明日香がつかまった-1
※初日に屋上に行かなかった場合の一例。
柳瀬那美音は乾いた上唇を舐めた。
無茶とも言える指示だった。どうしても仕方が無い時には殺しても構わないができれば生かしたまま連れて来いという、本当に無茶とも言える指示だった。
女一人で高校生女子の生け捕りをせねばならないというシチュエーションは、いかに武術全般に明るい柳瀬那美音といえど困難だと思われた。
攻撃性が低く動きの鈍い小動物や、あまりにも小さな蟲一匹なら、発見が難しい珍獣でもない限り楽なのであろうが、人間は狡猾であり、人間自身が思っているよりも力だって強い。まして柳瀬那美音の特殊な力、心を読む力が通用しないならば尚更だ。とはいえ、熊や猪を生け捕るよりは簡単だと推測される。那美音は野生の熊や猪を捕まえたことは無いが、そんな風に想像していた。
那美音のよく知るこの町。その学校の屋上は風が強い。
強い風の中ではバランスがとりにくい。
那美音は屋上にある円筒形をした給水塔の横で寝転がる明日香を給水塔の影から監視しているしかなかった。下手に飛び出して風に煽られて失敗したのではどうしようもない。
要するに、実行に至るまでの勇気ゲージが満ちなかったのだ。
政府直属の超能力部隊、そのスパイという立場になるような人間とはいえ、高校生を誘拐などという人の道に外れた行為には気が引けた、というのもある。
ただ見ているだけしかできなかった。
それでも視界に居る制服女子を野放しにしておくとより広範な地域を脅かすことになる。それが確実だと理解しているのだから、やはり何とかせねばならないとも思う。
ただ風の音だけ響く。紫色のシャツが揺れた。風に隠して溜息を一つ。すっかり成長した胸が、ゆっくりと上下に揺れた。
標的の紅野明日香を視界にとらえる。朝の光を浴びながら仰向けに寝転がり、目を閉じていた。
眠っているのかとも思ったが、落下の危険がある場所、特に柵の無い高所で眠るなどという軽率さが信じられない那美音は、ただ目を閉じているだけだと判断。ジーパンのポケットから即効性のある強力な睡眠薬を取り出す。
政府の研究機関が極秘で開発した特殊な錠剤である。錠剤なのに口の中に入れただけですぐに効いてしまうほど強力で、できれば使いたくないのだが手荒な方法をとるよりは良心が痛まないと考え、開封し、手の上に裸の錠剤を落とす。
柳瀬那美音は優しい芯を持っていた。到底スパイなんてものには向かないような限りない優しさだ。
それでも心を鬼にして、人差し指と中指の間に錠剤を挟みこみ、足音を立てないように慎重に、且つ素早く接近する。
足音を、風の音に隠しながら。
久しぶりに浴びる町の強風に少しバランスを崩しつつも、バレずに明日香の頭上に接近できた。
規則的に呼吸を続ける半開きの口を見つめながら、柳瀬那美音は考える。
先刻、校内放送で紅野明日香は呼び出しをくらっていた。
――この少女は今、何を思うだろう。
柳瀬那美音は人の心を読むことができた。何を考えているのか、思考が手に取るようにわかるテレパスと呼ばれる超能力だ。だからこそ政府のスパイにもなれたほどの大きな力。だがしかし、目の前の少女にはその力が通用しない。
心を読もうとすれば映らないチャンネルに合わされたアナログテレビのようにザザザと砂嵐が駆け抜けて、頭が痛くなる。そんな他人との明らかな違いからも、那美音は彼女の重要度を感じていた。
那美音にとって、思考の量が多すぎて頭が痛くなるほどの天才と呼ばれる人間を除いては、心を読めないなんてことは無かった。その頭が痛くなるほどの天才でさえも、心の声が聴こえないわけではなく処理が追い付かないほどの圧倒的思考で頭が痛くなるというだけの話で、断片的に考えていることはある程度読めるし、紅野明日香のような砂嵐イメージとはかけ離れている。
この町に来る前、今は那美音が鍵を運んで来るのを艦で心待ちにしている大佐という階級の熊のような男の心を読んだ那美音は、たしかにその男の心の声を聞いた。
(もしも、鍵の少女を捕まえられないならば、この町には消え去ってもらうしかないな)
