跋1
「呪い」と聴いて恐らく多くの方々が「丑之刻参り」を想像されるのだろう。白装束を身に纏い頭に三本の蝋燭を付け、全身に朱を塗り、御歯黒を施し、首に丸い鏡をぶら下げ、深夜静まり返り始めた頃神社の御神木に呪う相手の髪を編み込んだ藁人形を五寸釘で打ち付ける、日本で最も知られている伝統的な呪術である。
そんな「丑之刻参り」から出来た言葉で「人を呪わば穴二つ」というものがある。これは人を呪うなら相手用と自分用の墓穴を二つ掘らねばならない、つまり人を呪えば相手だけで無く自分も死に追い遣られるという戒めである。実は藁人形に釘を打ち付けるのは呪った事を大衆に見せ付ける為で、呪われた事実を知った相手は精神が破綻し疾病を患いやがて死を迎えるのである。では藁人形の呪いは一体何処に、それこそ呪った人間に向かったのだろう。神に人を殺してほしい等という無理な願いをした結果、逆に自分が呪われてしまうのだ。これを「逆罰」と言い、古来から戒められているのである。
さて、この話を聴いて呪いなんて信じない方も多くおられる筈だが、一つ覚えておいてもらいたい事がある。「呪い」とは異なる二つの事象を結び付ける為のものである、丑之刻参りは呪われた人間に死を結び付けるもの、占いは対象者の現代と未来を結び付けるもの、ひいては名前も人間に固有の意識、自我を持たせる「呪い」という訳なのだ。
この世の全ての事象が呪詛により形成され、一切衆生が何等かの形で繋がり合っている。つまり我々は自分だけでは無く他人との繋がりによって意味を成す、無数の糸に搦め捕られた空っぽの器とも言えるのではないだろうか……
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「…それは……本当なんですか?」
幾ら動揺を隠そうと、堪え切れず微かに声が震えてしまう。
「残念だが……本当の事だ…」
嘘だ、そんな話聞きたく無い、駄々をこねる幼子の様に頭の中では否定ばかり続いていた。恐らく今此処にいる全員がそう思っている筈である。しかし事実は変えられない、吉川翔子は殺された、それは紛れも無い現実である。
「畜生!! 一体犯人は何人殺しゃ気が済むんだ!!」
束の間の静寂を裂く様に握られた拳が机に振り下ろされると、鈍い鉄音が取調室全体に響き渡る。これ程までに怒りを表に出した鬼村警部はあまり見た事が無い、それ程に警部はこの事件解決に尽力していたのだろう。
「…今から現場に出動する。急いで支度して捜査に向かうぞ」
「しかし今回の一件で上層部は事を荒げるのを抑えようとする姿勢を示しています、上層部からの指示が無い限り出動命令を出す訳には…」
「ふざけるな!! 死人にが出てんだ、これ以上一般人に危害が及ばない保証も無いだろうが!!」
柊警部補の忠告を一蹴にし、鬼村警部は怒りに任せたまま部屋を出て行ってしまった。
「……すまない、見苦しい所を見せてしまったな」
「いや、いいんですよ。そんな事より…」
僕が此処に来た理由は一つ、先程連絡された吉川翔子の凶報について聞きたい事が山程有るからだ。
悠司からの伝言を聞き、その後彼と共に警察署に向かった。中に入ると呼んでもいないのに待ち構えていた柊警部補に連れて行かれ、此処最近やたらと縁がある取調室に連れて来られた。まさに疑問をぶつけるには最適な環境である。
「あぁ分かっている、吉川翔子の殺害事件について詳しく知りたいのだろう」
分かっているのならば話が早い、柊警部補は小脇に抱えていた捜査資料を置き見えやすい様に並べた。
「普段は一般人には見せない物だ、私の心意気に感謝したまえ」
彼女の言葉に耳を傾けながら、僕は一枚の資料を手元に寄せる。
「見て分かる通り、吉川翔子は今朝の六時頃市内のコインランドリーにて死体で発見された。死因は出血多量、第一発見者はその店の管理者、朝方ランドリー内の洗濯機の中に死体が詰め込まれているのを発見したそうだ」
僕は資料の内容に目を通す、中身は発見時の死体状況が事細かに書かれていた。やはり死体の損傷は激しく、内容を見るだけでもかなりの苦痛である。
被害者は四肢を切断された状態で洗濯機に放り込まれそのまま通常の衣類と同じ様に洗濯されたらしい。当然ながら被害者は死亡、柊警部補からの説明で死因は出血多量という事は生きたまま両腕両脚を切られたという訳である。考えるだけで恐ろしい、自分の四肢が無くなる事など考えもしない、ましてやその後洗濯機で洗われるなどもはや想像すら及ばない狂気と絶望の坩堝であろう。
「…一応現場写真も添付してはおいたが……正直見ない方が賢明だ、特に横にいる君は」
そう悠司に指摘し忠告をしたが、僕は構わず写真に眼を移した。
写真を見た刹那僕は柊警部補の忠告を無視した事を後悔した。
「…先生、一体何が」
「見るんじゃない!」
いつもは出さない強い口調で悠司を制止させる。三島楓の死体だけであれ程参っていた彼が、この写真で正気を保てるか分かったものではない。洗濯機の中はまさに地獄絵図である、蓋の内側まで血がべっとり付いており中は血一色で見ているだけで気味が悪い。カメラのフラッシュで明瞭に写し出されたその死体は、資料の内容通り両腕両脚を取り外された五つのパーツに分かれドラム内に乱雑に居座っている。髪、顔、服、その他肌等の全身に血が付着し乾いて黒く滲んでいる。眼を少し見開きこちらを見つめるその顔は、痛みと恐怖が焼き付けられ眼は生者に興味を示さぬ虚の窩と化している。
