紅野明日香の章_1-2
しばらく歩き、教室の前に到着し、教師は言った。
「呼ばれるまで待っていろ」
そして、教師が教室内に入っていく。
今頃教室内では、教師が「転校生が来ました」とかで歓声が上がったりしているのだろうか。
しかし、それにしては廊下は水を打ったように静まり返っていて、俺と紅野明日香の間には無言空間が流れた。
「………………………………」
「あんた、何か言いなさいよ」
「何でだよ」
「退屈だからよ」
「何で俺がお前の退屈を埋めなくちゃならんのだ」
「この私の手を握ったんだから、そのくらいのことするのが当然でしょ?」
どういう論理だ。
俺もたいがいに非論理的だが、この女ほど支離滅裂ではない。ある意味、マトモさに自信を持てるような気がしてきた。引っ越す前の学校では、遅刻を繰り返しただけで異端児扱いされていたからな。この学校に変な奴しか居なければ、俺のマトモさが際立つというものだ。
そんな時、
「紅野、戸部。入って来い」
教室内から、教師の声。
「はいっ」「はいっ」
またしても揃っていい返事をして、紅野、俺、の順に教室に入る。
「……………………」
教室は、水を打ったように静まり返っていた。
あれ、何か変だな。
俺の想像の中では、転校生の登場に湧いてワイワイしてるものだとばかり思っていたのだが、あれはフィクション世界だけの出来事なのか。
ともかく、俺と紅野は前に立たされて自己紹介をさせられることになりそうだ。
教師は、黒板に俺の戸部達矢という名と紅野明日香という名を並べて白いチョークで書きながら、言う。
「えー、本日転校してきた、紅野明日香さんと、戸部達矢くんです。では、二人に自己紹介してもらいます」
教師は目配せすると、それに気付いた紅野が、クラス全体に向けたおじぎをして言った。
「紅野明日香です。よろしくお願いします」
まるで猫をかぶっているように丁寧な挨拶。
控えめな拍手が響く。
きっと初対面の奴は、可愛い子だと勘違いするに違いない。実際は他人に蹴りをかましても反省しないような悪い奴なのに。
というか、大人しいクラスメイトたちだな。
普通、こういうケースでは、彼氏いますかー、とか何とか質問が飛んでいてもおかしくないように思えるが……。まぁいいか。
さて、次は俺の番だな。
「戸部達矢です。よろし――」
言い掛けた時、気付く。
笑ってやがる。何がって、隣に立っている女が、だ。
「くっくく……」
笑いを堪えようとして堪えきれていない。
一体何がそんなに面白いんだ。
「おい、どうしたんだ」
すると、
「あっはっはは! あっふぁ、何? 何、戸部達矢って……飛べっ、達矢とか、犬に命令するみたいな名前ね……くくく」
お前は今、世界中の戸部さんを敵に回した。
ついでに言うと、多くの達矢さんを敵に回したぞ。
これは反撃するしかない。自己紹介どころではないぜ。
「おいこら、他人の名前を馬鹿にすることの危険性をわからせてやろうか?」
「なによ。暴力でも振るう気? ここ学校だよ。いかなる暴力にも罰が下るような場所だよ?」
じゃあ、お前がさっき俺にかました頭上からジャンプキックの罰はいつ下るんだろうな。どうせ「故意じゃないから」とか言って言い逃れるんだろうが。
ていうか、俺は暴力を振るう気なんてさらさら無いぞ。
俺が用意した反撃は、これだっ!
「紅野明日香って、何回も繰り返して言うと、卓球してる時の効果音みたいに聴こえてくるよな」
言うと紅野は、
「紅野明日香 紅野明日香 紅野明日香…(中略)…紅野……たしかに」
呟き頷いた。
納得されてしまっては、反撃にならないんだが。
「で? それが何? 面白いけど、何が言いたいの?」
「何でもないです」
すると紅野明日香は、窓の方を指差して、言った。
「よし、飛べっ! 達矢!」
「死ぬだろ、飛んだら」
すると教師が、
「ほら、アホな会話はそれくらいにして、さっさと席につけ。一番後ろの窓際だ」
見ると、教師が指差した先には二つの空席。窓際最後尾の席が隣同士に空いていた。
「あんたのことだから、どうせ窓際が良いとかって言い出すんでしょ?」
まるで俺とお前が昔からの知り合いであるかのような口ぶりだが、あいにく、ついさっき知り合ったばかりだ。そんなに簡単に性格を把握されては。たまらないぜ。
だが、しかし、当たっていた。窓際は大好きである。
「こういう場合……早い者勝ちだ!」
俺は言って、駆け出した。が、その刹那、
びたーん。「はうあっ!」
足を引っ掛けられて転ばされた。今度は床に額を強打する。
視界に星が舞った。走ってる足引っ掛けるとか、あぶなすぎるだろうが。
「ふん、あんたの単純な行動パターンなんて、この数分で把握できたわ」
何度も俺に痛みを与える忌々しい美脚が憎い。
「窓際の席はいただきよっ!」
勝ち誇ったような声が響く。
「卑怯だぞ!」
「椅子取り合戦に卑怯とか無いから!」
あるだろう。
「てか、あんた裸足? 上履きはどうしたのよ」
どこにあるんだ、そんなもの。
まだ受け取ってねえぞ。
何せこの街に来たのは昨日だからな。
寝泊りする寮に着いた頃にはもう夜だったし。
そして、紅野明日香が、窓際の席に座った。
俺の敗北を意味するのは言うまでもない。
「ちっくしょー」
それが、俺と紅野明日香との出会いだった。
こうして、頭部の痛みと共に、俺の人生初めての転校挨拶は終了した。