衷1
人を殺す理由、それは犯罪心理の原点でありその理由については多種多様と言うより他無いであろう。怨恨、男女関係の縺れ、遺産問題、果ては通りものにあたりふと殺人を犯してしまう事だって有り得るのである。また他の殺人事件の露見を防ぐ目的に因る殺人、自分の生命を脅かす要因を排斥する為の殺人等、主たる殺人から派生したものもあり殺人の動機とは十人十色なのだ。
ではその反対に人を殺さない理由とは何であるか、その要因は三つあると思われる。それは「理性」「法律」「世間体」の三つ、この内どれか一つでも欠落した時こそ人は凶行に及ぶのであろう。まあ、大概は「理性」の欠如が原因であるが。
此処で一つ面白い見解が生まれる。人を殺す理由よりも人を殺さない理由の方が明らかに薄い、それはそれぞれにかせられている鎖の違いからだ。そもそも人間は猿から進化した獣の成れの果てであるのだから、本能的に欲に走るのも無理も無いのかもしれない。
つまり、人を殺さない事より人を殺す事の方が遥かに………
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刑事時代に度々取り調べを行うことはあったが、まさか自分が取り調べを受ける日が来るとは思ってもみなかっただろう。全く皮肉としか言い様がない、とんだ災難である。
やはり取り調べはする側とされる側では、環境が違って見える。今はされる側の立場、暑さと緊張で汗がとめどなく流れている。
「……それで、どうしてあの場所にいたんだ?」
「だから何度も言ってんだろ!! 呪いの調査をしてたって、聞いて分かんないか!?」
「呪いって言われても……大体、あの場所は立入禁止だよ。なんで君達は入ってるんだ?」
「管理人の許可は取ってるぜ。いいから茶の一つでもよこしやがれ」
何故か鏡水が若い刑事の取り調べの対応をしている。対応と言うよりも、鏡水が一方的にいきり立っている様に見える。相手の警官も困っている様子だ。
三島楓の死体を見つけた僕達は、あの後警察に通報した。しかし、警察が到着するや否や僕達は第一発見者兼容疑者となってしまい、半ば強引に連れて来られ現在に至る。
僕は隣に座る悠司を見た。やはりまだショックから立ち直れていないみたいだ。無理もない、彼は死体を見慣れていないしましてやあの死体だ、トラウマになるには十分過ぎる。
「大丈夫かい、悠司君」
「え? あぁはい、大丈夫です」
彼はそう言ってるが、どう見ても疲れきっていた。精神的にとても参っている様だが、それ以上僕は掛ける言葉が見つからなかった。僕が無理に彼を連れて行く様に促したせいだ、そんな遅すぎる後悔の念に僕は駆り立てられていた。
「……あの、すいませんが早く終わらせてくれませんか? 彼とても疲れているみたいですし、これ以上はちょっと……」
悠司を労る気持ちと僕自身の罪悪感が、これ以上の長居を拒んだ。
「そう言われても、こっちも仕事でやってるんでそういう訳にはいきません」
「たく、ふざけやがって。これだから公務員は嫌いなんだ、融通が利かないというか臨機応変さが全く見当たらない」
「そんな愚痴僕に言われても……」
鏡水の留まる事無き罵倒に、いよいよついていけなくなった刑事は僕の方を見たが、僕でもどうにもならない。
しばらくすると取調室のドアが開き、長身の女性が入って来た。その顔には見覚えがある。
「おい、篠塚! 取り調べするのにどれだけ時間とるつもりだ!?」
「うわっ、柊さん! 驚かさないで下さいよー」
「ひ、柊警部補……」
「ん? おぉ、望月じゃないか、久しぶりだな。元気にしてたか?」
久しぶりに顔見知りと再開し、頭の中の思い出がフラッシュバックする。何年も前の事がつい先日の事だったかの様な気分になる。
男の言葉みたいなきつい口調は相変わらずで、二年前と寸分も変わっておらず少し安心した。
「柊さん、お知り合いですか?」
「なんだ望月さん、あんたの知った人間だったのか」
鏡水と若い刑事がほぼ同時に口を開いた。
「あぁ、彼は元私の部下だった望月だ」
「この人は、僕が刑事だった頃にお世話になった柊警部補です。女性ながら男性にも劣らない気迫の持ち主で、通称「夜の」
「望月、それ以上は言うなよ」
柊警部補からの止めが入り、僕は黙り込んだ。
「そうだったんですか…」
「あんた刑事だったのか! それならそうと早く言ってくれりゃ良かったのによぉ」
ほとんど同じ内容の答えに対し、二人共全く違う意見を述べるあたりが、やはり考え方とは十人十色だと言える。
