序1
この世は人で成り立っている。街を歩く人、勉学に勤しむ人、仕事に励む人、自分が何かをわからない人、消えていく人、そんなものばかりで成り立っている。彼らは基本的に白い、真っさらなのだ。そんな世界は、まるで一面白張りの病院のようである。病める者達が行き交い、「生」について考えさせられる薄汚れた白い世界。
しかし、もしそこに黒が混ざったらどうなるだろう。黒は瞬く間に全てを飲み込み、侵していく。混ざり合う全てのものを染め上げていく。人は基本的に黒を嫌うが、誰一人抗う術を知らない。絶望、憎悪、狂気が渦巻き始める。
人はそれをこう呼ぶ、
「死」と………
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夏の暑い日、いつもの事務所で自分専用のデスクでコーヒーを飲みながら書類に目を通している。普段と一片も変わらぬ環境で仕事をしていると何か刺激が欲しくなるが、もうそんなことには慣れているので黙々と仕事を続ける。これが日課なので、愚痴ることもしない。
机の上は自分なりに綺麗に整頓したつもりであるが、手を休めコーヒーを飲む際にふと気になって周りをチェックしてしまう。
しかしやることが無い。この上なく暇である。
僕の名前は「望月幸斗」、この「月読探偵社」で探偵として働いている。探偵といってもそんなに格好いいものではなく、人探しや浮気調査で生計を建てている。しかし最近では依頼はめっきり減り、この様に退屈なばかりといった有様である。
以前は刑事をしていたが、集団組織での行動、現場や仕事場の環境に馴染めず二年前に辞めてしまった。正直僕は刑事という職が合わなかったのだと思う。顔はどちらかというと童顔で背丈も160cm弱しかなく、明らかに不適合だったと僕自身も思っている。
刑事を辞めた後この探偵事務所を設立し、今では警察時代の忙しさとは打って変わって仕事にありつけない日々を送っている。
一通り書類に目を通し、一段落したので休憩しようとしたその時だった。
「ただいまー、先生生きてますかー?」
突然のことに、思わず驚き玄関の方を見た。この男は相変わらずこの調子だ。
「帰って早々不謹慎なこと言わないでくれよ」
「だって先生いつも仕事してないから、暇過ぎて死んでるかもしれないでしょ?」
「相も変わらず失礼過ぎる発言だな。それに僕もこうやってちゃんと仕事をしてるじゃないか」
そう言うと、彼は少し笑いながら言い返してきた。
「でもそれって、やること無くて仕方がなくやってるんじゃないんですか?」
その一言で、完全に僕は反論できなくなった。彼の言う通り今やっているのは書類の整頓、正直今しなくてもいいかもしれないがこれ以外の業務が無く、本当に仕方なくやっていた。
本当のことを言われ、現状に悲壮感を覚えうなだれてしまう。
(助手にこんなこと言われるなんて、僕の探偵人生も終わりだな)
俯いていると、助手が心配そうに僕の様子を伺っていた。
「……あのー先生、大丈夫ですか? 俺ちょっと言い過ぎましたかね?」
どうやら本人にも、それなりの罪悪感があったらしい。逆に心配をかけてはならないと思い、いつもの表情で答えた。
「いや、別に気にしてない。君がそういうこと言うのはいつものことだから」
「それもそうですね! じゃあ俺買い物の片付けするんで、先生は適当にくつろいで下さい」
軽くあしらわれ、余計にへこんでしまう。この男はいつも通りのお調子者だ。
この男の名前は「月波悠司」、この探偵事務所の雑用兼本人いわく助手を勤めてもらっている。性格は楽観的でいつもマイペースなのが特徴である。身長は自分よりも10cm程高く、彼と並ぶと自分の背の低さが余計に目立ち惨めに思えてくる。まるで子供の様な男だが、この事務所の仕事の依頼以外の業務を行ってくれる真面目な一面も兼ね備える青年である。 僕が刑事を辞めこの事務所を立ち上げたときに、この探偵事務所で働かせて下さい、と言ってやって来たのだ。
最初は怪しく思ったが、理由を聞くとどうやら、探偵に興味があるからということらしい。ますます怪しく感じたが、人手が足りなかったので仕方なく雇ったのであった。しかし今では、彼がいなければこの事務所の炊事、洗濯、掃除もままならない状態であり、住み込みで愚痴一つこぼさず働いてくれている。
「それにしても最近先生元気がないですね。何かあったんですか?」