だから、町を救うには捕まえるしかないのだ。
那美音は、多くのことを知っていた。心が読めるのだから当然だ。
紅野明日香を捕まえて政府に渡せば、古代兵器を起動させることができて、その力で世界の覇権を手に入れられる可能性がある。仮に手に入れられない場合でも、紅野明日香を殺せば兵器が敵の手に渡るという最悪の事態は避けられる。
町のトップシークレットで代々秘密にされてきた古代兵器の存在がどこから洩れてしまったのかと那美音も調査したことがあり、だいたいあのロケット大好き一家のあたりだろうと漠然とアタリはつけているのだが、今はそんなことよりも鍵たる少女を捕まえることに集中するべきだ。
――可愛い顔して、兵器のトリガーだなんてね。可哀想。
そんなことを思いつつ、彼女の口元に錠剤を運ぶ。
不意に、少女がパチリと目を開けた。
まずい、と思った。
しかし、錠剤を口にねじ込みさえすれば良いのだ。人間であればそれで気を失うに違いないのだから。
こうなった以上、多少の乱暴も致し方ないと考えた。
ただ、目を開けた明日香は驚いた顔で立ち上がって飛び退いた。驚き過ぎて、この場所がどんな場所であるかも考える暇がなかったようだ。
明日香の足は、地面をとらえられず宙を掻いた。
給水塔のある建物の上から、鉄柵に囲われた屋上へ。
一階までは落ちないにしても、屋上までだって三メートル以上ある。頭から落ちたら危険だ。
落ちていく。地面に背中を向けたまま。落下する人間を風が持ち上げることはなく、明日香は落ちていく。
那美音は走り、飛び込んだ。落ちる明日香に手を伸ばす。
生け捕りにすることが目標だとか、そんなことは頭に無かった。何も考えている余裕なんてなかった。ただ反射的に体が動いた。
悲鳴を上げることもなく、静かに背中から落ちていくその華奢な体に手を伸ばす。錠剤を手放して彼女の手を掴もうと。
腕を掴んだ。掴めた。
「あうっ」
と、少女が声を出す。いきなり引っ張られたことで肩をいためたらしい。
明日香は目の前の状況がわからず、とにかくわけがわからず、ただ目の前にあるコンクリの壁がこわくて、右の肩が痛くて暴れ出す。涙を浮かべ、苦しげに息を漏らしながら宙に浮いた足をばたつかせる。
那美音はその無事な姿を頭上から見て安心して気を抜いた。
その時だった。
手が離れ、明日香は地面に落ち、
「いっ!?」
着地に失敗して思い切り足を捻った。
涙目。
那美音は、彼女を捕まえる立場のスパイである。だから、たとえば「大丈夫?」なんて言って彼女に優しく歩み寄るなんてことはしない。
屋上の高い場所から飛び降りた女スパイは、強風に煽られながらもスニーカー履いた両の足をしっかりと着地させ、間髪いれずに駆け出して、痛めた足首を撫でている明日香の背後に立つと、再び別の錠剤を取り出し、今度は手の平に落として、叫ばれては困る状況に立たされた際の強盗みたいに後ろから口を塞いだ。
口を開ける気配がなかったので、鼻も塞いでやり無理矢理口を開けさせて、そこに指の方へと持ってきた錠剤をねじこむ。
「ん、んむ……んぐ……」
明日香の背中に、那美音の大きな胸が当たる。
「んむぅ……う……」
手の平の錠剤が明日香の口に入り、それをどうやら飲み込んだようだと感じると、那美音は明日香の顔から手を離し、肩に触れ、鎖骨のあたりを軽く撫でてから、
「ごめんね」
と耳元で囁いた。
薬はすぐに効いた。紅野明日香から発散されるノイズが、急激に細くなり、やがて完全に消えたことは意識が消滅したことを意味する。夢すら見ない深い眠りに強制的に落とし込んだ。
政府もおそろしいものを開発するものだ、なんて思いながら、那美音は彼女の脇の下から手を入れて抱え上げ、ずるずると物陰に引っぱると、ヨダレ垂らしながら寝ている彼女を身動きできないようロープで手足を縛り上げた。そしてサンタクロースが宝物を持って飛び回る時に使うような大きな袋に彼女を丁寧に押し込めると、屋上フェンスを乗り越えて、壁をつたって降りて行く。
これで町が救われるかもしれないと、那美音は期待した。