「ところで、柊さんは何故此処へ? 確か今回の事件の現場検証に立ち会ってた筈じゃ……」
「人手が足りないから他の管轄からも総動員させないといけなくなったんだ。ほら、君も油売ってないでとっとと支度したまえ」
「えぇ!? じ、じゃあこの人達の取り調べは……」
「彼等を問い詰めても、これ以上は何も進展しないだろう。まさか、彼等が犯人という訳じゃあるまいし」
「し、しかし……」
「彼等が無関係なのは私が保証する。何なら彼等の身元を控えておけば問題あるまい」
彼女の登場で、話が次々と進んで行く。話を聞く限りだと、ようやく帰れるらしい。悠司の様子から見て、もっと早くそうしてくれたら有り難かったのだが。
「分かったら早く行くぞ。でないと、また上から文句言われるぞ」
「……はい、分かりました。すぐに支度します」
そう言って、篠塚という男は部屋を出て行った。
後に残った柊警部補は、僕達に一瞥して話始めた。
「しかし災難だったな。まさか君が事件に巻き込まれるなんて、思いもよらなかっただろうな」
聞いてると、まるで他人事の様な発言である。彼女は基本、誰に対しても冷たくあたる癖があるようだ。
「柊警部補は行かなくて良かったんですか?」
「その前に、君達に聞いておきたい事があるんだが」
「聞きたい事?」
この期に及んで、今更何を聞き出そうというのか。
「何故あの場所にいたのかは、恐らく依頼か何かだろうな」
成る程、どうやら見抜いていたようだ。流石、彗眼の持ち主といったところだ。
「そこで質問だが、その依頼の内容をできれば教えてくれないか?」
先程部屋を出て行った刑事とは違い、単刀直入に的を射た質問をしてきた。話が早く僕としては有り難い。
「あぁ、それは」
「呪われた女子高生を救う、と言えば分かるんじゃないか?」
部屋の隅で不機嫌そうな顔をした鏡水が、僕の発言を遮り代わりに答えた。
「はぁ? なんだ、呪いってのは………ところで望月、こいつは誰だ?」
「彼は町外れの神社で宮司を勤める比良坂鏡水さんです」
明らかに嫌悪感を剥き出しにする鏡水を、柊警部補は不思議そうな表情を浮かべていた。
「一体どういう因果でこの男が一緒に居るんだ?」
「それは……話すと長くなるので言いません」
今は茶を濁らせた。話せば余計に話がこじれてしまい兼ねない。
「そうか……しかし、こんな悪そうな男が宮司とは、世間とは広いものだな」
「うるせぇ奴だなぁ、余計なお世話だ。大体、あんただって見た目若そうだが随分若作りしてるみたいじゃないか」
「何だと…」
また余計な言動で人の逆鱗に触れた。此処までやると、意図的としか言い様が無い。
睨み合いを続ける二人、流石に止めないとまた時間を無駄にしてしまいそうである。
「あの、二人共……そこまでに」
「柊さん、何やってるんですか!? 急がないと、また何言われるか分かりませんよ!?」
取調室のドアを勢い良く開けた若い刑事の登場に、その場にいる全員が驚いた。
「もう少し静かにしろ! そんな事言われなくても分かってる!」
部屋に響く怒鳴り声が若い刑事を一瞬で黙らせた。
その後、彼女は頭を掻いてようやく冷静さを取り戻したようだ。
「すまない、少し取り乱した。それで、その依頼にある呪いについて教えてもらおうか?」
「なんであんたに教えなきゃならねぇんだ? 民間人の手なんか借りずに、そっちで勝手に調べりゃいいだろ?」
「ち、ちょっと鏡水さん」
僕は鏡水を止めようとしたが、相変わらず鏡水の悪態は留まる事を知らない。
「それによぉ、俺達は通報したんだぜ。なのに、無理矢理此処に連れて来られ、あんたらは聞きたい事聞いてそれで終い、てのはあまりに虫が良過ぎないか?」
その言葉を聞いて、柊警部補は睨みを利かせた。
「それではなんだ、そちらの情報を教える代わりにこちらの情報を教えろと言うのか?」
「別に俺は情報なんぞに興味はねぇ。ただ、茶の一杯か礼の一つでももらえりゃ嬉しいだけだ」
すると柊警部補は鏡水の方へ近付き、突然机を思い切り叩いた。
「立場を弁えろ、若造。警察に盾突くとどうなるか分かってるだろうな?」
低く冷たい口調で鏡水を威嚇する柊警部補、その眼には明らかに怒りが見て取れる。
しかし、鏡水は一切動じる事無くいつもの調子で話し始めた。
「すいませんねぇ、この口は構造上思った事をついそのまま口にしてしまうんでねぇ」
何も悪びれる事無く、薄ら笑いを浮かべながら鏡水は語った。
神経を逆撫でする言動に流石に憤慨するだろうと思ったが、柊警部補は半ば諦めた様な顔をした。そして、そのままドアの方へと向かった。ドアノブに手を掛けると、こちらに振り返った。
