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衷3

 探偵事務所の唯一の仕事机、自分専用のデスクの前でひたすら依頼主の到着を待ち続ける。今僕の心には余裕を差し入る隙間など微塵も無かった。いつまで経っても胸底に淀む癌の様な暗鬱な感情は晴れる事は無く、それに相反して背面から照り付ける傾き始めた日が自分の背に熱を与える。

 すでに鏡水は事務所に帰っており、来客用のソファの上で踏ん反り返っている。先程から僕の方をあからさまに不満そうな顔をして睨んでいる。無理も無い、此処に来て僕の話を聞けると踏んでいたのに、僕は吉川翔子が来てからと一蹴してしまったのだから。


「…鏡水さん、そんな怖い顔で睨まないで下さい……て言っても、どうせ聞かないでしょうけど」



「よく御存知で。だったら何故話さない? 俺にも知る権利位は有る筈だが」


「もう少し待って下さい。彼女が来たら全て話しますから」


そう諭したが、相変わらず鏡水は不満そうな顔を一つも崩さずソファに寝転がった。

 確かに鏡水が苛立つのも仕方ない、この事務所で合流してから一時間以上こうしているのだから。時計を見ても分かるのは今の時刻と経過した時間だけ、吉川翔子が来る様子は無い。ほとほと呆れ切っている鏡水を余所に僕は待ち続けた。

 時刻が三時を廻ったその時であった。


「し…失礼します…」


玄関の鈴の音と共に聞こえたか細い声の持ち主は、戸惑いながら姿を現した。


「吉川翔子さん、お待ちしていました。どうぞに御座り下さい」


僕はそう促すと彼女は来客用ソファへと座り、同時に僕も向かいのソファに座る。行き場を無くした鏡水は嫌々な表情を浮かべながら、近くの壁にもたれ掛かった。


「あの……こちらの方は……」


白装束に黒袴の鏡水を物珍しそうな眼で見ながら、僕に問い掛けてきた。確かにこの男の風貌を見れば、誰でも最初にそう言いたくなるだろう。


「比良坂鏡水と申します、以後御見知りおきを」


僕への質問に鏡水は自己紹介を兼ねて応えた。


「この方とは……どの様な関係で?」


「それは……話せば長くなりますので……」


話がややこしく傾く恐れがあるので、何と無くごまかした。


「それで、私に話したい事とは? まさか……例の殺人事件の事ですか?」


「はい、今日はその件について御呼び立てした次第でして…」


彼女は幾分嫌そうな顔をしたが、構わず僕は話を続けた。


「親友の不運な死で心を痛めている事は承知しています。しかし、どうしてもあなたには言っておかなければならない事が有ります」


その言葉に反応し、彼女は表情を堅くした。また先程までつまらなさそうにしていた鏡水も険しい表情で僕を見ている。


「…翔子さん、すみませんが……」


僕はそこで一つ間を置いた。この事を言うのに些か後ろ髪を引かれたが、覚悟を決めいざ話し始める。



「……警察に…出頭して下さい」



しばらく静寂が流れたが、それを破ったのは翔子の動揺の声色であった。


「え……そ、それは…」


「おい望月!! 一体どういう事だ、そりゃ!?」


僕の言葉に翔子は戸惑い、鏡水は驚きで柄に無く取り乱している。


「私は貴方が三島楓さんを殺害した犯人ではないか、と思っているんですよ」


「何故だ望月、詳しく聞かせろ!!」


もはや呼び捨てになっているが、彼に構わず僕は翔子に語り続ける。


「翔子さん、私は警官ではないので貴方を逮捕する訳にはいきません。なので私は貴方に自首してほしいのです」


「……そ、そんな…私はやってません……」


「貴方が今すぐにでも警察に行けば、多少ではありますが罪が軽くなる可能性があります」


「…い、いい加減にして下さい!! わ、私はやってないって言ってるじゃないですか!!」


形振り構わず語る僕に、これまで大人しかった彼女も流石に我慢出来なかった様である。


「憶測でものを言わないで下さい! どうして私が何人もの人達を殺さなければならないんです!?」


「俺も全く同じ意見だ。何故この娘が連続殺人を犯さなければならないんだ? 動機が無いしそんな事不可能だ、無理に決まってる」


二人から猛烈な抗議を受けたが、僕は酷く冷静であった。


「私は別に彼女が全ての殺人事件の犯人だとは言ってません。彼女はこの連続殺人事件の一端にしか関与していない筈です」


「はぁ!? なんだそりゃ?」


鏡水は納得していない様子だが、僕は翔子に向き直った。


「翔子さん、貴方には私の言っている意味が分かる筈ですが……」


「ち、違います……私は関係ありません!!」


僕の言葉に翔子は必死に否定し続けた。声を荒げるその顔は、これまでに見た彼女からは想像も出来無い程に恐ろしいものであった。

 その否定さえも空しく感じてしまった僕は、次の言葉を発した。


「仕方ありません、なら私の考えを述べることにしましょう」


僕は立ち上がりソファから離れると、自分のデスクの方に向かった。そして窓辺に立つと、空模様を伺った。別に格好付けた訳ではない、ただ彼女と面と向かって話す事が忍びなく思ったからであった。