そう聞かれても、思い当たる節が無い。強いて言うなら、さっきの君の発言ぐらいだ、と言いかけて止めた。理由がわからないが最近どうも憂鬱である。そんなことを考えながら、気分を紛らわせようとテレビのスイッチを手に取り電源を入れた。しかし面白いものはやっておらず、仕方なくニュース番組に変えた。
「…続いてのニュースです。最近世間を騒がせている連続殺人事件、その新たな被害者が発見されました。被害者は「後藤行雄」二十二歳、自宅マンションのゴミ捨て場で変死体で発見されました。最初の事件が起こっから一ヶ月、今なお捜査は進展せず…」
暗いニュースにうんざりして電源を消してしまう。もっと世界は平和にならないのだろうか、そんなつまらないことを考える。
「また物騒な事件ですか? 先生も巻き込まれないようにして下さいよ」
また軽口を叩く。一回怒った方がいいかもしれないが、どうせ効かないと思い諦めた。
「まぁいいじゃないですか。どうせ今日も仕事は無いみたいですし、ゆっくりしましょうよ」
彼の言う通り今日も特に仕事が無いので、昼食まで一眠りしようと席を立ったしたその時だった。
「すみません」
扉に付いた鈴の音とともに、澄んだ女性の声が聞こえた。玄関口を見ると学生服を着た若い女性が立っていた。女性は辺りを見回し少し戸惑いながら尋ねてきた。
「あのー、月読探偵社ってここですよね?」
「はい、そうですけど……何か依頼ですか?」
「え? あ、はい、そうなんですけど…」
「やりましたね先生! 久々に仕事の依頼ですよ! 依頼主の方、どうぞこちらにお掛けになって下さい。すぐにお茶用意するんで、少し待っていて下さい」
言うが早いか、彼はすぐに給湯室に向かった。全く、久しぶりの客だからってはしゃぎ過ぎだ。その光景を見て女性は少し戸惑っていた。
「あ、あの……」
「ああ、彼は気にせずどうぞ座って下さい」
そう言うと彼女は来客用ソファに腰を下ろした。僕も向かいのソファに座り、ようやく本題に入った。
「それで、今日はどういったご用件でいらしたのですか?」
「はい、実は……」
気まずい沈黙で部屋が静まり返り、彼女は重い口を開けた。
「…呪いって信じてますか?」
「呪い……ですか」
僕は耳を疑った。彼女の言うことを完全に理解することができずにいた。とにかく事情だけでも聞こうと、彼女に話を続けてもらった。
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彼女はこの近辺の高校に通う「吉川翔子」という学生だった。依頼とはどうやら巷で流行っている都市伝説が関係しているらしい。
「その都市伝説というのが、とある廃病院の霊安室の壁に呪いたい相手の住所と名前を書いたはがきを釘で打ち付ければ呪った人間を呪い殺せる、ていうものなんですけど」
成る程、何処にでも有りそうなテンプレートなものだった。
「それで、まさか貴方も人を呪ってしまったんですか?」
「いえ、私ではなく私の知り合いが呪ったんです。高校の同級生で「三島楓」という娘で、その娘どうしても呪い殺したい人がいて、それで呪ったって言ったんです」
「その殺したい相手というのが誰か、貴方は知っていますか?」
「いえ、私は顔も名前も知らないですが、楓の彼氏だと聞いてます。その彼氏が別の女性を好きになって、楓と別れたんです。そしたら楓、私を捨てた復讐だって……」
「成る程、裏切りが招いた女の復讐劇、ってことですね。なんだか昼ドラ見ている感覚です」
そう言って茶を持って来た悠司だが、依頼主の前でとんでもないことを言ったものだ。
「悠司君、もっと言葉を選んで喋ってくれ」
「以後気を付けます」
そう言いながら彼はテーブルに茶を置いた後、僕の横に腰を下ろした。
「それでその彼氏は本当に死んじゃったんですか?」
なんと直球な質問だろう。彼はもっと相手を思った発言ができないのだろうか。しかし、その問いに彼女は何も答えなかった。
「まさか…本当に?」
彼女は静かに頷いた。
そういえば、彼女の話に聴き入っていたせいで大事なことを聞き忘れていた。
「ところで、我々に依頼したいこととは?」
「彼氏を呪った楓を助けてほしいんです」
「え? それは一体どういう…」
「それが、一度彼氏を呪おうとして病院の霊安室に行ったんです。でも、やっぱり怖くなって帰ろうとしたんです」
確かにいざ人を呪おうとしても、背徳心と恐怖心を拭い去るのは無理だろう。