「君達、もう帰って構わないぞ」
「え? でも、まだ質問に答えてませんが……」
「自分の力で集めることにするよ。それに、君の横で疲れ切っている男を早く帰してやらないといけないしな」
「横って………あ!」
色々な出来事が次から次へとやって来たせいで、彼の存在をすっかり忘れてしまっていた。
「大丈夫か、悠司君!?」
「え? あぁ、はい、大丈夫……です」
完全に眼が虚ろになっていて、明らかに大丈夫じゃない。そろそろ精神、肉体共に限界の様だ。早く事務所に帰らなければならない。
「行くぞ篠塚、現場の連中にとやかく言われたくないんでな」
「あ、はい」
悠司を労る僕を横目に、二人の刑事は部屋を出ようとする。
「あ、そうだ。もし今度出会う機会があるんだったら、その口の利き方を直しておくべきだな、若造」
「善処しておきます」
振り返り鏡水にそう言い放つと、二人は部屋を後にした。
三人には少し狭苦しい部屋に取り残された僕達は、どうすればいいか分からなくなった。このまま部屋を出ることは出来るが、何故か後ろ髪を引かれる思いがした。これから何をすれば良いか、それが分からずまだ先に行けない自分の心の現れだろうか。
「…これからどうすんだ、望月さん? 先が決まってる様には見えないが」
見えないならそんな質問しないでほしい、対処に困る。しかし彼の言う通り決まっていないのは事実だが、やるべき事がまず一つあった。
「とりあえず依頼を中断すると吉川翔子に伝えます。中断理由は……なるべくショックを与えない様にします。それと、依頼調査に関わった人達にもお詫びしないといけませんし……」
「そうか、大変だな…」
そう言って鏡水は懐から煙草を取り出し、口にくわえた。しかし、その眼は何処となく物寂しげに見えた。
「しかし、一介の探偵であるあんたがそこまでやる義理はねぇと思うぜ?」
「これは僕の主義の問題です」
悠司を気にかけつつ鏡水に返答する。彼の意見はもっともだが僕には僕なりの信念がある、そこを他人に干渉される筋合いは無い筈だ。
「ふーん、まぁ俺にとっちゃどうでもいい事だが」
興味無さそうな口調の鏡水、ふと彼の方を見ると何かを探すそぶりをしていた。
「あれ、おかしいなぁ………なぁ、あんた俺のライター知らないか?」
「知りませんよ、そんなの。何処かに落としたんじゃないんですか?」
「なんだよ畜生、仕様がない代用品で我慢するか」
そう言うと鏡水は腰の辺りをまさぐりだし、代用品なる物を取り出した。
「……それって、着火マンですよね?」
「これしか無いから仕方ないだろ」
それしか無いなら何故他にライターを買わないのか、そう思うのは僕だけではないだろう。そもそもそんな危険な物持っていて、問題あるのではないだろうか。 一服し始めた鏡水は、全く動く気配すら見せず少々不安に駆り立てられる。
「早く出ませんか?」
「まぁ一服終えるまで待ってくれ」
悠司の事を心配するが、鏡水は相変わらず自由奔放である。どうにも緊迫感を感じない鏡水だが、この男こそこれからどうするのだろう。
「鏡水さんは、これからどうするんですか?」
「あ? そんなこと聞いてどうすんだ?」
「いや、その……」
もはや彼には僕達に付いて行く道理が無くなった。しかし、此処まで来て別れるというのは些か淋しさを覚える、自分勝手にも程があるが。
「まぁ安心しろ、俺もこんな所で引き下がる程薄情じゃねぇからよ」
「え?」
まるで僕の心の内を読むかのように鏡水は答えた。
「厄介事はいけ好かないが、ようやく事件っぽくなったじゃないか。気が向いて来たんで付き合ってやるよ、勿論契約は解除せずにしておいてやる」
嬉しい反面この男に付き合わさせる事になったのを悪く思う矛盾した感情が入り乱れたが、何は共あれこの男の協力を引き続き得ることが出来てよかった。
「さてと、とりあえずそのポンコツを事務所へ持って帰るか。続きはその後考える事にしてよぉ」
吸っていた煙草を手元の灰皿で潰し、ようやく鏡水は腰を上げた。しかし、悠司への暴言はいつ何時においても止む事は無いらしい。
「悠司君、そろそろ…」
悠司にそう呼び掛け帰るよう促した。しかし、彼は返事をすることも無く無言で立ち上がったが、その足取りは酷く覚束ない様に見えた。仕方ないので、彼の腕を僕の肩に廻し彼を支える形で部屋を出た。
「ったく、いい加減一人で歩きやがれ」
「それ以上彼を悪く言わないでくれませんか?」
とめどなく続く悠司への罵倒に、流石に少し頭にきた。本当にこの男は容赦無い、というより空気が読めない。