(酷い…残虐にも程があるだろう)
写真の中の物言わぬ死体に成り果てた翔子を見て僕は一層気分が悪くなる。もはや犯人への怒りすら込み上げない、心に空いた深い穴は虚しさでいっぱいだ。
「…他に何か犯人の手掛かりになるような物は?」
「現場からは犯人の指紋及び犯人に繋がるものは一切見当たらなかった。相変わらず犯人の目的、動機も掴めず捜査は難航の一途を辿っている」
柊警部補は半ば諦めた様に深くため息をついた。彼女も相当参っている、これ程の事件を背負っているのだから当然だろう。
「…気が済んだのなら早く帰ってくれ、これ以上長居しても何の得にもならんぞ」
「分かりました、行こう悠司君」
「はい先生…」
柊警部補の言う通りに悠司を連れ帰ろうとしたその時であった。
「待て望月」
柊警部補に呼び止められ、仕方なく後ろを向き彼女の方へ顔を向ける。
「…これ以上この事件に関わるな、冗談抜きにこれは本当の忠告だ」
柊警部補は目を睨ませ重く乾いた口調で話す。
「鬼村警部も言っておられたが、今はいつまた一般人が襲われるか分からん状況だ。もはやこの街に安全の保証なぞない、街全体が犯人の人質であると言っても過言では無い」
柊警部補はさらに僕達に詰め寄り話を続けた。
「忘れるな、君達は三島楓の第一発見者だ。犯人にとって事件の関係を知られた不足の事態、その怨讐がいつ何時決行されるか分からないんだぞ」
そういえば話していなかったが、彼女は三島楓殺しの犯人が吉川翔子である事を知らない。今となっては言うのさえ気が引ける、現にその犯人の怨讐は見事に叶ってしまったのだから。
だが、そうなると犯人はいつ何処で翔子の事を知ったのだろう、警察ですら身柄確保に手を焼いた程なのにも関わらず。
「暇が有ったらあの若造にも伝えておけ、もし再び事件調査等しようものなら命の保証は出来ぬ、とな」
そう言うと彼女は少し目を伏せた。恐らく彼女も吉川翔子の死を悼んでいるのだろう、仮に楓殺しの罪を知っていたとしてもきっと。
「私もこれ以上殺人事件が起こってほしくないと思う気持ちは同じだ。これだけは言っておく、犯人は私達が捕まえる、絶対に………話は以上だ、早く帰りたまえ」
取調室から追い出された僕達は外へ出る為廊下を歩き出した。中々足が進まない、今の打ちひしがれ荒んだ僕にとってこの廊下は無限に続くものの様に感じられる。
歩いてて分かったが今この警察署内に人が少ない事に気付いた。どうやら鬼村警部は署内の人員を動員させたようである、こんな事をすれば自分の立場が危うくなる筈なのに相変わらず強行手段を取りたがる。確かに彼の意見には一理ある、上の命令を待っていればまた被害者が増える危険があるからだ。しかし、これ以上の捜査で事件が進展するとは思えない、僕も含め事件解決に乗り出した全員が泥寧に足を取られているのだから。
警察署から出ると、先程までの晴れ模様はいつの間にか曇り空に変わっていた。最近はやたらと天気が変わり易い、僕の気持ちを写し出している様なあの空を何度見上げたのだろう。
車に乗り込み悠司に事務所まで運転させた、頭に響くエンジン音を唸らせながら力無くハンドルを握る悠司も何処と無く悲しげな面持ちである。
悠司もまた、吉川翔子が三島楓殺しの犯人である事実を知っている。例え短い時間でも例え殺人犯であっても人の死とは無条件に悼むべき事象である、彼も恐らくはそう感じているのだろう。さらに吉川翔子が亡くなった今、僕達は文字通り用無しとなってしまった。二重の負荷が積み上げられ悠司は無気力化している。
しかし僕は諦めない、柊警部補の忠告を再び無視する事になるが関係無い。諦めが悪いと周りから、特にあの男から言われるだろうが僕の諦め悪いのは周知の事、何としても犯人を捕まえたい。義務とか規律言う問題では無い、僕はその一心で行動していた。
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車で走ること十分程、探偵社の周辺に来たが辺りに人の姿はほとんど見受けられない。普段なら多くの歩行者が行き交う道も、今は人影も疎らで少々不気味だ。止まぬ連続殺人事件、恐れた人間は外出を極力避け引き篭っている、そんな所か。確かに今回の事件は異例だ、これ程に警戒するのは当然だろう。
探偵社へと着き車のドアを開けると、まだ三時だというのに辺りはすっかり薄暗くなっていた。まだ夏の終わりも来てないのに雨でも降るのだろうか、下らぬ疑問を抱きながら事務所に至る長い階段を上って行った。
事務所の玄関前に着くと妙な物に気付いた、誰の仕業か扉に神社や寺で使われる様な札が貼ってある。無論僕も悠司もそういったいかがわしい宗教に帰依した覚えも無ければ、そういった事に精通した特異な人物も知らない。
(…いや待て、一人だけいる、こんな馬鹿げた事をする人間が…)
