上井草まつりの章_6-1
朝食の後、すぐに寮を出た。みどりを迎えに行くためだ。
一昨日のことを思い出していただきたい。雨の帰り道で、俺の傘を奪ったまつりはみどりにモイストする気だった。そういう雰囲気がバリバリだった。だから、みどりを守るために、俺はみどりと一緒に登校しなければならない。
ということで、笠原商店の前に着いた。
色あせた看板に『笠原商店』という文字。
ふと視線を落とすと、半分だけ開けられたシャッターを、全開にしようとしている中年の男がいた。
つまり、笠原みどりの父がいた。
「あの、おはようございます」
「おはよう……と、君は、傘とゴキ○リの子じゃないか」
嫌な憶え方をされていた。
「戸部達矢です」
「あ、君がみどりの言っていた転校生の戸部くんか」
おや、みどりのやつ……親に俺のこと話してんのか。どの程度話してるんだろうかと少し気になったが、まぁそんなことよりもさっさとみどりと合流せねば。
「みどりさん、います?」
「もう、学校に行ったぞ。五分前くらいに」
何だと!
「あ、じゃあいいです。ありがとうございます。失礼します」
「お、おう……」
「それではっ!」
俺は慌てつつ言って、駆け出した。
みどりが危ないっ。まつりという異常者に捕まってモイストされてしまう。それは、よくないことだ。モイストさせるわけにはいかない。髪は女の子の命っ。特に素晴らしいキューティクルを持ったみどりにとっては!
教室に着いた。
「モイスト! モイスト!」
「痛いよぅ、痛いよぅ」
くっ、遅かったか……。
「この御喋り娘っ、制裁だ、制裁だ!」
ばっさばっさ。
「ごめん、ごめんって」
「モイスト! モイスト!」
すでにモイストされまくっていた。
「秘密を守れない奴は、大人になれないのよぅ!」
ばっさばっさ。
すぐ暴力に訴える奴も大人になってもらっては困るけどな。
俺の姿を確認したみどりは、涙目で、
「あっ、た、助けて……」
助けを求めてきた。助けたい。助けよう。助けなくては。
「おぅ、達矢。おはよう」
まつりはモイストを続けつつも平然と挨拶。
「おはよう、じゃねえよ。モイストするなって言っただろ!」
「じゃあ風紀委員補佐になれって言っただろ」
「誰がなるか!」
「じゃあ誰がモイストやめるか!」
ばっさばっさ!
「いーたーいー」
いつもより激しいモイストだ。これ見よがしに激しくやっている。
「これは、力づくで止めるしかない」
そう、こいつは口で言ってわかるような奴ではないのだ。
昔の人はこんな言葉を遺している。
目には目を。歯には歯を。
ならば……モイストにはモイストを――!
俺は、ゆっくりとみどりにモイストするまつりに接近した。
そして、
「もいすと! もいすと!」
俺はまつりの首までの髪をばさりと弾き上げてモイストした。
ばさっばさっ。
「きゃぁ!」
なっ。きゃぁ……だと……。
そんな女らしい悲鳴を上げるとは予想外。そして、予想外にモイストは楽しかった。
「もいすと! もいすと!」
ばさっ、ばさっ。
「ひぅ……」
もうみどりにモイストしているどころではなくなったまつりは、俺に髪を触られる度に体を震わせていた。まるで、大きな音に怯えている時みたいに。
「もいすと! もいすと!」
ばさっ、ばさっ。
楽しいっ。そして良い匂いする。
「やめっ、やめろっ」
とまつり。
まつりは髪がそんなに長くないので、首筋を撫でて、髪の束を拾い上げ、ばさっとする。
もう一度、首筋を撫でて、髪の毛をばさっ。
「もいすと! もいす――」
と、その時――
グィ。
指の間にまつりの髪の束が引っ掛かってしまった。そのまま髪を引っ張る形になる。
「痛いっ、痛いっ!」
「あ、ご、ごめん」
我に返って手を放す。
「このっ」
振り返ったまつりの目に、涙が溜まっていた。
涙か……って、涙だと?
「ど、どどど、どうした、まつり」
思わずたじろぐ俺。一歩、後ずさった。
「どうしたも……」
「え」
「どうしたもこうしたもあるかぁあ!」
どっごーーーーん!
「アッパーーァアアア!」
思わず喰らったパンチ名を叫びながら俺の体は天井へ向かい、
どごん。
天井に突き刺さった。今までで一番重い一撃。
やっべ、何も見えねぇ。天井裏、真っ暗。
つーか、今、まつりが泣いてたか?
あのまつりが。
殴られる瞬間に涙が飛び散ってたように見えたんだが……。
そして下のほうから、こんな声がした。
「死ねっ! 変態!」
おいおいモイストは変態行為だとでも言うのか。だったら長年モイストを繰り返して来たお前の方が変態だろうが!
朝のホームルーム開始を告げるチャイムが鳴った。