「……悪い、言い過ぎた」
今回は妙に聞き分けが良く、そこがかえって僕の不安を積もらせる。
部屋を出ると、見馴れた懐かしい署内の廊下が広がっていた。鏡水は困惑した様に辺りを見渡していた。
「…出口は何処か知ってんのか?」
「二年前の事でもちゃんと覚えてますんで、大丈夫です」
僕は頭の奥深くに眠っていた署内の構造を思い出しながら、出口へと向かった。
「そういえば、さっきあんた言いそびれてたがあの女刑事、通称なんて呼ばれてんだ?」
「え? あぁ、そういえば言えませんでしたね」
鏡水の横に並びながら、歩調を合わせ話した。
「彼女は通称「夜の女王」と呼ばれているんです」
「夜の女王……それって「魔笛」のことか? なんでそう呼ばれてんだ?」
「詳しくは知りませんが、決して夜遊びが過ぎる訳ではありません」
「ふーん」
折角教えたのにも関わらず、鏡水は生返事しかしなかった。そんな事は気にせず僕達は人気の無い廊下を進んで行った。
出口へ向かう途中、署内の刑事達が慌ただしく動いている場面を多々目撃した。行方不明の女子高生が変死体で見つかったのだ、当然と言えば当然であろう。 刑事達の間を縫う様に進むが、周りから多くの視線を感じた。それは、刑事を辞めた僕がこの場所にいる事に対してか、或いは僕の横で半分死んでいるかの様に引きずられている悠司に対してか、それとも異様な出で立ちの鏡水に対してか、それは分からない。しかし、彼等にとって僕達はまさに異物でしかない。
僕達は先を急いだ、その後ろから白い目線を痛い程感じながら。
++++++++++++
病院の周りにある林の前に置きっぱなしにされた筈の車は、誰のおかげか警察署の駐車場にあった。何処かでタクシーを拾わなければならないと肩を落としたが、これで余計な出費と時間を掛けずに済む。
時計を見ると既に十一時を過ぎた頃であった。悠司もだいぶ疲れているので、急いで帰ろうと車のキーを差し込んだ。
「あんた、いつも助手に任せてるみたいだが運転出来んのか?」
「ペーパードライバーですけど恐らく出来る筈です」
「…因みに何年位ハンドル握ってないんだ?」
「多分……七、八年ですかね…」
そう言うと、鏡水は残念そうに俯いた。僕は気にせずエンジンをかけ、自分の事務所へと車を走らせた。
「つ、着きましたよ」
「えらく乱暴な運転だったな。こりゃ寿命が七、八年縮んだぜ」
あえて僕のペーパードライバー歴を引用してからかう鏡水は、言う割にはあまり動揺している様には見えない。
僕は悠司を車から出し、先程と同じ形で体を支えながら事務所へと向かった。事務所が二階に在る為支えながら上がるのは骨が折れるが、自分の力を振り絞り何とか事務所まで辿り着いた。
「よいしょと、具合はどうだ悠司君」
僕は悠司をソファのもとへ移動させると、悠司は力無くへたれ込む様にして座った。向かいのソファに鏡水が座り、また煙草を取り出し口にくわえた。
「どうやらこいつ、相当参ってるみてぇだな」
「どうしたんだ悠司君、しっかりしてくれ」
僕は懸命に声を掛けたが、悠司の反応はとても薄かった。
「はい、先生……大丈夫です……心配しないで下さい……」
蚊の鳴く様な小さい声で返答されても、まるで説得力が無い。やはり彼にはちゃんとした休息が必要だろう、そう考えた僕は悠司を寝室へ連れて行った。
寝室へ入ると、僕は自分のベッドに悠司を寝かして布団をかけた。
「え? せ、先生…俺大丈夫です! い、いつものソファで…大丈夫…ですから!」
声を途切らせながら話す悠司だが、僕はその意見を呑まなかった。
「今は君の体調を調えるが先決だ。僕の事は気にせず、十分に休んでくれ」
「い、いやでも…」
「君が動けなかったら、誰がこの事務所の雑用をしてくれるんだ? 頼むから早く元気になって……またいつもの君に戻ってくれ」
悠司を諭すようなるべく優しい口調で語りかける。すると悠司は嬉しそうな顔をした。
「分かりました……先生、俺早く治るようにするんで……先生も無理しないで下さい」
「分かってるよ、それじゃ」
悠司を寝室に残し立ち去ろうとすると、後ろから声を掛けられた。
「先生……ありがとうございます……」
そう言われ僕は、返事の代わりに手を挙げて寝室のドアを閉めた。
いつもの事務室に戻ってみると、鏡水はソファに横たわっていた。明らかに場違いな雰囲気を醸し出しているそれは、何故か僕を睨んでいる。
「な、何か?」
「ん? いやな、そんな大事にしてる助手なのに寝床はソファに雑魚寝とは、些か扱いが酷くねぇか、と思ってよぉ」