「私が最初に貴方を怪しく思ったのは、貴方が初めてこの事務所に訪れた時です」


「…え?」


翔子は疑問混じりな声を出した。


「まず貴方の挙動がおかしかった、ただ普通の人探しにしてはあまりにも不自然過ぎました。まるで、何かに怯えている様に…」


「そ、それは…」


「確かにこれだけではあまりにも粗末な考えです。しかし依頼中の貴方の言動の中に不可解な言葉が有りました、「私が止めていれば二人共死なずに済んだ」という台詞です」


「そ、それがどうしたんですか?」


「分かりませんか? その時後藤行雄の死亡は確定していました。しかし、三島楓の死亡は報道人は疎か警察さえ知らなかった事です。なのに何故貴方はその事実を知っていたのか…」


「ふ、ふざけないで下さい!! そんなのただの言い間違いです、そんな事で私を犯人にしようとするんですか!?」


僕の推理に彼女は激昂したが、僕の心は尚も揺るがなかった。


「此処までは私が貴方に疑念を抱く要因の話です。いくら何でもこれだけでは、貴方を犯人に断定するには遠く及びません」


「だ、だったら…」


「しかし、此処から話す事が私が貴方を犯人だと特定した要因です」


その言葉を聞き、先程まで怒鳴っていた翔子は黙り始めた。

 背を向けていた僕は振り返る、見ると吉川翔子だけでなく壁にもたれていた鏡水も僕を食い入る様な眼で見ていた。


「…私は亡くなった三島楓さんの御自宅へ向かいました。少しでも事件を解く鍵を見つける事が出来ればと思いまして……」


「それで、一体何を見つけたっていうんだ?」


急かす様に鏡水はそう言葉を吐き捨てた。彼はその事をずっと知りたがっていた。僕はデスクの引き出しを開けると、三島楓の部屋で見つけた物を全て手に取り今か今かと待ち侘びている鏡水の元へ歩み寄る。


「これが彼女の部屋から見つかった物です」


そう言って僕は来客用机の上に束になった写真を置いた。


「これは……」


鏡水はもたれていた壁から離れ、興味津々な様子で顔を近付けた。


「…ただの恋人同士の写真じゃないか」


不満そうな声を上げながら、鏡水は写真の束を崩し机の上に広げた。写っているのは亡くなった三島楓と、同じく亡くなった後藤行雄であった。


「普段見つからない場所に隠してあったので、恐らく母親の三島君枝には黙って交際していたのでしょう」


「……おい望月さん、まさかこんな物を見せびらかす為にわざわざ俺を呼び出した訳じゃないだろうな」


鏡水は心底呆れた様に話しながら、鋭い目付きで僕を睨んできた。


「まぁ人に見せたくない物ぐらい誰にでもあります。しかし、こちらの写真は恐らく持っていた彼女が最も見たくなかった写真だったのかもしれません」


僕は机の上には置かずにいた一枚の写真を掲げた。翔子と鏡水、二人共こちらを見たが窓からの逆光でまともに見えないであろう。


「これが貴方が私達、そして亡くなった三島楓に隠していた秘密です」


僕はそう言うと、手に持っていた写真を机の上に放った。それは、隠され続けていたその事実が晒された瞬間であった。


「こりゃ……おい望月さん、こいつはまさか!?」


「見てもらって分かる通りです。翔子さん、もはや隠し立ては意味を成しません。素直におっしゃってはくれませんか」


しかし翔子は俯いたまま、一言も発しようとはしなかった。顔は下を向いて見えなかったが、恐らく酷く焦っているのだろうと僕は感じた。


「……あ、貴方がもうすでに……気付いている通り……」


翔子は紡いでいた口を開き、弱々しく話し始める。


「…私と……後藤行雄は……付き合っていました…」



彼女は苦々しい表情を崩さぬまま、そう言葉を繋いだ。これこそ彼女が隠していた事実であった。

 三島楓の自宅から見つかった写真、一枚だけ他の物とは違うそれに写っていたのは、亡くなった後藤行雄と今まさに眼前にいる吉川翔子の仲睦まじく振る舞う写真であった。この二人は付き合っていたのだ、それは本人達以外は決して知らない秘密の関係であった。


「こんな写真が在るって事は、動機は差し詰め男の二股に因る男女関係の縺れ、って具合か?」


「いえ、恐らくもっと複雑な理由が有るのでしょう」


「何!?」


僕は再び翔子に向き直り尋ねてみた。


「貴方は何故、私達にこの事を教えてくれなかったのですか?」


「あ、貴方達には関係の無い事です。それに、彼と付き合っていたからといって、私には殺人なんてする理由が有りません!」


力強く否定を続ける翔子だが、先程までには見られなかった焦りが顔から滲み出ている様に見える。


「…此処から先は、あくまで私の推理による仮定の話です。何処か違った箇所が有れば、話の随所で申し上げて下さい」


今の僕には彼女の言葉に耳を貸す余裕は一切無い、ただ自分の推理の合否を確認したい一心だった。


「まずあの一枚の写真、あれが撮られたのは日付を見る限り二年前、その他の写真はつい最近撮られた物でした。恐らく三島楓は新しい恋人で貴方はその前の恋人だった。三島楓が貴方から彼を奪ったか、或いは後藤行雄が貴方を捨てたか、どちらにせよ彼は貴方から離れてしまった筈です」


