笠原みどりの章_1-5
チャイムが鳴った。
放課後になったのだ。
教師が既に帰りのホームルームを終わらせて職員室に去り、チャイムが鳴ったら帰って良いと言い残していた。
「ふぁ……あ」
俺が大きく欠伸をすると、
「あ、あの、戸部くん」
笠原みどりが話しかけてきた。
俺は脊髄反射的にビクっと体を震わせた。
「なんだ、笠原か」
「その言い方、ひどいな。まるでガッカリ、みたいな……」
「いや、まぁ、いきなり耳元で大声を出されてみろ。他人の接近を警戒するようになるぞ」
「ああ、まつりちゃんだね。あたしもされたことあるから、わかるな」
「なんと。女の子にまでそんなことを。最低の女だな」
「でも、それが、まつりちゃんだからね」
「それで、何か用か?」
俺が言うと、
「とりあえず、これ」
言いながら、みどりは箒を差し出してきた。
「何だ、これは」
「ほうき」
「そりゃ見ればわかる」
「あっ、そっか。何のつもりかって聞いてるんだね。箒は掃除をする道具です」
「俺、掃除当番なの?」
「はい。窓際後方班が掃除です。一人欠員が出たので美化委員のあたしが補充要員として……」
「なるほど」
「そ、それと、帰りに用があるから」
「帰りに用。それは、一緒に帰りましょうってことで良いのか?」
「うん」
「女子と下校だと……」
何だそのトキメキシチュエーションは。
「とりあえず、掃除しよ」
「はい」
掃除終わり。
「さて、帰るか。笠原!」
「は、はい。帰りましょう」
帰り道。一緒に下駄箱で靴を履き替えて、一緒に門を出た。
ああ、もうね、その事実だけでドキドキするぜ。
「…………」
俺と笠原みどりは、向かい風の風車並木の坂道を下る。
相変わらず強い風が吹いている。
周囲には見晴らしの良い草原。
前を向けば、湖と、地の裂け目と、その向こうの海が見えていた。
「…………」
笠原は、何か言いたげな素振りを見せながらも黙っていて、俺の視線を感じると目を逸らしたりしていた。
「あの、俺に何か用あるの?」
「はい」頷いた。
「え、何?」
すると笠原は俺の足元を指差しながら、
「それです」
何が何だか。
「え、何?」
そして、視線を宙に漂わせた笠原は少しの沈黙の後、
「……………………靴です」
「ずいぶん溜めたな、オイ」
「ごめんなさい。面白いこと言おうと思ったんですけど、思いつかなくて」
なるほど。黙ってる時はいつも必死に面白いことを考えているのかもしれんな。そうでない場合もあるんだろうが。
さて、靴が何だろうかと思い、歩きながら足元を見てみた。
何の変哲もないスニーカーだ。問題ないじゃないか。
その後、顔を上げていく中で、掠れて読めない道路標示が見えた。さらに顔を上げていくと、曲がって錆びた一時停止の標識。ボロボロのガードレール。次々に視界に入って、最後に俺は空を見た。見上げた電線の無い空の雲は、強い風に流されていた。何か、不思議な風景だ。
「で、靴がどうしたって」
すると笠原は、
「くっついた」
えっと……どう言えば良いのだろか。
「……そうっすか」
「わすれてくださいっ」
顔を逸らしていた。恥ずかしいのだろう。その気持ちはよくわかる。今、この娘は穴があったら入りたいはずだ。
「で、忘れるから、靴が何なのか教えてくれ」
「は、はい。戸部さんが履いてるのはスニーカーですよね」
「これが下駄や足袋に見えるか?」
「…………」
黙らないでくれ。
「ごめん。ごめんな。考え込まないでくれ、笠原。スニーカー。これはスニーカーだ」
「あ、すみません。何も思い浮かびませんでした」
「あのなぁ、別に、そんなに面白いことを考えようとしなくてもいいんだぞ」
「でも、好きなんですよね。面白いこと」
