飛古野みことの章_6
このお店に来たのは、笠原みどりから「紅野明日香が何ものなのか」という情報を引き出すためだった。しかし今、当初の目的を果たせぬまま、私は店番なんかをしている。
まつりさんのモイストによって、みどりさんは危機管理意識を執拗に、徹底的に、滅茶苦茶に破壊され、部屋を飛び出してしまったからだ。誰もいなくなったら、商品とられ放題になるから、そこで私が勝手に臨時無給アルバイトとしてエプロンを装備したというわけである。
といっても、みどりさんがコーヒーをサービスしていたせいか、お客さんはなかなか来なかったけれども。
私が普通に淹れた普通のコーヒーを普通に飲んでみたところ、普通に美味しくできた。豆のせいでも、機械のせいでもないらしい。本当にもう、どんな淹れ方をしたら、あんなものが……。
いや、よそう。もうあの味は思い出したくも無い。
と、私が他の題材で考え事をしようと思った時、自動扉がウィアンと開いた。
二時間ぶりの来客である。
男性で、私と同じ高校三年生で、というか、私と同じクラスの戸部達矢くんだった。
ポケットに右手を突っ込んでいた行儀の悪い彼は、優雅にコーヒーを飲んでいる私に気付くと、「あれ?」と言って、小さく首をかしげた。
「いらっしゃいませ、達矢くん」
「飛古野さん? あれ、みどりは?」
「さっき、出て行ってしまって」
「ここで、バイトはじめたの?」
「いえ、今日だけですけど」
「そりゃそうだな。ここクソみたいなコーヒーのせいで客来ないから、バイト雇ってる余裕ないもんな」
冗談っぽく笑った後、一つ溜息を吐いて、言った。
「でも、そっか、みどりは居ないのか」
俯いてしまった。何だか寂しそうだ。
もしかして、達矢くんは、みどりさんのことが好きなのだろうか。そうかもしれない。きっとそうだ。だって、そうじゃなかったら、あんな身の毛もよだつようなクソコーヒーを飲まされるとわかっていて笠原商店NEXTに通ったりしないはずだ。
「あ、何か御用でしたら、伝言しますけども」
「うーん……いや、いいや。飛古野さんでもいいかな」
「……? 何か、お探しですか?」
きいてみたところ、達矢くんは、ポケットに入れていた右手をゴソゴソと動かしていた。何かの滞納料金の支払いのためにお財布でも取り出そうとしているのだろうか。あるいは、何か買い物リスト等のメモの類か。
「そうだな、強いて言えば……フレッシュな驚きってやつかな」
何のことだろう。もしかしたら、笠原みどりさんにだけ通じる言葉なのかもしれない。行きつけの喫茶店やバーとかで、常連さんが席に着くときに、「いつものをくれ」と言う感じのアレかもしれない。
「フレッシュ……驚き……珍しいお野菜とかですかね」
「ああ、いやいや、そういうことじゃなくてね」
じゃあ何だろうか。顎に手を当てて考えてみる。野菜じゃないなら、お肉か、お魚か……他に新鮮さがもてはやされるものといったら何があるだろう。若い娘とかだろうか。ハッ、もしかして、商品ではなく、店員であるみどりさんや私のことを指して、新鮮なのがいいと言っているのだろうか。
たしかに、何の根拠もないけれど、「店員さん、君をテイクアウトしたいゼ」とか言いそうな雰囲気を持っている気がする。転入したばかりの頃、私にも馴れ馴れしかったし。
仮に、私でもみどりさんでも良いと言うならば、若い娘なら誰でもいいとでも言うのだろうか。もしかしたらそれは健全な男の子なのかもしれないけれど、私にとって、あまり好ましいとは言えない。
私は私だけを真剣に愛してくれる人と一緒になりたい。そのためには、付き合う男性は慎重に見極めたい。人間として、それは当然の感情なんじゃないだろうか。違うだろうか。
「……ぉい、おーい飛古野みことさーん。おーい」
「えッ? あ、はい?」