「あぁ、僕は彼の分も買ってやろうと思ったんですが、自分はこれでいいってソファを選んでしまって仕方なくね」
「ふーん」
またしても生返事で返してくる鏡水は、本当に自分勝手な人間だ。しかし、何故彼は僕に付いて来たのだろうか。
「僕はこれから吉川翔子に会う手筈を整えます。鏡水さんはどうするんです?」
「今日は此処に泊めてくれ、帰るのは疲れるんで」
彼はそう言って先程、僕が出て来たドアへと消えて入った。
「………え? えぇぇ!!?」
あまりに普段通りな感じで行ってしまい、僕はしばらくの間何もせずただ受け流してしまった。どうやら彼は、折り紙付きの身勝手人間だったようだ。
その後寝床を奪われてしまった僕は、仕方なく事務室の来客用ソファで寝ることになってしまった。悠司はよくこんな物で寝れるなと感心したが、感心する程でも無かったので頭を振って忘れようとする。
目を閉じて寝ようとするが、僕は中々寝付けずにいた。無理にでも寝ようとしても、瞼の裏に焼き付いた残像がそれを妨げる。そこに映るのは、廃病院で見たあの光景である。学生手帳に写っていた姿とは、比べ様も無い程凄惨を極めたあの変わり果てた死体。皮膚は変色し腐り蛆が湧き、溢れ出た血は黒ずみ、顔は酷く崩れてしまっているあの死体を。
突然僕は身震いがした。しかし僕は耐えた、あの暗い霊安室で声を押し殺し必死で精神を保つことが出来た。だが悠司は現在あの有様だ、仕方がないとは思っている。僕も悠司も心に癒えること無き深い傷をおってしまった。それは事実である。
そういえば鏡水は大丈夫なのだろうか。あの男は平然としていた、まるで何事も無かったかの様な振る舞いだった。誰もが嫌がる筈の死体に平気で触れ、臆することは無かった。
何故だろう、彼は「死」が怖くないのだろうか。普通は怖い、例えそれが有りのままの「死」でなくても「死」という概念が付着するものは誰もが忌み嫌うものである。なのに彼は何故恐れないのか、何故自ら進んで向かって行ったのか。
そんな事を考えていたら、ようやく眠気が襲って来た。いい加減眠なくてはと思い、僕はなるべくあの光景を思い出さないようにして瞼を閉じた。目の前に広がる暗黒に浮かぶ思考と共に、僕の意識は少しずつ深い闇へと沈んでいった。
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今まさに目の前に依頼主の女性が座っている。翌日になり彼女のもとへ連絡したので、此処にいるのは至極当然の事である。しかし、彼女を呼び出したもののどう話を切り出せばいいか悩んでいた。端的に言うべきか、ごまかしながら言うべきか、どちらにしろ大同小異な事に変わりは無いが。
とりあえず無言のままではまずいので、何か話題を出さねばなるまいと閉め続けた口を開けた。
「えーっと……今日御呼び立てしたのは……ですね……」
途切れ途切れで、尚且つぎこちない話し方になってしまった。端から見れば、情けなく見えること請け合いな様子である。
「あの……実は」
「知っています」
「え?」
「楓が死体で見つかったこと…楓がもうすでに亡くなっていること…」
「!!?」
口火を切った彼女から出た悲しみに満ちた言葉は、僕にとっては意外だった。まさか彼女がこの事を知っていたとは、夢にも思わなかったからだ。
「ど、何処でその情報を!?」
「テレビでやっていました。見ていませんでしたか? 新聞にも取り上げられてましたし…」
「い、いや……」
そういえば、今日はまだ一度もテレビも新聞も見ていなかった。しかし、昨日の出来事をもうすでに取り上げるとは、最近のメディアは侮れない。
そうなると話は早いが、同時に余計に話し辛くなった。端的に入って来た事実を受けた場合は、より相手の心境を察しながら話す何とも骨が折れる作業である。
「心中お察しします。親友が御亡くなりになられて辛いとは思いますが、私も仕事柄依頼について話さねばならないので……」
「………して……」
「え?」
「…どうして……助けてくれなかったんです…」
震えた小さい声だったが、その言葉は嫌でも僕の耳に入って来た。
「それは…」
「どうして助けてくれなかったんですか!!?」
言葉の返しに困っていると、吉川翔子は突然ヒストリーをおこした。
「どうして、どうして助けなかったんですか!? 先生が救ってくれる筈じゃなかったんですか!?」
僕を攻める言葉が全身を痛め付ける様な感覚に陥ったが、僕は何も言わず黙っていることしかできなかった。