僕はドアノブに手を掛けた、閉めた筈の鍵が開いていたがそんな事今では不思議とは思わない。
事務所に入ると中は電灯は点いておらず、外の薄暗が部屋の中まで侵食していた。その中で来客用ソファに一人静かに腰を掛けている人物の後ろ姿が確認出来た、よくは見えないが乱れた灰色の髪と白い衣が確認出来る。
「…どうした探偵先生? 随分と浮かない顔をしているが」
聞き覚えのある声、やはり比良坂鏡水その人であった。
「…吉川翔子が殺されました」
「知っている、今日の新報はその話題で持ち切りだ」
酷く冷静な口調な鏡水に僕は些か不気味さを覚える。
「それにしてもこれまでの勢いは何処へ行ったのやら、さながらあの曇海に飲み込まれた火輪の如く光明は覆い隠されたみたいだな」
「黙って下さい……鏡水さんこそ何故此処へ?」
「それは愚問としか言い様が無いぜ、強いて言うならば様子見だろうな」
「様子見?」
彼の言葉を反芻しながら、その理由を問い掛ける。
「これから先あんたがどういった行動を取るか興味がてら足を運んだ次第、理解は出来るだろ?」
「相変わらず俺の事は無視ですか…」
どうやら鏡水はこれ以上この一件に触れる気は無いらしい。当然と言えば当然、この男はそもそも事件解決になど興味無かったのだから。
淋しげな声を上げる悠司と傍観の報告を得意げに話す鏡水を無視して、僕はデスクへと駆け寄り手帳や携帯電話の準備をすると再び悠司を連れ調査へ乗り出そうとする。
しかし、その前にある男が僕を呼び止める。その男とは勿論の事、比良坂鏡水である。
「待て、一体何処へ行くつもりだ?」
「調査ですよ、まだ事件は終わっていませんので」
ぶっきらぼうに吐き捨てるとドアノブを握り事務所を後にしようとした。しかし、またもや鏡水が僕を呼び止める。
「前にも言った筈だが、あんたにはこれ以上関わる筋合いは無い筈だぜ? あの癇癪女からもついさっき釘を打たれたばかりじゃないのか?」
今までの出来事をまるで見ていたかの様な口ぶり、相変わらず不気味な男だ。
「そんな事、僕にも貴方にも関係ないでしょう? 僕達は先を急ぎます、出て行くならちゃんと玄関閉めて下さいね」
「……あ、俺車出す準備してきます」
悠司はそう言うと事務所を飛び出した、それは今のこの場の重い雰囲気から逃避する為の行動にも思えた。
二人だけになったこの空間で、今なお鏡水は問答を止めようとしない。
「しかしこれ以上事件に無駄な首突っ込めば、吉川翔子の二の舞になるぞ。仮にあんたが良くてもあのポンコツが犠牲になれば、あんたは悔やんでも悔やみ切れ無い結末を迎えるぜ? 此処は放っておくのが無難だろ」
「そ…それは……」
その問いに関しては僕には返す言葉が見当たらない、彼の意見は間違い無く正しい。しかしそれはあくまで正論、保身を第一と考える者の考えだ。そんな理論に左右されるなんて、全く持って下らない。
「…貴方の意見は全て正論です、何一つ間違っていません。しかしその理論には情も血も通っていません」
ふと胸の奥に噛み込んでいたわだかまりが外れた気がした。それは長年言おうにも言えなかった不満、逃避目的の為に使用されてきた正論を否定する不満であった。
「正論とはあくまでどう在るべきかを説くだけでどうするべきかは説かないもの、こんな所で突っ立っているくらいなら自分の身を犠牲として払ってでも先に進めます」
僕は少し間を空けてから話し出す。
「それが……僕の信念です…」
僕は言った、心の底に溜まっていたものを吐き出した。これが僕だ、何者にも干渉されない自我である。
しかし鏡水は僕の言葉を意に介さず、嘲りを含み僕へと反論した。
「クハハッ、それは何とも御大層なこったな! それじゃあなんだ、あんたは元上司の忠告を無視して、さらには自分勝手な調査で関係無い人間さえも危険に晒すつもりか? そりゃ巻き込まれた人間は堪ったもんじゃない、全く大した信念じゃないか」
皮肉と罵倒が混じった笑いが僕の心を蝕み続ける、それはまるで肌に刃を突き付けられる様にじわじわと傷を深いものにしていく。
僕は我慢の限界だった、この男はどれ程人の逆鱗に触れるのが好きなのだろうか。
「いい加減にして下さい!! 貴方はさっきから傍観者の立場でしか話してないじゃないですか! 貴方は何もしていない、なのに何故貴方はそうやって他人を見下し冷笑、嘲笑出来るんです? 貴方こそ身勝手じゃないんですか!?」
その言葉に反応してか、鏡水は立ち上がるとゆっくりとこちらに振り向いた。その眼は鋭く、彼を攻め立てる僕を睨み据えている。
「…どうした、それで終いか?」
表情とは裏腹に彼の口調はとても穏やかだった。それに気を許してか僕はさらに言葉を続けた。
「それに貴方は亡くなった吉川翔子に対してあまりにも惨い事をした。いくら殺人犯でも慈悲を見せてもいいじゃないですか、何故そこまで彼女を怨むんです!?」
「良心、とか言う奴か? 元来人間の良心は傷まぬ、それは飢えを満たそうとしているだけだ、実に下らないな」
「く、下らないてそんな…」
「それに、俺は別に吉川翔子を怨んじゃいない。それより、あんたはどう思ってるんだ? 俺はあんたの饒舌聞くよりそっち先を聞きたいんだがなぁ」