「そりゃまぁ、つまらないよりは……」
「少しでも、喜んで欲しくて……」
可愛いことを言われた。なんかムズムズとくすぐったい感じに嬉しい。
「で、スニーカーだと何か問題が?」
「問題アリです」
「どんな?」
「革靴以外禁止です」
「まじっすか……」
「まじです」
何だ、その校則は。堅苦しい限りだ。
「つまり、革靴を渡すために、一緒に帰ろうということか?」
「はい」
「なるほど」
ちょっとガッカリ。あまりときめく展開ではなかった。
そして俺たちは、商店街に差し掛かったのだが、そこで、色んな人から話しかけられた。
まずは、女の人。
「あら、みどりちゃん。おかえり」
「あ、こんにちは、穂高さん」
で、次はおっさん。
「おう、みどりちゃん。彼氏かい?」
「そ、そんなんじゃないです!」
おっさんの次はじいさん。
「むむむ、みどりちゃん。何じゃ、その男の子は。ウチの子よりも先に彼氏見つけちゃ困るんじゃが~」
「あ、上井草さん……そんな」
「まぁ、ウチの子に彼氏なんてできっこないんじゃがね」
「そんなこと……」
「いやいや、もうね、笠原さんトコと娘交換したいくらいじゃよ」
「そんなことできないです……」
「あっはは、そうじゃね!」
「それじゃあ……」
「ああ、またね」
まるで商店街のアイドルだ。
で、挨拶ラッシュが一息ついたところで俺は訊いた。
「笠原は、何者?」
「何者って、何ですかその質問……」
「いや、ちょっとな。色んな人に声掛けられててさ」
「ああ、あたし、商店街にあるお店の娘だから」
「え?」
「笠原商店。それが、あたしの店です」
「そう、なのか」
すると笠原みどりは、少し寂しそうに俯きながら小さな声で、
「うん。そうだよね。街の外から来た人には、わからないよね……ごめん」
「ああ。ていうか謝るな。余程のことが無い限り笠原に負の感情は抱かないから」
「すみません……」
謝罪が口癖なのだろうか。
で、しばらく無言でいると、次第に坂が緩やかになっていき、ほとんど平地に感じるようになった。商店街の端の方。そこにあるお店。
『笠原商店』
少し褪せた看板がチャーミングな店構えである。
透明な引き戸の向こうには、人の影はなく、多くの商品が並んだ棚が見えた。まあ、よろず屋みたいなものだろうか。
「ここ、あたしの家」
「おう」
そして笠原は、ガラガラと引き戸を開けて、「入って」と言った。
「ああ」
言われるままに入ると、ピシャリと引き戸の閉じられる音がした。
視界には、文房具とか、お菓子とか、生活消耗品とか、飲み物等、幅広いジャンルの商品が並べられていた。CDやゲーム機とかまである。
「いらっしゃいませ。戸部くん」
振り返ると、視界にはスマイル。可愛い。
「あ……えっと、靴は?」
「ちょっと待ってね」
「ていうか、もしや笠原……」
「うん? 何?」
「看板娘というやつか!」
「えっと……そういうことになるかな……」
「わかりやすい属性が付いていると助かる」
「はい?」
「ああ、いや。こっちの話だ。気にするな」
「よくわかんないけど、ちょっと待っててね。今とってくるから」
「おう」
で、笠原みどりは店の奥でガサゴソして、すぐに戻って来た。
「はい、これ」
手渡してきた。
「サイズ大丈夫? 履いて確認してみて」
俺は、言われた通りに確認する。スニーカーを脱いで、革靴に履き替えた。ピッタシだった。
「大丈夫そうね」
「何から何まで、ありがとな」
「どういたしまして。でも、上履きも革靴も、お金は受け取ってるし、仕事だから」
「そうか、しっかりしてるんだな」
「まぁね。それなりに」
スマイルが可愛い。
「可愛いな」
ついつい、俺は呟いた。
「え? 何て?」
「ああ、いや、何でもない。独り言だ」