「先生は……先生は楓を見殺しにしたんですよ!! 先生が殺したんですよ!!!」
その一言が僕の胸に深く突き刺さった。僕は三島楓を助けることができなかった、それは拭い去ることの出来ない事実である。
しかし、死体の様子からして恐らく依頼前に殺されたと考えるのが妥当だろう。言い訳染みてるかもしれないが、僕達にはどうすることも出来無かったのだ。そうなると僕達がこれまでやってきた調査は全て無駄だった、という事になる。全く皮肉としか言い様が無く、自分はただの間抜けであった。今は唇を噛んで悔しがることしかできない。
「……す、すいません!! 私先生に失礼なこと言ってしまって……本当に申し訳ありません!!」
激昂した感情が治まると、彼女は掌を返したかの様に謝り始めた。
僕は気に止めなかった。彼女も気が動転しており、心に積もった不満を爆発させてしまうのは仕方がない事だ。今までまだ無事でいると信じて来たものが、脆くも崩れてしまったのだから。
それより、僕は彼女が僕に謝ってくる事に心を痛めた。何故僕は彼女に謝らせているのだろう、彼女が謝る道理は無いし僕は謝らせる資格等持っていない。
「もういいです、大丈夫です」
「で、でも」
「これ以上謝られても、私が困ります。私の事は気にしないで下さい」
どうにか彼女を落ち着かせながら、僕は本題に入った。
「貴女から見れば冷たく見えるかもしれませんが、私も仕事上これからの依頼について話し合わなければなりません。すいませんが、もう少し御付き合いしてもらってよろしいでしょうか?」
僕が語り掛けると、彼女は何も答えず静かに頷いた。
「今回の人探しの依頼ですが、対象者がその……御亡くなりになられたので依頼は中断という形になります。よろしいですか」
「…はい」
彼女は震えた声で小さく頷いた。まぁ、此処でいいえと言われても無理な話であるが。
「あの……中断になった場合の料金はどうなるのでしょうか? 私に払えるかどうか…」
「その件については御心配無く。解決もしていない依頼の料金なんて取りませんよ。それに、今回は不測の事態が起こったので仕方ありませんし」
そう言うと、彼女の顔に表れていた不安が少しだけ薄らいだ様に見えた。
「他に話しておかなければならない事も有りますので」
「す、すいません」
突然僕の話を遮り、翔子は叫ぶ様な声を上げた。
「やっぱり、今日は帰らせてもらいます」
「え!? それはまたどうして?」
突然の事に驚いたが、すぐに聞き返した。しかし、見ると翔子の目には涙が溢れ出ていた。
「やっぱり……もうちょっと気持ちが落ち着いてからにして下さい。今はちょっと……すいません!!」
目元を押さえ決壊しかけている感情を必死に堪えながら、彼女は玄関へと走り勢い良くドアを開け飛び出して行った。
一人事務室に残された僕は、たいした労力も使っていないのに疲れ果ててしまっていた。今の僕の心は、外の青く澄み渡った空模様とは相反する程、曇り淀んでしまっていた。
やはり、先程「人殺し」と言われた事が自分でも相当堪えたようだ。今はただ、部屋の空虚を遠い目で見つめているしかなかった。
何と言うかやる気が全く起きそうもない。仕方がないので僕は重い腰を上げ、玄関へと向かう。そしてドアに掛かった「営業中」の札を裏返し、「休業中」にした。
今は他の仕事に手を付けられそうにない、どうせ依頼など来る筈ないだろう。ドアを閉め振り返り、自分のデスクの椅子へ腰を下ろした。相変わらず僕の心は晴れておらず、濁ったままであった。
暫く何もせずにいると、何の前触れも無く寝室のドアが開いた。見ると、寝癖を振り乱し昨日より一段不機嫌そうな面構えの鏡水が姿を表した。
「起きてたんですか…」
「名探偵の受難、か……この仕事も随分と辛い様だな」
全く話が噛み合っていない。それに、仕事の心配をされるなど大きなお世話である。
「盗み聞きなんて趣味が悪いですよ」
「あんだけ騒がしくされたら、嫌でも耳に入って来るぞ。それに、俺が起きたのはあんたらの声せいでもあるんだぜ」
「それはすいませんね……悠司君の具合はどうですか?」
彼の事が気になりふと聞いてみる。すると、鏡水は顔に含み笑いを浮かべた。
「な、どうしたんですか」
「いやなぁ、あんたも涼しい顔してるが助手の事心配してんだな、と思ってよぉ」
「わ、悪いですか? 心配したら」
「別に悪いとは言っちゃいねぇよ。それに、あのポンコツビビりは心配しなくてもぐーすか眠ってるよ」
それを聞いて少し安心した。やはり彼がいないと僕も心細くなってしまうようだ。