「でも楓あるもの見つけちゃって、それで呪うこと決心したんです」
「あるもの?」
「三島楓と書かれたはがきです。しかもその娘、はがきの字が彼氏のだって言うんです」
「じゃあ元彼氏の男も、彼女を呪おうとしていたってことですか?」
今まで僕の横で黙って聞いていた悠司が、いきなり質問してきた。
「はい、楓もそう思って彼氏を呪う決心が付いたらしくて」
互いが互いを呪い合う、最早そこには付き合っていた頃の面影はなかったのだろう。
「でも、二人共呪った訳ですよね。だったら何故、彼氏だけ死んだんです?」
また話に割り込んできたが、僕もそこは疑問に思っていた。
「それは私にもわかりません。ただ呪い殺される人はランダムに選ばれてるみたいです」
「成る程、呪っても必ず殺せる訳では無いんですね」
「はい。でも楓は、彼氏が死んだから次は自分の番じゃないかって怯え始めたんです。それから学校に来なくなって、家に電話したらもう十日も帰って来てないって…」
「失踪したってことですか?」
彼女はそれ以上語らなかった。もしそれが本当なら、これはとんでもない事件である。
彼女の話を聞き終え、僕は頭を抱えた。これ程までに非現実的な依頼は請けたことが無い。考え込んでいると、横で座っていた悠司が小さな声で話し掛けてきた。
「先生どうします、この依頼。此処まで根掘り葉掘り聞いちゃったら、引き受けないといけない気がするんですけど」
どうするかと聞かれても、僕はすぐには決断できなかった。そもそも呪いなど僕にはどうすることもできないし、呪いで無いとしても殺人事件、失踪事件を探偵一人の力ではどうすることもできない。
悩んでいると、黙っていた彼女がいきなり話し始めた。
「お願いします、二人共呪われているのを知りつつ何もできなかった自分が悔しいんです。あの時止めていれば二人共死なずに済んだんです。だから、せめて彼女だけでも救ってほしいんです。お願いします」
彼女はそう言って頭を下げた。確かに此処まで聞いたのだから、今更引き下がる訳にもいかない。
「分かりました、この依頼引き受けましょう」
「ち、ちょっと先生。本当に引き受けるんですか、この依頼」
「依頼を請けないといけないと言ったのは君だろう? それに、別段断る理由もないんだから」
「それはまあ、そうですけど」
「ありがとうございます。何としても楓を見つけて下さい、お願いします」
そう言って何度も頭を下げてくるので、何か申し訳ない気分がした。
「とりあえず調査には時間がかかるので、今日のところはお帰りになって結構です。それともし何かあった時、すぐに連絡が取れるよう携帯の番号も渡しておきますね」
僕は机に置いてあるメモに自分の携帯の番号を書いて彼女に渡した。
「はい、それではまた」
メモを持って彼女は嬉しそうに事務所を出た。後には、一度も手を付けていないお茶だけが残った。
「結局、お茶飲んでくれませんでしたね」
「まあ仕方ないさ。僕は久しぶりの仕事に励むから、君は昼食の準備でもしておいてくれないかな?」
「分かりました。でも、本当によかったんですか? いつもの人探しと違って殺人事件が絡んでいるみたいですし、それに呪いって怪し過ぎますよ」
「何度も言わせないでくれ。僕らには断る理由が無い。呪いなんて信じる必要無いし、殺人事件だって失踪した女性が関係していると決まった訳じゃない」
そう言いながら机の上の書類を片付けた。
「それに依頼料も取らないことにした」
「え−! 先生何もそこまでしなくても」
「高校生から料金せしめるのも気が引けないとは思わないか?」
「でもお金貰わないと、俺らにも生活があるんですから」
「今だって仕事無くても生活してるじゃないか」
今の生活は警察時代の貯金で成り立っている。自分で言うのも何だが、まるで隠居生活を送っているみたいだ。
「……まあ先生がそう言うなら俺は止めませんけど」
不満そうに茶を片付け、悠二は給湯室に行ってしまった。
本当のところ、僕だってこの依頼を引き受けたくなかった。しかし、呪いなんて非科学的な理由で断るなど馬鹿げている。それに、不謹慎ではあるが僕はこの依頼に興味があった。いつもの退屈な日常から抜け出せるきっかけになると思っていた。
しかし心の奥底で僕は不気味な予感を拭い切れずにいた、厄介なことに巻き込まれる、そんな気がした。
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