自分でも酷い事を言ったとは思ってはいるが、構わず僕は続けた。


「そこで貴方は考えた、自分を裏切った二人に復讐する方法を、それも自分の手をあまり汚さないもの、それがあの病院に纏わる呪いだったという訳です」


先程までとは違い、翔子は静かに俯きながら僕の話を聞いている。


「貴方は二人の間を裂く事が出来ればそれでよかった、その為に貴方は二人共に恋人が自分を裏切っている等の嘘を吹き込み互いに恨み合わせ、人を殺せる呪いという決定打を引き出させる事で二人を自然に別れさせようとしたのでしょう」


「それはまた、随分と手の込んだ作戦だなぁ」


横で聞いていた鏡水は感心に似た声を上げた。


「しかし、それは予定調和でしかなかった。彼女の練った計画に大きなひびが入る出来事が行ってしまったんです」


「何だ、そのひびってのは?」


「三島楓は気付いたんですよ、自分の親友が自分達の恋仲を無理矢理、それもかなり陰湿な手段を用いて裂こうとしている事にね。そのきっかけになったのがあの写真、恐らく恋人の後藤行雄の家で見つけたのでしょう」


流石に翔子も反論すると思ったが、相変わらず下を向いたままであった。


「三島楓を霊安室に呼び彼女が後藤行雄を呪う様をその眼に焼き付けたかった貴方でしたが、その前に三島楓は貴方に騙されていた事を知りそれが元で口論となり、そのさなか逆上した貴方は彼女を殺してしまった」


話すと同時に、僕は彼女の心を垣間見た気がした。彼女の深層に淀むもの、それは絶対に消す事も戻す事も出来無い殺人の事実と後悔と絶望の傷痕なのだろう。


「そして貴方は自分の犯してしまった罪、親友の殺人を再認識し怖くなってその場を逃げ出した」


「つまり、この娘が犯したのは三島楓殺しの一件だけって訳か………あぁ!?」


話を聞いていた鏡水が突然おかしな声を上げた。


「ちょっと待て、だったら何故この娘はあんたの所に来たんだ? それじゃまるで自分から捕まりに来た様なものじゃないか?」


「えぇ、まさにその通りですよ…」


「何だと?」


鏡水の疑問と不満の混ざり合った顔が、より僕の語りに勢いを持たせる。


「彼女は三島楓を殺した後、すぐ警察に出頭しようとした。しかし彼女にとって不足の事態はこれだけではなかったのです」


「他に何があったって………まさか、後藤行雄の?」


「えぇ、彼女が出頭する前に後藤行雄は殺された。そうなると、もし捕まった場合自分が例え三島楓殺しの犯行だけを認めたとしても元恋人である事を理由に後藤行雄殺しの疑いを掛けられる、最悪の場合一連の猟奇殺人の犯人になる、それを恐れていたのでしょう」


「成る程なぁ、確かにあの癇癪持ちの女刑事ならやり兼ねない」


鏡水は皮肉を笑い混じりに吐き捨てた。しかし、普通に考えればそんな事は絶対に有り得ない、彼女はそこまで恐怖の念に追い込まれていたのだろう。


「仮に出頭しなければ連続殺人犯に一つ罪を被せる事になる、そうなれば犯人の怒りを買い自分の身が危なくなる。二つの選択肢はどれも希薄なもの、そんな板挟みな彼女がとった行動こそこの探偵社への依頼だった訳です」


「そこだ、俺が聞いているのは何故この娘がこんな探偵事務所に人探しの依頼を頼むのか、についての理由だ。わざわざ警察に行かずこんな所に来た目的は何だ?」


本人を目の前にしてこんな呼ばわりは些か見逃せない気もするが、それは無視して鏡水の質問に答える。


「…私もその理由についてははっきりとは分かりません。しかし、私なりに一つの考えを紡ぎ出す事は出来ました」


「なら、勿体振ら無いでとっとと教えて貰おうか」


急かす鏡水の言う通りに僕は説明を始めた。


「…彼女は恐らく、証拠が欲しかったのではないでしょうか」


「証拠だぁ? 一体何の証拠だっていうんだ?」


「自分が三島楓殺しのみ行っという証拠、いわば既成事実の様なものですかね。彼女はわざわざ探偵に依頼して死体を見つけさせるよう促した、そうすれば連続殺人犯の行為としてはあまりに不可解である為容疑者からは外れる可能性が有る。その後出頭し事の真相を説明すれば、警察の監視下に置かれ連続殺人犯から守られる。逃げ場の無かった彼女にとっては突破口の様な閃きだったのでしょう」