「まったく、昨日はとんでもない目に合ったな。しかし、何はともあれ捕まらずに済んだのは不幸中の幸いだったな」
「物的証拠も状況証拠も無いから捕まることは無いでしょうね」
「いや、あのヒステリックそうな刑事だったら問答無用で刑務所にぶち込みそうだぜ」
それは恐らく柊警部補の事を言っているのだろう。しかし、ああ見えて彼女は優しい面も有るのだ。昨日は鏡水が要らぬ言葉を掛けたのが原因だった筈である。
鏡水は来客用ソファの僕からも見える位置に座り、懐から煙草と着火マンを取り出し一服し始めた。
「そういや依頼料については話したのか? 探し人が死んだとなると、また複雑だからなぁ」
「いや、その件ですけど……」
「あ? どうしたんだ?」
「実は……依頼料取らない事にしてたんです」
「はぁ!!? 何だそりゃ!?」
鏡水は眉間に皺を寄せ、苦い表情をした。予想通りの反応である。
「やっぱり、高校生からお金を取るのはどうにも気が引けてしまって…」
「はぁ………甘い、大甘だよあんた。汁粉にきな粉と黒蜜と水飴入れた位甘い。そんな事してたら、いつまでたっても赤字経営だぜ」
その微妙な表現はともかく、彼の反応はもっともである。しかしこれは僕の問題、部外者の彼が口出しするのはお門違いである。
より不機嫌になった鏡水を横目に物思いに耽っている、その時であった。
「あ!」
「あ? どうしたんだ、いきなりよぉ」
突然僕が声を上げたことに鏡水は怒り気味に聞き返してきたが、僕には彼に構っている暇はなかった。
ふと頭にとある疑問が湧いた。それはまるで閃光が走ったかの様な突然の事であった。
「…そういえば、何故あの時吉川翔子は依頼料について話さなかったんでしょうか」
「あの時、というとその女がこの事務所に訪ねて来た時の事か?」
「えぇ、そうです」
改めて考えてみると、確かに不思議である。この場所に来たという事は依頼を頼みに来たという事、そうなると必然的に金が必要なのは明らかな筈である。話題に出なかったのも原因ではあるが、依頼料について僕と彼女双方共に話さなかったのはおかしい。
しかし彼女は、中断料については話してきた。何故なのか、僕は考える時間も要せず程すぐに答えが浮かび上がった。
(それは、まさか…)
「あの女は端から依頼に対しては一銭も出す気はなかった。いや、そもそも払う必要が無いと初めから知っていたか」
まるで僕の言葉を継ぐかの様に鏡水は言った。その意見は僕の考えていたそれと寸分も違っていなかったからだ。
「成る程なぁ……発想としては面白いが、あの女を犯人に仕立上げるにはあまりに粗末だな。それに、証拠が無い以上一生夢物語だな」
そう言われ、僕の頭の中で閃いた光は瞬く間に小さくなりやがて消えて逝った。鏡水の言う通り、確かにこれはあくまで推測であり僕の思い付きに過ぎない。
「まぁ何事においても疑ってみないことには、事件の真相に近付けやしない、てのも事実だがなぁ」
「そうですよね………って、なんで僕の言いたい事が分かったんですか」
普通に聞き流しかけたが、よくよく考えれば何故彼が僕の話す内容を聞かぬ内に知ったのか不思議だった。
「何となく、あんたがそう言いたそうな雰囲気を出していた、というより言ってくれと言わんばかりだったからな。別にそんなに驚く程の事じゃねぇだろうよ」
やはりこの男には掴み所が無い、まさに霧か靄の様である。こちらの事は見抜くが自分の事は一切表に出さない、不気味な奴だ。
「ま、まぁとりあえず悠司君が重態でなくて安心しました。しかし、こちらも貴方を雇った身ですがやはり解約してくれませんか」
昨日は失望感からつい彼の同行に喜んだが、今日冷静になって彼にはこれ以上やってもらう事は無くなっていた。
「確か俺の仕事は呪いをどうにかするんだったなぁ………だったら解決するまで手を引く訳にはいかないなぁ」
「え? いや、ですからその件については……」
もはや呪いがどうこうと言っている場合では無いし、人死にが出た以上は僕達には手出しが出来るものでは無い。
「俺は言われた仕事をするだけだ。それに、半分は俺の興味本位だしな」
そう言うと鏡水は煙草の火を消し、立ち上がると玄関の方へと向かった。
「どちらへ?」
「とりあえず帰るわ。何かあったら此処に電話でもしてくれ」
振り向き様に渡されたのは、神社で使われる様な御札だった。見ると表には黄泉比良坂、裏には名前と電話番号が書かれていた。
「……何ですか、これ?」
「御利益が有るかもしれんからな、記念に取っとけ」
「……確か鏡水さん、無神論者でしたよね」