「ど、どう思うって……」
「言えないか? じゃあ俺が代弁してやろう」
鏡水は先程まで座っていたソファを離れ、僕に少しずつ歩み寄る。
「あの娘は自分を利用した、自分が助かりたいという理由であんな粗末な計画で自分はおろか大事な助手にまで危害が及んだ。さらにあの娘は自分を人殺し呼ばわりした挙げ句、泣いて許しをこうた。そんな事許されない、断じて」
「うるさい!!! 僕はそんな事思っていない、貴方だけです! 何故貴方はそんなに卑屈になるんですか、貴方には人らしい感情は無いんですか!?」
薄暗い部屋に僕の怒号が響く、それを聞き鏡水はより嘲りながら言い放つ。
「下らない妄言だ、そんな物始終持ち歩いても仕様が無い! 人間とは常に何か或いは誰かを恨み妬む者、万人の心の底には黒禍津がいつ何時でも人を喰らえるように潜んでいる。人らしい感情? それこそあんたが毛嫌いしていた正論じゃないか!?」
重箱の隅を突く様に追い立てられ、僕は反論し辛い状況に追い込まれた。この男の言葉は呪いだ、聞く度に自分の中から大事なものが失られて逝く様な錯覚に陥ってしまう。
「あんたもいい加減素直になれ、本当は思ってるんだろう。あの娘が死んでくれてよかった、死んで清々した、てな」
彼は僕の眼前でそう吐き捨てた、それは人として言ってはいけない言葉、少なくとも僕はそう思う。しかし鏡水は薄い笑みを浮かべる、それは僕に対してか、或いは亡くなった吉川翔子に対してか。 その時だった、鏡水の顔が何かに叩かれ同時に僕は右手に痛みを覚える。僕は鏡水の左頬を思い切り叩いていた、僕の体はもはや自分でも制御し切れず感情のままに動いてしまった。
「…あ……あ……」
彼の頬を叩いた右手に鈍痛が走る、この痛みが相手の痛みでもある事を知らせてくれる。本来なら謝罪の言葉を述べるべきだが、そんな気は毛頭無い。
「…あ…貴方は…酷過ぎます……例え貴方がどれ程正確無比な理論の持ち主であったとしても…貴方のその考え方だけは……否定せざるを得ません…」
それが彼に対する僕の思いである。彼と出会ってまだ日は浅い、しかし彼の中身は漆黒だ、恐らく僕ごときが見通せない深い闇が在るのだろう。
彼は少しばかり驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻し叩かれた左頬を摩りながら僕を見据える。
「…成る程な、あんたも十分立派な正論者だよ。どうやら阿呆を飛び越した救いようも無い馬鹿だよ、あんたは…」
その言葉と共に、彼は口を緩ませ眼に睨みを効かせながらさらに僕の方へと歩み寄って来る。その眼光に圧倒され僕は後ろへ後退りしてしまう。
「どうした、何を怯えている? 連続猟奇殺人犯を捕まえようとすると抜かしていた癖に、この程度で怖じ気付くとは至極みすぼらしい、拍子抜けだ。先のは単なる嘯きか?」
遂には玄関の扉まで追い込まれてしまった、まさに比喩でよくある蛇に睨まれた蛙の様に体が強張り動けない。
「難しい表現で飾り立ててくれるな。率直に聞こう……あんたは俺をどう思う?」
「あ、貴方は……」
自分の口が勝手に語り掛ける、自分でもよく分からないが何かに操られる様に言葉を選び発せられる。
「…鬼…人で無し……」
掠れた声でそう答えた、しかし鏡水は目の色一つ変えなかった。
「人で無し、か……フフッ、全く胸糞わりぃ響きだよ!!」
次の瞬間、鏡水は僕の胸倉を掴み自分の方へと力付くで引き寄せた。彼の顔が僕の顔の間近に寄せ付けられ、その鋭い眼から放たれる視線が痛く顔を背けようとするがその眼は許してくれそうにない。
この自分ではどうする事も出来無い状況下で成す術無く硬直していると、何の前触れも無く後ろの扉が開いた。
「先生! 支度にどれだけ時間掛け……」
ばつの悪いことにこの状況で悠司が戻って来てしまった。また話がややこしい方に向かうのではという心配が頭を過ぎった、今は自分の状態を心配するのが先決なのだが。
「ち、ちょっと鏡水さん!! 先生に何やって」
「黙れ月波悠司、お前はそこで突っ立ってろ」
「え?」
悠司だけでなく僕も驚いた、これまで悠司のことをポンコツ呼ばわりしていた筈が今先程本名で呼んだのだ。その驚きと凄みのある表情に負けたのか、鏡水の命令した通り悠司はそれ以上何も言わなくなった。
「…さてと、それじゃああんたに二三聞いておきたい事があるんだが…」
「え?」
鏡水は懐に右手を入れ何かを探り出した。すると突然僕の口に何かが差し込まれる、それは細長く舌を触れさせると冷たい鉄の味がした。見るとそれは彼が煙草に火を点ける用途で使っていた着火マンである、それを口に差し入れたのだ。
「無駄口叩けぬようにしたまでだ、別にあんたに危害を加える気は毛頭無い」
「な…何を…」
辛うじて声が出せるが、状況は好転せず相変わらず身動きが取れない事に変わりはない。
「仮にこれが拳銃なら引き金を引いた途端あんたの脳天が吹き飛ぶ事になるだろうが、こいつなら引き金を引いても口ん中軽く火傷する程度だ、何の心配も無いだろう?」
