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飛古野みことの章_3

 体育館は、締め切られていた。外よりも薄暗い。ぽつんと開かれた卓球台の向こうに、スカートを穿いた何者かが座っている。短いながらも輝くような黒髪が風になびいている。


 背が子供みたいに小さくて、すごく痩せていて、右手には赤、白、緑の、イタリア国旗みたいな配色のリストバンドを装備。黒いポロシャツの袖がまくりあげられ、細い肩が露出している。スカートから伸びる両足も、嫉妬するくらいに細くて美しい。


 近付いてみれば、顔立ちも整っていて、天使だと名乗られようものなら信じてしまいそうな程。


 黒くて大きな瞳から放たれた視線が、私のそれと、ぶつかった。そのまましばらく、見つめ合う。私が声を発するのを待っているかのように、静かに、じっとしていた。


「あの、こんにちは」


「だれ?」


「う……」


 私が何者なのかと問われれば、「転入生の飛古野みことです」と自己紹介するしかない。


「わたしは、紗夜子。浜中紗夜子」


「えっとぉ……何年生、ですか? 中学生、くらい?」


「まつり」質問に答えてくれなかった。ぽつりと呟くように、そう言った。


「え?」


「まつり、知らない? 見てない? 約束してたのに、来なくて。携帯で電話しても出なくて。退屈」


 すねた子供のように、唇を尖らせている。


 私のせいだと思った。さっき私が余計なことを言ったために、上井草まつりさんは、ぶっつぶしてやると吐き捨てて、男の子を殴りに行ってしまった。何とか責任をとって、この子の退屈を吹き飛ばしてやるべきだ。


 そういったわけで、卓球をすることとなった。


 浜中紗夜子は、ウォーミングアップなしで、いきなりの真剣勝負が御所望らしい。本来の相手、上井草まつり不在の原因を作ってしまった私は、反論できるはずもない。子供の相手をするつもりで、胸を貸すつもりで、どっからでもかかって来なさいと言って構えた。


 ……パーフェクトをくらった。


 電光石火。


 全力で戦った私は、一ポイントも取れずに、それどころか、自分のサーブ以外では、ラケットにかすらせることも叶わずに敗北した。


 転々と、オレンジ色のボールが転がっていく。


「よわっ」


「ひどい……」


 私は、ある程度、それなりに、人並みに、卓球が上手なつもりでいたのだ。けれど、目の前の紗夜子は、それなりレベルを激しく逸脱していた。それはもう、全国、いや亜細亜、それどころか世界トップを狙える逸材に見えた。


 軽快なフットワーク、左腕の鋭い振り、向かってくる球の速度や回転を冷静且つ的確に見極める判断力。途切れない集中力と、それら全てを可能にする身体能力と精神力。


 一言で表してしまえば、天才ってやつだと思う。しかも、いつから卓球を始めたのかを聞いたら、特にやっていないと平然と答えた。


 卓球以外をやっている姿はまだ見たことないけれど、きっと、他のスポーツにおいても、圧倒的な力量を見せ付けてしまう姿が、鮮やかに脳内再生された。


 だから、きっと、たぶん、この子は、孤独……いや、孤高に陥りやすいんじゃないかと思う。これは確信に近い。根拠の一つとして、あまり感情を表に出さないことが挙げられる。表情を崩す瞬間を、私はまだ一度も見ていない。そのままで生きていて、紗夜子、果たしてあなたは幸せになれるんだろうか。