「……何と言うか、些か粗雑じゃないか?」


「まぁ追い詰められた人間の付け焼き刃ですから精度は曖昧ですね。もしかしたら、ただ単にすがる事が出来る人物が欲しかっただけなのかもしれませんし」


「……この娘がすぐに出頭しなかった理由は?」


「このまま掴まらずに逃げれると踏んだか、或いはやはり警察への出頭に躊躇したか……理由はどうであれ、私は意見を覆す気は微塵もありません」


僕はそう言い結ぶと、もう一度ソファに腰掛ける翔子に向き直った。


「以上が私の推理です。何か異論が有れば何なりと申して下さい」


僕の言葉が聞こえている筈だが、翔子はぴくりとも動かず相も変わらない様子で静かに俯いている。


「…答えないのであれば、貴方は自分が三島楓殺しの犯人だと認めたと解釈してよろしいのですか?」


その言葉に反応したのか、翔子は下げ続けてきた顔を上げゆっくりと僕と眼を合わせた。


「…探偵さん、あなたの話は全て聞かせて頂きました……」


「…それで、貴方の答えは? 本当に殺人に至ったのか、それとも自分の潔白を主張し続けるか、答えてもらえますか?」


「…とても面白い話でした……しかし、いくら何でも突拍子過ぎじゃないです? よくそこまで勝手な想像を膨らませますね、尊敬します……」


先程までとは違い、彼女の顔には不思議と薄い笑みがこぼれている様に見えた。


「確かに私と後藤行雄は何年か前まで付き合っていました。でもそれは、私から別れようと言ったんです、二人に恨みなんて有りません。それに、もし仮に私が捨てられた腹いせに楓を殺したとしても、何の証拠も無ければ意味が無いじゃないですか」


もはや反論と言うより嘲りに近い彼女の発言は、打つ手立ての少ない僕を着実に追い込み始めようとする。


「…確かに私が今まで述べた事柄は全て仮定にすぎませんし、貴方を逮捕出来る程のものではありません」


「…よく分かってるじゃありませんか……なら、これ以上私を疑う真似はしないで下さい!!」


声を荒げて叫ぶ翔子、彼女とはほとんど接点は無いが彼女がこれ程怒りを露にした事は無いと思う。横で気不味い様子の鏡水は眼だけを動かし僕と彼女を交互に見据えている。


「これ以上私を傷付けるなら、人権侵害で」


「しかし、形はどうあれ貴方を逮捕する手筈は整っています…」


「な…何ですって?」


その一言に勢いを無くした翔子は酷くうろたえはじめた。


「私は何の理由も無く人を疑う真似は致しません。れっきとした証拠は持ち合わせていますよ」


僕は手の中に仕舞っていた物、先程取り出した写真とはまた別の物を二人に見せ付ける様に突き出した。


「この葉書に……見覚えが有りますか?」


僕は翔子に尋ねると、彼女は顔色を一瞬曇らせたがすぐにこれまでに無い程の焦りと驚きを表した。


「なんだそれは? 一体何が書いて在るんだ!?」


堪え切れず弁解を促す鏡水は、壁から離れ僕が葉書を持つ腕を無理矢理引っ張り掲げていた葉書を奪い取る。

 そうして僕から強引に奪い取った鏡水は手にしたそれを確認するが、訝しい表情を浮かべるだけだった。


「…何だよこれ、三島楓が書いた呪いの葉書じゃないか」


彼が手にしているのは、本人が言う通り三島楓が恋人の後藤行雄を呪う為に書いた投書である。そこには後藤行雄の名前と名前の主を怨む見るに耐えないつらみ言を記した文面が書かれていたが、鏡水は何の珍しくもない物だった為さらに機嫌が傾いてしまった。


「おい望月さん、俺にまたこんなちっぽけな物見せびらかすのか? だとしたら一発殴らせろ」


いよいよ我慢の限界か鏡水は苛立ちを隠し切れずにいた。そんな彼を落ち着かせるべく、僕はさらに言葉を繋げた。


「この葉書はどこにあった物か分かりますか?」


「恐らく写真と一緒に隠してあったんじゃないか? だとしても、それが一体どうしたんだ?」


「そう、そこが問題なんですよ」


「……あ?」


非常に間の抜けた声を出した鏡水に反して、事を知っている翔子はいくばくか震えている様子であった。


「警察が押収した葉書には三島楓と後藤行雄の物も有りました。だとすれば、その葉書は誰の物か…」


「二枚書いた…訳じゃないか、そんな必要無いしな。だとしたら……あの葉書が偽物だったって事か!?」


「そうなりますね」


「だが、誰が何の為に?」


「…翔子さん、貴方がお書きになられたんですよね。三島楓が恋人を呪わなかった場合に自分で書いて貼付けてあった物、その後貴方は三島楓と口論になり……」


「勝手に決めないで下さい!!」


殺してしまった、と言う前に翔子は怒鳴り声を上げ否定を再開し始めた。


「そ、それも憶測じゃないですか! 何処が証拠だって言うんです!?」


「貴方の筆跡と指紋を鑑定すれば分かります」


「え?」


「もし押収された葉書の筆跡と指紋が一致すれば、私についた嘘を基に貴方は事件の重要参考人になります。取り調べを受ければすぐに事は露見し貴方は逮捕される、結局貴方が恐れていた形を向かえてしまうでしょう」


「う………」


翔子は口を閉じそれ以降黙ってしまった。それは自身の罪を認めている故の沈黙だと感じられた。



 口を閉ざし続ける翔子に僕は静かに語り掛けた。


「翔子さん……先程申し上げたように私は貴方を逮捕出来ません、しかし私はどうしても貴方に罪を償ってほしいのです。もし連続殺人の容疑がかかるのであれば私が弁護人になります。それに、出頭すれば多少罪が軽くなります……すいませんが、言う通りにしてくれませんか?」


それは僕なりの優しさであった。確かに彼女は人を殺したが、だからと言って彼女に責め苦を与えるのはお門違いだ。今回の事件はほとんど偶発なものであって、彼女も自分の行いを悔やんでいるのであれば、少しでも彼女の為に尽くそうと思う。