しまった。長い考え事をしてしまって、お客さんを放置してしまうとは。これは店員――非正規というか無断でやってるだけだけど――としてあるまじき失態。
「あの、何か言いました?」
「いや、特には……。けど、何か考え込ませちゃったみたいで、申し訳ない」
「いえいえ、そんな。私が悪いんです。すみません、ぼけーっとしちゃって」
私がペコペコ謝っていると、達矢くんは困った様子で頬を掻いた。左の人差し指でぽりぽりと。右の手はまだポケットに入ったままだ。そして彼は、頬を掻いた指で、私の背後を指差した。「あ」と言った。
「え?」私は背後を見る。勢いよく身体を回転させて身構えた。
また上井草まつりが裏口から入ってきて、私にモイストなる技を仕掛けようとしているのかと警戒した。だけど、そんなことはなくて、間違い探しでもするように注視してみても、何にもおかしなところは無かった。
「何なの、達矢くん」
言いながら、彼の方に向き直った時である。
視界に、何やら黒光りする飛行物体が見えた。二本の触覚が伸びていて――って、ああダメだ。こいつは詳細に語ってはいけない害虫だった。
「ひっ……いやあああああ!」
私は叫びながら、頭を抱え、しゃがみこんだ。しかし、そいつは追ってきた。鮮やかな放物線を描いて飛んで来て。私の目の前に落ち着いた。
「ああああああああああ!」
ゴキ○リ。
私は、怯え、声を裏返して叫び、そいつから距離を取ろうとした。びっくりしすぎて、心臓が体の中を跳ね回っているようだった。
咄嗟に後ずさったところで、タバコが並べてある棚に背中をぶつけ、よろめき、近くに置いてあった紙コップを左手が弾き飛ばしてしまった。
紙コップには、飲みかけのコーヒー。
ぴかぴかの床にぶちまけられたと同時に、あいつにも直撃した。
元々黒光りしているボディが、さらにぬらぬらと黒光りしている。
私は身がまえた。もしもこいつが私に向かって静かなる突進をしてきたら、動かず危機が去るまで待とう。そう覚悟を決めたのだった。
だが、しかし、おかしい。ゴキ○リは動かない。まったく全然動かない。
私の知っているゴキ○リと違う……。もしもこいつがゴキ○リなら、近くに何か落ちた場合、かさかさと逃げ回るはずではないか。
ふと達矢くんの方を見ると、にやにやを隠せないでいた。
何を笑っているのだろう。いくら距離があるとはいえ、ゴキ○リを前にした一般男子であれば慌てたり、慄いたり、怒ったり、逃げたり、叩き殺したり、スプレーを手にとって男を見せようとしたり、するはずではないのか。
達矢くんは一般男子だ。常人だと思う。すこし遅刻とサボリが多いと自称しているくらいの、何の変哲も無いしょぼい男子だ。
違和感の正体は――。
私は、転がってきた紙コップを、ゴキ○リに向かって投げた。
ややかすめた。にもかかわらず、やはり微動だにしない。
「達矢くん、これは……」
「ウワー」達矢くんは棒読みで言った。「タイヘンダー、ゴキブリダァー」
私は、かつてないほどの怒りをおぼえた。
彼が悪戯好きだということは、何となく知っていたけれど、女性である私に向かってプラスチック製の偽ゴキブリを飛ばしてきたとなれば、人道から大きく外れているといわざるを得ない。許さない。
「達矢くん?」
私は、冷ややかな声と視線をぶつけた。
それでようやく彼のにやにやは止まった。
「ふ、ばれてしまっては仕方ない。そう、これはプラスチックゴキブリ、略してピージーだ! それにしてもすごい悲鳴だったな。ボイスレコーダーでもあれば、録音したいくらいだったぜ」
まずは謝罪して欲しいと思ったけれど、心の広い人間を気取りたいので、いつか仕返しをしようと決意して、怒りを必死に抑えたのだった。
「本当はさ、みどり相手にやろうと思ってたんだけど、飛古野さんの可愛いレア顔と超可愛いレア声を観賞できたから、思いがけずラッキーだったぜ」
私はがっくりと溜息。
「こっちは、全くついていない一日よ」