「そう。あ、他に、何か買って行きますか?」
うーむ、そうだな。仕事だったとはいえ、朝の昇降口で俺を待ってくれていたり、こうして帰り道に革靴を渡してくれたりしたんだ。みどりに、飲み物の一つでも買ってやるべきだ。うん。
そうだ。そうしよう。そうしようではないか。
さぁて、どれが良いだろうか。
炭酸飲料とか、無難にお茶とか、プロテイン入り飲料とか、ビンに入った怪しげな赤い液体とか、色々あるが、うむ、これがいいな。緑色だし。
「これください」
俺は言って、無難にお茶を選択した。
「シブいね」
「お茶は嫌いか?」
「ううん。あたしも大好き」
「そうか。ならよかった」
「?」
「で、いくらだ」
「150円」
「オーケー」
俺は言って、財布から小銭を取り出し、笠原の手に置いた。
「はい、150円。ちょうどお預かりします」
「で、これを……」
俺は手に取ったお茶を差し出した。
笠原みどりは「?」と首を傾げている。
「これを笠原にやる。受け取ってくれ」
「え? でも……」
「お礼だよ。お礼」
「え、そんな……」
「好きっつったろ、お茶。ほら、受け取れぃ」
「…………うん」
こくりと頷く。
「飲んでくれ、今。是非」
「あ、はい」
そして、キャップを開けて、飲みかけた、まさにその時――
みどりの背後に中年の男が!
「くぉら、みどり! 商品勝手に飲んでんじゃねえ!」
「――べふぅぅ!」
ふきだしていた。
そして、それが俺に直撃していた。濡れる俺。
笠原の父らしき人は、
「うぉ。お前っ、お客様にお茶吹きかけ……何てことを! すみません、お客さん……」
ペコペコ頭を下げながらそう言った。
笠原は慌てながら、
「あ、あの……ちがっ――」
「何が違うかっ! このアホ娘が!」
俺もみどりに助太刀する。
「あの、違うんです……笠原は……」
俺は言い掛けたが、それを遮った聞く耳持たない笠原父は、
「すみません。この通り。娘が無礼を」
みどりの頭を掴み、無理矢理頭を下げさせる。
俺は言う。
「無礼……いやいや、プレイです」
戯れ的な意味で。
「は?」
「いえ、何でも。別に大丈夫です。制服が濡れたくらいですんで」
「こちらクリーニング代ですっ」
笠原父は、何かを差し出して来た。
「いえ、そんな、受け取れないです」
「どうかっ」
無理矢理二枚のお札を握らされる。
二千円を手に入れた。
「あ、あの――」
「それで何とか……」
「はぁ、まぁ、良いですけど」
「よかった。二軒上りがクリーニング屋なので、そちらで……」
「あぁハイ……」
「さぁさぁ」
笠原父は言いながら、俺の背中を押し、引き戸を開けて外に出した。
「二軒上ると、クリーニング屋です」
もう一度言って、学校方面を指差した笠原父。もう太陽は崖の向こうに沈んでしまっていて、薄暗い世界だった。
「はぁ、どうも」
「それでは……」
ピシャンと閉じられた引き戸の向こうから声が漏れてくる。
「みどりぃ!」
「違うの。違うの。お父ちゃん」
「何が違うかぁあああ!」
「あの、戸部くんは、クラスメイトで」
「それがどうしたっ! お客はお客だろうが!」
「そ、そうだけど!」
「この出来損ないの娘がぁ!」
「やぁ! お父ちゃん! いやぁ、やぁあああああぁぁぁ……っ!」
透明な引き戸から、手足をじたばたさせる笠原みどり小脇に抱えながら店の奥へと消える父親が見えた。
帰ろう……。
見てはいけないものを見てしまった気がした。色々と。
結局、クリーニング屋には行かずに寮に帰って、そこの洗濯機と乾燥機を利用して制服を洗った。
乾燥機からシャツを取り出して確認する。
「よし、平気だ」
シミは残らなかった。
「大丈夫かな、笠原……」
あの様子だと、大丈夫だとは思えんが……。