「私の…完敗ですね……」


「いや、そもそも事件に勝ち負けなんてありません。もし勝ち負けが有るとすれば、警察側の完敗ですよ。警察は事件を未然に防ぐもの、解決する為にいるのではありません」


それは、僕が刑事時代から常日頃から胸に抱いていた考察であった。どれだけ事件を解決しても、すでに人は死に傷付いている。僕達には被害者や関係者を慰めるぐらいしか出来無い、言ってしまえばやったもの勝ちなのだから。


「…私が三島楓を殺しました……特に話す事はありません、探偵さんの推理した通りです…」


力無くそう答えた翔子、もう否定するのを諦めようやく罪を認めたようだ。


「…しかし、その推理には一つ間違いがあります」


「え? それはどの部分です?」


自分の推理には自信があったのだが、どうやら完璧ではなかったみたいだ。まぁ世の中の完璧とは所詮妄言でしか無いのだが。


「…私は二人の中を裂こうとしました、しかしそれは決して復讐の為ではありません」


「では一体何の為に?」


「彼と……彼と再び縒りを戻す為です……例え一度別れてもまたやり直せる、そう思ったんです…」


その話を聞き僕はようやく吉川翔子という人間に触れた気がした。彼女は純粋だっだ、恋愛感情に振り回される年相応の女子高生である。しかし、今回の事件はその恋愛による妄執が原因であった。今思えばこの場所に来てから泣いていたのも、ひょっとしたら三島楓ではなく後藤行雄の死を悼んでいたからなのかもしれない。


「しかし、そこで三島楓に企みを知られてしまったのですね」


翔子は静かに頷いた、そしてまた一段と顔から力が抜けている。


「…詳しく話してくれませんか?」


「…先程おっしゃった通り、私は楓をあの霊安室に呼び出し行雄を呪うよう促そうとしました。でも、もし楓が躊躇ったりしたらと思い自分で作った偽の葉書を壁に打ち付けておいたんです」


彼女がもしもの時の為にかけていた保険、しかしそれが彼女自信の致命傷に成り果ててしまったのだが。


「その後楓が来たんですが、予想してた通り葉書を持っていなかったんです。そこまでは自分の計画通りでした、でも楓は私の企みに気付いてて私を責め始めたんです。何でこんな事をするの、人の恋愛を勝手に荒さないで、その言葉を聞いた瞬間私は感情に歯止めが効かなくなっていました…」


「それで……その後は?」


これ以上彼女に語らせるのは非常に酷であったが、聞かなければ真実を知るに至れないので話すよう促した。


「私も彼女に言い返しました、あんたが悪いんじゃない、あんたが先に私と彼の間を裂いたんじゃない、他人の人生目茶苦茶にしておいてふざけないで、と……それからは激しい口論が続き、その果てに楓は私の首掴み壁に思い切り頭をぶつけたんです……」


その場を見てはいないが、想像するだけで恐ろしい光景である。女同士のいさかいは凄まじい、と悠司から聞いた事があるが本当にそうであるらしい。


「…強く頭を打った私は意識が朦朧になって、その場に倒れました。その時……私はとても怖かったです。これまで親しかった友人が自分を殺そうとしている、そう思うだけで体の震えが止まりませんでした。何としても助かりたい、そう思った時私は床に落ちているメスを見つけました」


「メス……ですか?」


あの霊安室で死体を見つけた時にそんな物が落ちていただろうか、仮に落ちていたとしたら霊安室に有るのはおかしい。


「私は…そのメスを握り締めました。その時の私にはもう恋人を奪われた恨みはありませんでした。あったのは……ただただ楓に対する恐怖心、それだけでした。私は楓にメスを向けながら走って…それから……」


「……それから?」


ふと過ぎった疑問に悩む間も無く話は進む。


「……それからの事はよく覚えていません……ふと我に返ると、辺り一面血塗れで……か、楓は首に大きな傷と全身に刺し傷があって……わ、私の体が生暖かくて、よく見たら……全部…血で……そしたら、急に冷たくなって………」


そこまで言い終えると、途端に彼女は泣き崩れた。無理にとは言わなかったが、彼女もよく耐えて話してくれたと思う。

 随分と後味の悪い陰鬱な話であった、外は夏模様だというのに僕の体は完全に冷え切っていた。流石にこれ以上聞くのは気が引けてきたのだが、鏡水はさらに話し出した。


「それで、親友を刺し殺したあんたはどうしたんだ?」


「…鏡水さん、これ以上は…」


「あんたは黙っててくれよ……さあ、言うんだ」


この男は無情にも彼女の傷口をさらに広げようとするのか、もうこれだけ聞ければ充分だろうに。


「…わ、私は…すぐにその場を去りました……それから自首しようとして……そしたら行雄が殺されて……後は先程言われた通りです……私がこの場所に来たのは、自分の身を守る為です…」


「ふーん……なぁ、一つ質問していいか?」


必死に涙を堪える翔子の返事を待たずに、鏡水は勝手に質問する。


「あんたと後藤行雄、それに三島楓、あんた達の間で一体何があったんだ?」


「鏡水さん、それ以上はちょっと」


「黙ってろと言った筈だ……知っているなら教えてくれ」


今この状況で聞く事ではないだろうし、それを直接本人から聞くのは酷過ぎる。


「…私の両親は私が幼い頃に交通事故で亡くなりました。中学まで孤児院で育てられ高校生になってからは寮暮らしを始めた私は、親の愛情というものを受けず育ちました。いつも心細くて自分を優しく包んでくれる人を求めていました、そんな私にとって行雄は親の様な存在でした。いつも優しくて私の事を気に掛けてくれました」