「まぁ鰯の頭も信心から、て言うしな。また会えるのを楽しみにしてるぜ」
そう言い残し彼は静かに去って行った。その後ろ姿を見て、僕は少し物悲しい感情に浸った。やはり人が去って行くのを見届けるのは、威容に切なくなってしまうのだろう。
今日二度目の去り逝く姿を見届け、僕は改めて後悔した。憂鬱を晴らす目的も兼ねた依頼の筈であったのに、今では殺人事件に巻き込まれ挙句の果てには依頼主にまで逃げられる始末で、此処まで来ると本当に泣けてくる。
「……無情……だな」
他に誰もいない部屋の真ん中で、ふと放った独り言は誰の耳にも触れる事無くそのまま消え去っていった。 この数時間でかなり事象が進んでいった。自分の頭が追い付かない程に、時間が過ぎて言ってしまった。そして、何も変わらぬ日常へと戻っただけだ。
ただ一つ変わった事は、僕の吉川翔子へ疑惑の念が生まれた事だ。これまで悲劇の対象者であった彼女が、事件に何かしらの形で関係している可能性がある。
(と言っても、僕の単なる推測しかないが…)
椅子に座ったまま体を仰向けにすると、見慣れた色の天井が見える。そのままさらに反り返ると、窓の外は快晴真っ只中といった感じである。時計を見るとすでに正午を過ぎたあたりだった。
このまま時間だけが過ぎてほしい、これ以上の厄介事は御免である。周りの世界から逸脱した様なこの部屋で、僕は一人俯いた。
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それから二日後、此処数日の出来事が嘘の様にこれまでと何ら変わらない生活に戻った。
しかし、相変わらず悠司は寝込んだままで、一向に元気にならない。前は欝陶しい位に元気と調子があったが、今はその様子は全く見受けられない。
「早く元気になってくれよ……」
ベッドの上で横になっている悠司の枕元で、僕は悠司に声を掛け続けた。
「何か食べたい物はあるかい?」
「………」
「何処か具合が悪いなら言ってくれないか?」
「………」
一向に返事は返って来ない。眼を開けているので寝ている訳ではないようだが、その眼には活気ある光は映っておらず、ただ黒くまるで穴が空いた様で、明らかに悪化していた。彼にとってはそれ程のショックだったのだろう。
「……俺の事はいいんで……先生は仕事に励んで……下さい」
力無くそう答えると、悠司は再び眼を閉じた。こんな状態になっても僕の事を気にかける悠司に、僕は胸が熱くなった。僕は悠司に一瞥すると部屋を後にした。
あれから吉川翔子や鏡水から連絡は来ていない。自分からも電話していないので、当然といえば当然だろう。
それより僕は吉川翔子が気になっていた。彼女は一体何を知っているのか、彼女は一体何者なのか、その疑問が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
そういえば神宮院長も気になる。迷惑をかけないと言った手前ではあったが殺人事件が起こってしまった以上どうしようもない。恐らく現場検証のせいで病院の取り壊しは延期か中止になってしまっただろう。
頭を働かせれば、溢れ出て来るのは不安だけであった。悩みの種は増えるばかりで、全く好転していない。僕一人の頭ではどうしようも無い程事態は悪化している。
頭を抱えて意気消沈していると、突然静寂を掻き乱す様に電話が鳴り響いた。
(……一体誰だよ、こんな時に)
ひょっとすると吉川翔子か鏡水からの電話かと思い、急いで受話器に手を掛けた。
「はい、こちら月読探偵社です」
『何だ望月か、御無沙汰だな』
「ひ、柊警部補!?」
『いい加減その警部補っての止めてくれないか、君はもう私の部下ではないのだからな』
「いや、警察時代の名残というか………それより、今日はまた何故電話してきたんです?」
突然の柊警部補からの電話に戸惑いながらも、用件を聞き出そうとする。
『すまないが、至急警察署に来てくれないか』
「え? それは何故…」
『悪いが質問に答えている暇は無い。とにかく早く来い、いいな?』
そう言い終えると聞き返す間も無く電話は切れてしまった。後には規則正しい電子音が聞こえるばかりである。
受話器を下ろすと僕の頭で蠢いていた渦は悲惨さを増した。もはや僕はこの異様な事態に取り残されていた。僕は全てを投げ出したい衝動に駆り立てられた。
相変わらず、空には日が照り付けていた。あの日がどうしようもない僕を嘲っている、僕にはそう感じられた。
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