概念が備わっていない、故にこんな馬鹿げた殺人を繰り返す事が出来たんだろう」
恐怖の根源と真正面から対峙しているにも関わらず一歩も退かずに普段の冷静さを失わずにいる、過去の経験の何が彼をこれ程までに恐ろしいものにしたのだろうか。
「……それより、自分が一体何者で在るか知りたくないですか?」
「…何?」
その瞬間この部屋の空気が一変した、狂気の立ち込める空間で鏡水の言葉だけが唯一周囲を晴らす希望となっていた。
顔を神宮院長に近付ける鏡水、そんな鬼気迫る状況の中とある不可思議な事象が起こった。非常に小さく何かが掠れる様な音が聞こえ、その直後神宮院長は自身の左手を見た。見ると左手の甲に切り傷が付いていた、ふと鏡水の方に眼をやると右手に握ったメスの刃に血が付いていた。彼がやったのは明確だった、しかしそんな浅い傷では眼前の殺人犯を抑止するには至らない。所詮は無駄な行為、この事態を好転させるには遠く及ばない事は否が応にも分かってしまう。
だが次に起こった出来事は僕も予想していないものであった。
「ぅああぁぁぉぁぁおあぁぁあぉぁぅぉぁぁぁっ!!!」
突如神宮院長は叫び声を上げた、それは聡明で冷静な見た目からは想像も付かないものであった。傷が付いた手の甲を庇いながらよろめき後退りをしているが、やがて壁に背が当たり壁に沿って倒れ込んだ。
「あぁぅぁああぁぉぁ…何だ……何だこれは!!」
意味の分からぬ言葉を繰り返すだけで神宮院長はそれ以外は何も言わない、傷の痛みに喘いでいるようにも見えるが単なる切り傷程度で此処までなる筈がない。
(これは一体どういう事だ? 鏡水は一体何をしたのだ!?)
訳が分からぬまま呆然と立ち尽くしていると、鏡水はメスを投げ捨て地面で宣わる男へと近付いて行く。彼の背は何度と無く見て来たが、今の彼の背には感情が一切込められていない本当に真っ白な背に見えた。
「ぁあ、ああぅぁぁ…た、助けてくれ……私を助けてくれ!!!」
近寄って来る鏡水に助けを求めているようだが、残念ながらその宮司姿の男は助けを乞うのに絶対に値しない男である。恥も外観も無く不明瞭な何かに喘ぐ神宮院長のすぐ手前で鏡水は足を止めると、その姿を見下ろした後にこちらへと振り返った。
「…望月さん、あんたは望まないかもしれないが…」
低くそして落ち着いた声で彼は僕に語り掛ける、こちらを見つめるその双眸は怒りとも悲しみとも喜びとも言えない無色な眼をしているのがはっきりと見えた。
「…これが俺なりの荒療治だ」
そう言うと鏡水は右手の拳を握り締めると、未だ何かに怯え震える神宮院長の顔面に思い切りその拳を振り下ろした。
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