「…そんな事はどうでも良い、俺が知りたいのはその先だ」


他人に言わせておいてその言い方はないだろうに、全く他人の気持ちを理解しない男だ。


「行雄と付き合い始めてからしばらく経ったある日の事でした。その日私は楓と一緒に下校していて、その時偶然彼と出会ったんです。私と行雄は恋人の関係をなるべく公にしないと約束してました、だからお互い声も掛けませんでした。でも……」


「ん? でも、どうしたんだ?」


「……その時の彼の視線は、明らかに楓の方を向いていました。それにその眼は何かに見とれている様でした」


「後藤行雄が心変わりした瞬間だった、という訳か」


「はい……その日から行雄は私と距離を置くようになり、次第に会う機会も減っていきました。久しぶりに会っても、彼の眼は常に魅入られている様に虚ろでした。そして……彼の方から別れようと言われ、私は悲しみに明け暮れました…」


確かにそこまで連れ添った仲で突然別れを告げられれば誰でも心に傷をおう、ましてや彼女は恋人を親の様に思っていたのだから尚更であっただろう。


「それから何ヶ月か経った時でした。楓が突然、私に付き合い始めた人がいると言われて、私は背筋が震えました。相手は…思っていた通り、行雄でした。その時、私の中で何かが崩れていくのを感じました……後に残ったのは楓への憎しみと行雄への執着でした…」


「……成る程、つまり後藤行雄があんたと別れた理由は、その同級生の女に惚れ込んだからか」


翔子はそれ以上答えようとはしなかった。

 束の間の静寂の後、今度は鏡水が話し出した。


「翔子さん、でしたっけ? 俺はどうにもあんたの事が信用できねぇ、あんたには偽っている事が多過ぎる」


「……え?」


不思議そうな表情をする翔子に、立て続けに鏡水は語る。


「まずあんたの演技は上手過ぎる、傍から見れば誰も嘘だと見分けられないだろうよ。こちらの探偵先生の話だとあんたが依頼を持ち寄った際に人を殺して悲しむ様子は一切見せなかったみたいじゃないか、さっきまではこれでもかと泣いていたくせに」


「そ…そんな……」


「さらに付け加えると、あんたは一度この探偵先生にとんでもない事を言った、確か「人殺し」だったか? よくまぁそんな事ほざけるもんだよ、自分が殺しておいた分際で、それも自分の下らない妄執のおかげでな」


「い…いや……」


「鏡水さん、何て事を!!」


焦りながら彼の話を止めようとしたが、鏡水は構わず強引に話し続ける。


「それにあんたは間違って三島楓を殺したみたいに言っているが、本当にそうか? あんたは心の底では三島楓を憎んでいた、そして自分が殺されそうな状況、床に落ちていたメス、殺人犯すには打って付けな環境だ。あんたは正当防衛だと思っているだろうがそれは違う、所詮は逃げ口上だ。あんたは明確な自分の意思で三島楓を殺した、例えどんなに言葉で飾り立てようとあんたが人を殺した事実に変わりは無い」


彼女を罵倒し終えると、ようやく鏡水は静かになった。僕は堪らず彼に怒鳴った。


「鏡水さん、少しは彼女の気持ちを考えて下さいよ!!」


怒り心頭に発した僕を余所に、鏡水は至って冷静な様子である。


「望月さん、残念だが俺はあんたと違って犯罪者にこれっぽっちの情も持たないぜ。どんな理由だろうと殺人は殺人だ、そこを履き違えてもらっちゃ困る」


確かにそうではあるだろうが、よりによって本人の眼前で話すとは何を考えているんだ。


「……に……」


「んぁ?」


僕と鏡水が言い争っていると、翔子はか細い声で何か呟いた。彼女の方を見ると、何処と無く震えているように見えた。


「…あなたに……私の一体何が分かるんですか!?」


そう大声を上げると、彼女は泣きながら事務所の玄関へと走って行く。


「翔子さん、待って下さい!!」


僕は彼女を止めようと後を追ったが、玄関から外に出た頃にはすでに彼女の姿は何処にもなかった。

 大人しく諦めて事務所に戻ると、鏡水は何事も無かったかの様に煙草を吹かしていた。僕が帰って来た事に気付くと、煙草の火を消し僕に話し掛けてきた。


「どうやら事件の真相を見抜けるあんたでも、女心は見通せなかったみたいだな」


「僕に言わないで下さいよ……ていうか貴方が原因ですよね! それにそれ以前の問題でしょ!!」


溜まっていた怒りを存分にぶつけたが、鏡水は詫びる所か呆れ果てた顔をする始末である。この男は何度人の逆鱗に触れれば気が済むのだろう。


「あぁもう分かったから騒がないでくれ、隣で助手が寝てるんだろ?」


「残念ですが、悠司君はもうとっくの昔に快復してますよ」


「何だ、随分としぶとい野郎だな」


苦虫を噛み潰した様な顔をした挙げ句そっぽを向いてしまい、怒りが治まった僕にとって非常にばつが悪い状況となってしまった。

 この重苦しい空気に耐え切れず僕は給湯室へと向かおうとしたが、突然鏡水に呼び止められた。


「あの娘はどうする? 殺人犯をこのまま野放しにしておくのか?」


「彼女がこれ以上殺人を犯す理由は有りません、心配しなくてもいずれ警察が彼女の身柄を確保するでしょう」


「随分と投げやりな様子だが、連続殺人犯があの娘を捕まえた場合はどうするつもりだ?」


「犯人は彼女が何処の誰かも知らない筈です。それに、これ以上彼女に関わらない方が彼女の為ですし」


そう軽くあしらった頃には給湯室に行く気も無くなり、踵を返しデスクに備え付けの椅子に深く腰を下ろした。改めて思えばこう安堵出来たのは何日ぶりだろうか、最近は非日常的な事の連続でとことん疲れてしまっていた。