 出会ったばかりなのに、浜中紗夜子の将来がすごく心配になった。


「浜中さん、少し手加減するとか……」


「やだ。全力でやらなくちゃコノミっちに失礼じゃん」


「…………コノミっち?」


「コノミっち」


「……もしかして、それ私のこと?」


「うん。ヒコノミコトだから、コノミっち」


 よりによってそこを抜き出すかと思ったけれど、あだ名で呼ばれることが嬉しくないわけではない。あだ名は、一気に親近感が湧く。


「浜中さんは、皆から何て呼ばれてるの?」


「マナカ」


「あ、ハマナカ、だからマナカなんだね」


「あたりまえ」


 いや、あたりまえかどうかは大いに疑問が残るけど。


「だとすると、上井草まつりさんとかにも、同じようなあだ名があるのかな」


「ん、まつり? まつりはまつりだよ」


「じゃあ浜中さんだけが特殊な呼ばれ方をされてるの?」


「うんにゃ、みんなにあるよ」


「じゃあ、まつりさんにだけ無いんだ」


「そうかも」


「どうして?」


「知んない」


 浜中紗夜子は、つやつやの黒髪に右手を突っ込んで、くしゃっと握り締めた。


 私は質問を続ける。


「まつりさんとは仲いいの?」


「さー」


「え、でも、一緒に遊ぶくらいなんだから、まつりさんとは友達なのよね」


 そうしたら、浜中紗夜子は急に怒り出した。


「まつりまつりってうるさいな! わたしはまつりじゃないんだよ!」


 今まで感情を表に全く出さなかったものだから、あまりに突然でびっくりするしかなかった。


「あ、ご、ごめん……」


「まったくもう」


「すみません……」


 明らかな年下を相手に何度も頭を下げていることに気付き、なんだこの状況はと思った。


 そして訪れた沈黙。気まずい、居づらい、何とかしなきゃ。


 私は、次の言葉を探した。だけど、今の浜中紗夜子が相手だと、何を言っても怒られるのではないかと不安になり、慎重になりすぎて、何も言えなくて、どんどん話をしづらくなった。


 私は俯いて、手の中でオレンジ色のボールを転がした。


 冷たい沈黙を破ってくれたのは、男子の叫び声だった。


「うああああああ!」


 体育館の重たい鉄扉を勢いよく開いて飛び込んできたのは、戸部達矢くん。達矢くんは転倒し、入り口方向に向き直ったかと思ったら、お尻を滑らせて後退していた。よく見ると、達矢くんは、片方の足にしか靴を履いていない。まるで、恐ろしい何かに追われているみたいだった。


 その後に続いて、上井草まつりさんがゆっくりと、まるで、達矢くんを追い詰めるかのように、じりじりと迫っていた。手の指をばきばきと鳴らしながら。


 私がうっかり告げ口したせいで、達矢くんが上井草まつりさんに襲われているのだ。


「ちょ、まってくれ、まつり様。俺が一体何をしたと言うんだ!」


 達矢くんは靴と靴下ですべすべの床を蹴って、彼女から遠ざかろうとする。


 その態度が気に入らなかったのか、上井草まつりさんは、彼の胸倉を掴んだ。


「何しただぁ? しらばっくれてんじゃねえよ。ここに証人が居るのが見えないか? あ?」


「証人……だと?」


「ほれ」私のほうを指差すまつりさん。


 達矢くんと視線が合った。


 私は、右手で左肘を掴みながら、首を捻じった。顔を逸らしたのだ。


「おのれ飛古野みこと。俺を、売り飛ばしたか……」


 そうじゃない。違う。けど、私のせいで彼が襲われているのは事実だ。


 だから、私は否定しない。答えない。


「売り飛ばしただぁ? ってことは、やっぱりそういう話吹き込んだのお前なんだな!」


「しまった! 墓穴を!」


「自分から白状したからな、本来なら殺してるところ半殺しで許してやる」


 しかし、今にも右拳が達矢くんに直撃しようとした時、オレンジ色の卓球ボールが暴力を阻止したのだった。


 まつりさんの手に球が当たって、ぺちん、とかわいい音を立てた。


 私の手の中にあったボールではない。だって、それはまだ私の手の中だ。では誰がその球を放ったのか。……浜中紗夜子である。


 私は戦慄した。大変なことになると予想したからだ。


 達矢くんは、何となくだけど、丈夫な男の子だと思う。だけど、紗夜子は違う。すごく華奢で、マシュマロの上で転んでも骨折しそうなくらいに痩せている。もしも、女番長と名高い上井草まつりさんに殴られたら、最悪の場合、死に至るんじゃないかと思った。


 結果を言ってしまえば、そんなことにはならなかった。


「なんだよ、マナカ」


 文句あんのかよ、とばかりに、まつりさんは眉間にシワを寄せる。私は拳に汗握る。


「まつりー、何かわたしに言うことない?」


「え、なんだよそれ」


 そう言ってすぐ、上井草まつりはハッと気付いたような表情を見せた。頭にのぼっていた血が、サーっと引いていって、引きすぎて青ざめた感じだった。


「そうだった! あちゃ! 約束してたんだっけ!」


「ごめんなさいは?」


「いや、達矢が悪いんだよ。あたしの悪い噂を流してたんだからさ」


 上井草まつりは、謝らなかった。かわりに、達矢くんが「すまん」と言って、私も心の中でゴメンと言った。


 紗夜子は、まつりさんの顔を穴があくほど真剣な瞳で見つめた後、達矢くんに視線を送る。そして接近し、右腕をのばし、戸部達矢の頬をつねったのだった。


「いははは、ひゃめろっふぇ!」いたたたやめろって、と言いたかったのだろうが、ちゃんと言えていなかった。


「たっちー、ごめんなさいは?」


「ごめんなふぁい」


 ちゃんと言えてなかった。


「てめぇ、真面目に言いやがれ」と、まつりが怒る。


 私は一連のやり取りを見て、それは理不尽でしょうと心の中で呟いたのだった。



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