この状況でよくまぁぬけぬけと心配無いと言えるものだ、しかしどれだけ侮蔑を感じようと状況が好転する訳でもない。僕はこの異常事態に少しでも冷静になり鏡水の言葉に耳を傾ける。
「それじゃあ哀れな探偵先生への質問だが…」
その言葉を聞き、僕の脳内に緊張が走る。その時外で稲妻が瞬き時間を挟み雷鳴が鳴り響く、今の鏡水はその雷の畏怖さえも纏っているかの様である。
「…あんたは人を救えると本気で思っているのか?」
それはあまりにも酷い質問、触れられたくない傷口をえぐる様な残酷さだ。吉川翔子を野放しにしたせいで彼女に惨死という無惨な結末を迎えさせた一端は僕にある、そんな僕にその質問に答える筋合い等存在しない。何も言えず口内で声がくぐもる、すると呆れた様子の鏡水が再び問い掛ける。
「…答えられんか、なら質問を変えよう。あんたは他人の為に自らの命をなげうってまで他人を救う気はあるのか、答えろ」
こちらは先程の質問とは違い僕に有利な質問、答えるのは容易な筈である。しかしいざ答えようにも上手く言葉を発せられない、口に着火マンをくわえ込まされているせいもあるが大きな理由は別にある。
先の言動中に自分の身を呈してでも犯人を捕まえる、そう豪語していた。しかしそれは自分でも感情を制御し切れ無い状態での激昂した際に発した言葉、再び冷静さを取り戻した時この言葉がどれ程の重みを持っているのか思い知らされる。冗談抜きの真剣な質問、巷に溢れ返る中身の無い言葉とは訳が違う。
「ぼ、僕は……」
震えた声で話し出そうとするが、ふとある思考が頭を掠め口が止まる。それは逃避の念、この事件そのものからの退却である。これ以上調査を続けても犯人まで辿り着ける保証は無い、それに犯人にとって目障りな行動をとれば自分も惨死の一途を辿る事に成り兼ねない。写真に写るあの凄惨な死体の数々を思い出す、もしかしたら自分もあのような肉塊に成り果てるのか、そう思うだけで悪寒が走る。
(そうだ、これ以上関わる理由も無い。今此処で諦めれば何も無くなりはしない…)
僕の頭の中に芽生えた思考は徐々に身体全てを侵食する支度を始める。僕は目を伏せ停止した。
「…返事が無いなら答えはいいえ、か。所詮あんたも張り子の虎、そこら辺にのさばる連中と何等変わら」
鏡水の言葉はそこで止まった。鏡水が言い終える前に僕が彼の右腕、着火マンを持つ方に握り掛かったからだ。
「あぁ!? 何の真似だ?」
鏡水はより一層睨みを効かせ威嚇する、しかし僕は動じない。鏡水は掴む腕を振り払おうとするが、力を掛け少しずつ口に差し込まれた忌まわしい鉄の棒を取り出す。
「…僕は……」
今しかない、今言わなければ僕は恐らく一生後悔することになる。今まさにこの状況こそ僕の核、僕の本質の真偽が試されているのだから。
「…僕は……例え自分の身が犠牲になろうとも…それでも僕は自分の歩むべき道は自分の意志で決めます…」
今の僕に恐怖や後悔の念は一片たりとも入らせない。
「……それが…僕の信念です」
この言葉を何度口にしたのだろうか、しかし今回は重みが違うのだ、この言葉は自らの人生を映す鏡なのだから。
僕は忘れかけていた、心の奥深くに沈みかけていた自分の思い、先程は奇しくも鏡水の術中に嵌まってしまい諦めに手を伸ばそうとしていた。だが今は違う、自分に正直になれたのだ、後悔は一切無い。
「…それが答えか?」
「…はい」
鏡水の言葉は呆れている様に聞こえた、呆れてもらって構わない、この男の思惑通りにはさせない。
すると鏡水は胸倉を掴む手の力を緩め、僕はようやく体が軽くなった。それと同時に緊迫した亜空間からも脱出でき、安堵感からか力無くその場に倒れる様にしてへたり込んだ。
「…ゴホッ、ヴホッ…」
頭からは自分がどれ程緊張していたかを示す汗が流れ、それに伴い嗚咽混じりに咳込む。しかし胃腸には何も満たされる物は入っておらず、空の嗚咽は余計に苦しいだけであった。
「せ、先生!! 大丈夫ですか、しっかりして下さい!」
僕の戒めが解除されたからか、ようやく悠司も言葉を掛け動くことが出来たようだ。僕の背中を労る様に摩り、蒼白になっただろう僕の顔を覗き込み必死に問い掛ける。
「…だ…大丈夫だ……僕は……」
「よかった、ずっと心配してたんですよ」
僕の返答に悠司は子供の様に嬉しそうな顔をした、後ろから動けず見ていた彼に随分と心配を掛けてしまったみたいだ。
束の間の安息、その余韻に浸っていると鏡水が憔悴し切った僕を眉間に皺を寄せ見下ろしているのに気付いた。まるで興味の欠片も無いかの様に煙草を取り出すと、僕の口を封じていた忌まわしい着火マンで火を点け一服し始める。
「全く、あんたも大した男だなぁ。俺の暴言も甘言も妄言も虚言も全て通用しないとは、あんたやっぱり生粋の大馬鹿だよ」
絶え間無く押し寄せる鏡水の言葉責め、何度となく聞いたそれにもはや嫌気すら注さなくなっていた。
「…立てよ先生」
「え?」
またしても鏡水からの命令、訳も分からぬまま体力と気力共に使い果たした重い体を持ち上げ何とか立ってみせる。
鏡水の前に立ったその時であった、不意に自分の左頬に衝撃が走り横へ飛ばされる。今度は鏡水が僕を殴った、自分がやった平手打ちではなく拳骨を頬に思い切り食らわせたのだ。