 目を閉じて気分を休ませていると、突然鏡水が奇妙な言葉を口にした。


「…イワナガヒメ……」


「え? 何か言いましたか?」


「いや何、さっきの娘の話を聞いてふと思い出した事があるんだが…」


こちらの聞く聞かないはお構い無しに鏡水は話し始めた。


「あんたは知らないだろうが、「古事記」の中にこんな話がある。大山祇神の娘である磐長姫と木花開耶姫の姉妹は瓊々杵尊に二人揃って嫁ぎに行った、しかし磐長姫は醜く木花開耶姫の方が美しかった為に磐長姫は送り返されてしまった」


(イワナガヒメ…コノハナサクヤ…オオヤマツミ…ニニギノミコト…)


鏡水の言っている事の意味が分からず、僕は置いてけぼりを喰らってしまう。


「その事実を知り怒った大山祇神は瓊々杵尊に二人を嫁がせた理由を教え、その上で彼の寿命が短くなるだろうと告げた」


何と言えば良いか分からないが、つい先日聞いた伊邪那岐と伊邪那美の伝説と同じで非常に酷く惨い話であるとしか言えない。だが、その話が何に関係するのだろうか。


「しかし、「日本書紀」の場合は少し違う。瓊々杵尊の子を身篭った木花開耶姫に嫉妬し怨恨の念を抱いた磐長姫は、彼女に呪いをかけ命を幾分か削り取ってしまう。世の短命の起源とも称される話だ」


そこまで聞いて、僕はこの男の言いたい事が瞬時に頭に受かんだ。似ている、あの吉川翔子と三島楓と後藤行雄の関係、そして事件動機、些か違う点は有るものの言われて見ればかなり酷似している。


(これは偶然……いや、それにしては……)


またしても、不安が頭の中を満たしていく様な気分に陥る。

 しかし、よくそんな事をこの状況下で思い付くものだ。ひょっとしたらこの男はこの状況を楽しんでいるのだろうか、さながら事件現場で相手の気持ちすら考えず好奇心で傍観する野次馬の様に。だとすればかなり不謹慎であろう、当事者からすれば頭に血が上っても仕方ない。


「……神様って一夫多妻制なんですか?」


「今までの話を聞いて開口一番に出て来るのがそれか? あんたがあのポンコツの代役かって出なくてもいいんだぜ、別に」


別にそんなつもりは毛頭無い、ただ頭に溢れる不安を少しでも和らげたかっただけである。


「…しかし、あんたの推理には感服したぜ。流石元警察の探偵先生だ」


「止して下さい、そんなんじゃありませんよ」


この男にこういう形で褒められるとは思わなかった。何と言うか、少し照れ臭い気もしたが。

 鏡水と二人になったこの事務所、僕は何をするでも無く窓辺へと向かい下界の様子を確認する。いつもと同じで人が交差し車と擦れ違う何気ない風景、今思えば世間は全く変わっていないのであった。変わっていたのは僕達の周辺だけ、そんな当たり前な事をこの情景にふと気付かされたのだ。


「望月さん、そんなに窓からの景色を眺めてどうした? 自殺するなら場所選べ、別に止める気は無いがな」


鏡水の笑えない冗談を無視して、僕は物思いに耽る。今だ捕まらぬ連続殺人犯、現状は最悪だ。しかし、これ以上この平穏を掻き乱してほしくない、叶う望みの薄さを身に染みている僕だが今はそう願うより他無かった。



++++++++++++



「完、全、復、かあぁぁぁっつ!!! 月波悠司、再臨!!」


「…分かったから、少し静かにしてくれないか?」


事務所のど真ん中で両腕と顔を天井に向け、突拍子も無く訳の分からぬ事を叫ぶ悠司を僕は軽くあしらうと再び本に目を向けた。


「ちょっとちょっと、先生なんだか冷たくありません!? 折角大事な助手が復帰したんですから、もっと喜んでくれたっていいじゃないですか!」



「何度も言うが君は僕の助手ではない、それに叫ぶ暇があったら休んでいた分さっさと働いてくれ」


「ひ、酷い…私と交わした約束は嘘だったと言うのね!」


口許に手を当て内股気味になる悠司、僕は多少怒りを抑え再び言い放つ。


「茶番はいいからいつもの職務に戻ってくれないか? 掃除、洗濯、終わったら昼食の準備、言われた通りにやってくれ」


「ちぇ、連れないなぁ。分かりました、すぐに取り掛かります」


淋しげな顔をしながらも掃除道具を取り出し掃除を始める悠司、時々僕を見つめてくるが気にせず読書を続けた。


「…先生、一つ聞いていいですか?」


「なんだ?」


僕の周りにはたきを掛けながら、物珍しそうな顔で尋ねてきた。


「さっきから難しい顔して何読んでるんですか?」


「あぁこれか、「古事記」だよ」


「うわぁ出た、いかにも俺が好きじゃなさそうな本ですよね。どうしたんです、突然そんな物読み始めて………あ! さては鏡水さんに触発されたんですね」


「まぁそういう見方も出来るが、僕は昔読んだ事があるんだ。まぁ、ちょっとした興味本意だったがね」


ページをめくれば様々な神と、それに伴う多くの物語を楽しむ事が出来る。子供の頃に聞いた様な話から、大人染みた話まであり老若男女問わず楽しめる本だと思う。

 さらに読み進めていくと、神も人間と同じ様なものだと気付かされる。約束を反故にしたり実の子供を捨てたりと、人間の碌でも無い所は非常によく似ている。そう思えば、何処と無く親近感が湧いて来る。


「先生、読書もいいですけどどいてくれませんか?」


いつの間にか掃除機を持って横に立っていた悠司が退くよう命じた。


「どいてくれとは随分な言い草じゃないか?」


「親しき仲にも礼儀あり、なんて言葉俺には通用しませんよ。それと寝室は次に掃除するんで、先生は給湯室にでも引き篭っといて下さい」


追い出された僕は仕方なく給湯室で時間を潰す事にした。



 吉川翔子が事務所から去って行ったあの日から三日、僕達はようやくまたいつもの生活へと戻る事が出来た。ニュースや新聞を逐一確認しているが、変わった事も起こらずとりあえず一安心だ。

 吉川翔子の件については鏡水と悠司以外誰にも話していない。警察に連絡しようとしたが柊警部補から首を突っ込むな、と忠告されていた事を思い出しやめることにした。それに翔子も出頭する以外他無いので、後は時間が解決してくれると思った。

 久しぶりに訪れた心安らぐ一時を邪魔されたくはない、給湯室に来た僕はとりあえずコーヒーでも飲もうと思いやかんに水を入れ湯を沸かした。しかし肝心のコーヒーが見当たらない、そういえば此処最近悠司が寝た切りの状態で買い物にすら行っていない事を思い出した。他に何かないかと戸棚を探っていると、奥の方から茶葉の入った古ぼけた缶が出て来た。蓋を開け匂いを嗅いだが別段問題が有る様ではなかったので、急須を用意し茶葉を入れた。部屋の向こうから掃除機が奏でる耳障りな風音と微かな悠司の鼻歌が聞こえる。

 するとそれらの音を割り裂き、突然仕事机の電話が鳴り響いた。直ぐ様取りにいこうとしたが、先に悠司に取られてしまった。


「もしもし、こちら月読……え…警察? 警察の方が一体何の用件で?」


電話の相手は警察らしい、ひょっとしたら吉川翔子が犯人だと気付いたのだろうか。


「先生ですか? ……今ちょうど席を外しているんで、代わりに俺が伝言しておきますが…」


今まさにすぐそこ本人がいるというのに、相変わらずふざけた男だと再認識させられる。


「はい…はい………え!!? そ、それは本当で………はい……分かりました、すぐ先生に伝えます!!」


そう言い終えるや否や悠司は乱暴に受話器を置くと、急ぎ足で僕の方へと向かって来た。


「せ……せ、先生大変です!!!」


「さっきから喧しいぞ悠司君、君はもうちょっと寡黙な人間に成れないのか?」


「そんな事…言ってる場合じゃありませんよ!!」


「じゃあどうしたっていうんだ? そんなに慌てて」


至って冷静な僕と相反して、悠司は息を切らしながら答えた。


「よ…吉川……吉川翔子が……」


「吉川翔子? 彼女が一体どうしたっていうんだ?」



「…吉川翔子が……今朝、死体で発見されました…」



「…え………」


僕はその言葉をはっきりと耳にしたが、その意味を飲み込めずにいた。しかし、徐々に頭が冴えてくるに連れてその事実がどういう事なのか思い知らされる。それと同時に、その事実が嘘であってほしいという急激な否定欲求に襲われた。

 それはとんでもない凶報だった。死んでしまった、吉川翔子は死んでしまった、極当たり前なその情報が頭の隅々を駆け回りやがて頭痛へと変わり僕を苦しめる。つい数日前まで彼女は生きていた、ちょうどこの事務所の中で彼女は他の人間と何等変わらなかった。それが今では物言わぬ死体、実感が湧かぬどころか思考すら匙投げ状態だ。

 ふと眼前に翔子の顔が現れた。走馬灯という奴だけですか、彼女の顔は水面に映る虚像の如く揺れ形を変えていく。怒り、恨み、憎しみ、悲しみ、多様な表情が現れては消えを繰り返し、まるで僕に何かを訴えている様である。やがてそれは靄の様に消え去り、目線の先には見慣れた悠司の顔があった。酷く怯え絶望に苛まれるその顔を、恐らく僕もしているのだろう。

 今この給湯室、或いはこの事務所が酷く静まり返っている事に気付く。恰も吉川翔子の死の知らせを聞き、その死を悼んでいる様である。しかしその沈黙を掻き乱す物が一つ、コンロの上で口喧しく騒ぎ立てるやかんだけがその泣き声だけが鳴り響いていた。



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