「いっ……」
かろうじて体勢を立て直し吹き飛ばした元凶を見る、拳を握り口許を綻ばせながらこちらを見ている。
「先の御返しだ、あんたの我儘に付き合ってやろう」
「何を言って…え?」
僕は耳を疑った、もう二度と聞く事は無いと思っていた言葉を耳にしたからだ。
「勘違いしてくれるな、別にあんたに共感した訳じゃない。ただ単に此処まで不憫な探偵先生の最期の願いを聴き入れようという慈悲深き僥倖を見せたまでだ」
慈悲深いとはよく言えたものだ、先程まで慈悲の片鱗すら見せない発言を振り撒いていたのに。
しかし協力してくれるのはありがたい、自分勝手だがこの男の協力は嬉しい限りだ。僕は一度手の甲で口許を拭った。
「そ、そうと決まれば早速調査に向かいましょう。とりあえず吉川翔子の遺体の発見現場周辺で聞き込みでも」
「は? 何寝ぼけた事抜かしてやがる」
「え? 何と言われても……まだ犯人に繋がる手掛かりすら無い状態なので、少しでも情報は得ておかなければなりませんし…」
「情報収集なら俺得意ですしね」
僕の言っている事は間違ってはいない筈だが、何故か鏡水は溜息を付いた。
「全くよぉ、そんな事しなくても犯人の見当は付いている」
「しかし、だからといって………え!?」
またしても僕は耳を疑った、今この男が言った言葉に驚いた。
「ち、ちょっと待って下さい!! そんな、犯人が分かっていたんですか!?」
「まぁおおよそ分かっただけだ、これといって確たる証拠が有る訳でも無いからな」
「問題はそこじゃありません!! 何故もっと早く言ってくれなかったんです!?」
僕は落ち着いて居られなかった、仮に分かっていたのなら吉川翔子は死を免れたかもしれないのだから。
「十割犯人でない以上余計な発言で捜査を混乱させたくない。それに犯人の目星が付いたのはつい先日の事だ、俺を責めてもらっちゃ困るんだがなぁ」
その話が本当ならば仕方が無い、それにこんな所で内輪揉めしていても時間の無駄である。
「犯人が誰か知っているなら尚更急ぎましょう、また誰が狙われるか分からないんですから」
「その件については心配要らない、犯人はこれ以上殺人を犯すつもりは無いだろうからな」
「……どうしてそんな事分かるんですか?」
訝しい表情で僕が尋ねると、鏡水は得意げに話し出す。
「簡単な事だ。あの病院で噂されてた呪い、犯人はそれを利用した。あそこに貼られていた葉書の内容から狙う人間をあぶり出し殺害した。そうすれば警察にとって被害者の共通点が見当たらない無差別殺人と見ざるを得ない、犯人からすれば絶好の隠れ蓑となった訳だ。しかし警察に連続殺人と病院の呪いの因果関係を知られさらには捜査の手まで及んでしまった、犯人からすればこれ以上犯行に及ぶのは自分の身が危ぶまれる、故に犯人はこれ以上殺人は犯さないという結論に至る」
「でも……ならば何故犯人は吉川翔子を危険を犯してまで殺したんです?」
「それこそあんたが前に推理した事じゃないか。犯人にとって吉川翔子は呪いの存在を公にし、さらには三島楓の死を自分の犯行に見せ掛けた目障りな存在だ、彼女の殺害を最期に犯人は連続殺人の幕引きをするつもりなんだろうな」
それが鏡水の推理、僕とは違うまた別の視点から彼は事件を見据えていたのだろう。
「なら……一体誰が犯人なんですか?」
いつもとは違う低い声の調子で事件の核心に至る質問を投げ掛ける。この事件の真犯人、僕はそれを知る為に未だ締結の帰路を辿らずにいるのだ。
「まぁそう急かすな、事の真相はじきに話す」
「…今直ぐじゃいけないんですか?」
「前にも俺に同じ手を使っただろう? それに物事には順序が有るんだ、今はその時ではない」
「だったら…いつがその時だっていうんですか?」
その問いに鏡水は返さず、今まで僕を食い入る様に睨んでいた眼を後ろに向けた。そしてそのまま窓辺へと歩み、窓から外の様子を伺い始める。
「下なる街道に人影は見えず……彼の曇海は未だ晴天を望まず……篠突く雨共は決して何者も濡らさず、ただ地を這い路を舐めやがて濁りへ姿を消す……これ程に寂漠なものはそうは無いよな」
「質問に答えて下さい!!」
意味の分からない言葉を並べ立てる鏡水に、つい声を荒げてしまう。
「……今夜だ」
「え?」
「今日の晩だ、今日で全てを終わらせる」
「ば、場所は?」
「決まっているだろう? 呪恨の源初となった場所……あの呪われた廃病院しか他有るまい」
再び振り返ると鏡水は続けて話し出す。
「今夜二時、正確に言えば明日の早朝二時に例の廃病院に来い。そこで全てを話す……分かったか」
「は、はい」
僕の返事を聞き満足そうな顔を浮かべる鏡水、それ以上は語らず煙草をくわえながら玄関へと向かった。
いよいよ明かされるのだろうか、この数日間悩みに悩まされ続けた事件の真相を。僕には犯人が誰かすら見当が付かない、しかし誰であろうとも犯した罪への報いを受けなければならない、僕の心に正義という名の炎が燃え始める。
自分の世界に浸かっていると、鏡水は僕を横切る直前に何かを呟いた。
「…所詮俺達は呪詛に憑かれた同胞なのだよ…」
(え?)
酷く小さくまるで蚊の鳴く様な声であったが、僕にははっきりと聞こえた。その言葉の意味を理解出来ず反射的に振り向き鏡水を目で追ったが、鏡水は静かに事務所を去ってしまった。
鏡水が去った後、暫く僕は立ち尽くした。今この場所が酷く曖昧に感じられる、生きた心地がしないとはこういう事なのだろうか。僕は悠司の方へ眼を向ける、彼には確認しておかなければならない事が有る。
「悠司君……悪い事は言わない、君は此処に残ってくれ」
「いやだなぁ先生、俺は先生に付いて行くと約束したんですよ、男に二言はありません」
彼はいつもの調子の良い口調であったが、その眼は覚悟を決めたものであった。僕も悠司も思いは同じ、事件の真相を見届ける、その思い一つである。
降り始めた雨はやがて土砂降りとなり、外から見える景色をがらりと変えていた。その雨はこの悼みを一身に受けたのか否か区別が着かない、そんな事を考えた。ただ降りしきる雨を眺める僕の心はあの空の晴天を煙たく思っていた時とは違い少しばかり晴れた、という事だけは確実に言い切れるものであった。
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深夜零時、約束の時間より二時間ばかり早く支度を始める。心臓がいつもより大きく強く脈動しているのが、身体を通じてはっきりと読み取れる。逸る気持ちを抑える為に一つ深呼吸をする。
「…行こうか、悠司君」
「了解です」
低く落ち着いた声、今の悠司は真剣そのものである。悠司は車にエンジンを掛ける為に先に下りて行き、僕は一人になったこの事務所をぐるりと見渡した。
何度も目にして来た事務所、電気を消すと瞬く間に漆黒が部屋を染め上げる。ふとあの廃病院を思い出す、再びあの地獄の底の様な場所に足を踏み入れるのだろうか。その時の恐怖が蘇るが、頭を掻いて無理矢理忘れようとする。
此処で時間を喰っていても仕方が無い、再びこの場所に戻れるよう、再び退屈だが穏当な日常に戻れる事を祈って僕は事務所を後にした。
事務所下の駐車場に下りてみると、当然ながら辺りに人影は一切見当たらない。人影も明かりも今はこの場所しか無い、淋しげな感傷はこの場所を辺りから逸脱させる。
「先生! そんな所で突っ立ってないで早く乗って下さい」
車の中で僕が来るのを待ち続ける悠司に乗車を促され、ようやく車へと乗り込む。
「安全運転を心掛けてくれ。夜間走行にこの雨だ、病院に着くまでに事故なんて考えたくないからね」
「そしたら本当に病院行く羽目になりますね。しかし先生には悪いですが、時間も押しているんで多少の交通違反は大目に見て下さい」
ギアを変えハンドルを握ると、悠司はアクセルを強く踏み込み車が勢い良く動き出す。そのまま道路に進入するとさらに加速し一寸先も見通せない道を雨に打たれながら駆け抜ける。
「ゆ、悠司君、もっとスピードを抑えてくれないか!?」
「我慢して下さい、こういう状況でもない限り法定速度超えた運転出来ないんですから」
法律破ってまでする事でもない筈だが、車を運転している当の本人は意気揚々としている様子である。
車は走り続ける、ヘッドライトが照らす先を辺りの闇を共に切り裂きながらその先に待ち構える地獄へと着実に近付いている。街灯も疎らな道を僕達の乗る車だけが静かに漆黒に消えて行った。
車窓から見える様相も変わっている筈であるが、雨の為か見通しが悪く眺めに思いを馳せる事など不可能な状態だ。数日前に一度訪れた筈であるが、その雰囲気は鄙びた昼間のものとは違いまた別の世界を作り上げていた。
民家の間の僅かな道を通り抜けていると、あの不気味な雑木林が姿を現す。完全に雨夜と同化しているそれは、遠目からはそこに巨大な黒い壁が立ち塞がっている様にも見える。
近付くに連れて不思議なものが視界に入った。黒一色の前方に明かりが見えた、それははっきりとしたものでなく朧げで揺らめきを帯びていた。
「先生、あれってまさか……」
「多分、そうだろうね」
僕は悠司が何を言いたいかすぐに理解した。こんな時間、こんな場所に人がいる訳が無い、ある一人を除いては。
やがて車がそれの手前まで来ると、ヘッドライトがその姿を暴いた。白い衣に黒い袴、右手には番傘を差し左手には時代を感じさせる西洋風のオイルランプを提げている。僕は車から降りると、車内に常備してある傘を差し彼に駆け寄った。
「七分と三十五秒の遅刻だな、もうちっと早く到着するよう努めたらどうだ?」
やはりこの男に他ならなかった、期待を裏切らぬ存在とも言えよう。
「わざわざ計っていたんですか? 相変わらず性格悪いですね」
「遅れて来た分際で言えた立場か? それにこんな寒空の下で相手を待たせる方がよっぽど人徳に欠けると思うがな」
ああ言えばこう言うとはまさにこの事、これ以上言い合っていても埒が明かないのは明白である。
「先生! 傘一本しか無いんですから勝手に持って行かれちゃ困りますよ」
振り向くとさらに遅れて悠司も駆け付けた。体を雨で濡らしながら来た様子だが、鏡水はそんな彼に見向きすらしなかった。
「さてと、これで役者は全員揃った。早速あの建物に侵入しに向かおうじゃないか」
そう言うと鏡水は踵を返し、深い林の中へと進んで行く。傘を悠司に持たせ、僕達も促されるかの様に彼の後を追った。
警察の捜査能率を上げる為か、足を取られ進むのさえ一苦労だった筈の獣道は即製ながら補装されていた。この場所で体力を大幅に削られていた前回とは違い、足取りは順調である。ふと先導していた鏡水が話し始める。
「…望月さん、前に話した事で忘れてると思うが…」
「…何ですか唐突に」
鏡水は背中越しに話し掛け、僕もそれに答える。
「…黄泉比良坂で伊邪那美は伊邪那岐を捕らえ切れず、代わりに何をしたと思う?」
「それは…」
その話は前に見た事がある、つい先日読んだ古事記の中に記されていた話だ。
「…確か、怒りのあまり伊邪那美は伊邪那岐に呪いを掛けた筈です。貴方の国の人間達を一日千人黄泉へと誘いましょう、とか言って…」
「なんだ知ってたのか、かまととぶるのは辞めた方がいいぞ」
歩きながら尚も鏡水の話は続く。
「伊邪那美も磐長姫も結局は呪いを掛けてしまった。結果この国の人間は老い失墜しやがて朽ち果てる運命を余儀なくされた訳だ、とんでもない話だと思わないか?」
「……僕には分かりません、でもそれがどうしたんですか?」
「恐らく多くの連中が呪いと丑之刻参りを等符号で結んでいるんだろうが、実際は大きく違う。呪いは「まじない」とも呼ばれそういった呪術全般の総称だった、今とは解釈が全く違い一般的に公用されていた。世界では今でも政治、経済を呪術を用いて統括している所だって在る」
「…何が言いたいんですか?」
「別に深い意味が有る訳じゃない、ただ人間とは神々の呪詛が詰まった入れ物に過ぎない、そう思うと信仰は阿呆らしく真面目に生きるのが馬鹿らしく思えるものだ」
人間は呪詛が詰まった入れ物、それは理解に苦しむと共に何故か真実味を帯びている様に感じられる。
「…貴方は……貴方は一体何者なんですか?」
この男の不気味さを怖れ、ついそんな質問を投げ掛けてしまう。
「俺はあんたが思っている以上でも以下でも無い、在りのままの人間だ」
鏡水は堂々と言い放った。この男には裏も表も無い、ただ此処にいるこの男こそ比良坂鏡水なのだ。
「…見てみろ、馬鹿みたいに話している間にもう着いちまったぞ」
気が付くと僕達はいつの間にか林を抜けていた、どうやら前に来た時よりも早く楽に着いてしまっていたらしい。
真正面には悍ましい程の呪念を溜め込んだ魔窟、地獄へと通ずる巨城が堂々とした立ち振る舞いを見せ付けていた。鏡水の持つランプではその全貌を照らすには及ばないが、うっすらと病院の形が確認出来る。
「…さて、それじゃあ最後に言っておくが、これから先は何が起こるか俺にも分からん。それでも地獄の淵を渡り歩く覚悟が有るか?」
それこそ愚問と言えよう、この場所に立っているという事は答えているに等しいからだ。
「無論です、何が起ころうと貫いた道を引き返す訳にはいきません」
「俺も同感です、地獄だろうと何だろうと先生にとことん付き合いますよ」
悠司の言葉に僕はささやかながら勇気を貰った、やはり僕にとっても彼は不可欠な存在なのだろう。
質問をし終えた鏡水は何処と無く満足そうに見える。
「…成る程、混迷なぞ物ともしないか。この地獄を渡り歩く俺達はさながらダンテとオルフェウスと伊邪那岐の様だな、本来なら決して揃わぬ顔触れだぜ」
再び振り返る鏡水を追う様にして僕達はこの建物へと足を踏み入れる。
雨足が強まり、傘を打つ音は次第に激しさを増していく。僕達に喰らい掛かろうと広げるその口の先は、何人も見通す事を許さない暗海が佇んでいた。再びこの場所に足を踏み入れる、想像さえしなかった事象に些か戸惑いつつ鏡水の持つ唯一の光明を頼りに進んで行く。
雷光から覗く外を見渡す窓は先へと急ぐ程に小さく縮み、漆黒へ消え逝くと共に静かに消えてしまった。
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