穂高家昔話
強い風が吹いていた。
四枚の羽が、ギシギシと音を立てながら風を受けてぐるぐると回っている。
木の骨組みと、薄汚れた布でできた羽の回転は、その日も休むことなく回転を続けていた。
風車の下には広がるチューリップ畑。
ここは、風車の村。
まだ、かざぐるまシティと呼ばれる前の、ただの田舎の村だった。
「~♪」
少女は鼻歌を歌いながら花畑が広がる上り坂を歩いていた。
右手には、丸くて硬そうなパン、左手には風車小屋の鍵を持って。
がりっ。
パンを齧った音。
「あぅ、かたいにゃー」
涙目。
「でもおいし☆」
すぐに笑顔。
「~♪」
また鼻歌。
やがて、花畑が途切れて、少女は風車小屋の前に立った。
そこで、立ち止まり、鼻歌も止まった。
風車は、その日も休まず回転を続けていた。
少女にとっては、その風車が回転しているのは当然のことで、その風車の四枚の羽が止まるなんて、あるはずがないと思っていた。
少女は、暇さえあれば、いつもこの場所に来ていた。
坂の途中の、風車小屋。
穂高家の花畑が見渡せる場所。
少女は、素早く風車の鍵を扉の古めかしい鍵穴に差し込んだ。
「…………はれ?」
しかし、鍵は開かなかった。
差すことはできたが、回らない。
「んきー!」
むきになって扉を押して、力ずくで開けようと試みたが、少女の力では開かなかった。
「ていっ!」
扉を蹴った。
しかし、開かなかった。
「うむにゅん……」
呪文を唱えるようにそう呟いても、開かなかった。
「おかーさん……また鍵変えたにゃん……?」
一人呟いて、後退り、風車の羽を見上げた。
「うふふ、でも、鍵を変えたくらいで、あたしを止めることはできないにゃん!」
言って、パンを花畑に向かって捨てて、風車の壁をよじ登り始めた。
少ない足場を生かして、ふらふらしながらよじ登っていく。
「んしょ……っと」
やがて風車小屋の屋根に辿り着いた。
目の前に、回転する羽が見えた。
「ふふん」
一人、笑って、風車の屋根に立とうとした。
「わきゃっ!」
足を滑らせた。
がしっ。
しかし、少女は落ちなかった。足をぶらぶらさせながらも何とか屋根にしがみつき、再びよじ登って、風車小屋の屋根を踏んだ。
「わっはぁ……あぶなかったなー」
声を裏返しながら立ち上がり、仕切りなおし。
目を閉じて大きく息を吸った。
そして吐いて、目を開いた。
少女の視界には、一面の花畑。
色とりどり。
全て、穂高家の敷地だった。
少女の名は穂高緒里絵。
穂高家の三女だった。
「やっほーーーーーーーー!」
叫んだ。
その声は、風に乗ってどこかへ飛んで行ってしまって、こだまを返すことはなかった。
「ふふん」
それでも緒里絵は、一人笑った。
嬉しそうに、楽しそうに。幸せそうに笑った。
緒里絵はしばらくずっと、風車の屋根に寝転がっていた。
下から上へと高速で流れる雲を見つめてみたり、しばらく目をつぶってみたり、時々、「にゃー」とか変な声を出してみたりしながら。
退屈そうにも見えたが、少女は楽しそうだった。
と、そこへ、
「カオリー」
屋根の上に誰かが来た。緒里絵のことを呼びながら。
風車小屋をよじ登ってきたのは、浜中紗夜子。
浜中家の跡取りであり、スポーツ万能で頭脳明晰。
緒里絵と最も仲の良い友人だった。
緒里絵にとっては大変だった風車小屋の屋根によじ登るなんてことも、抜群の運動神経を持つ紗夜子にとっては坂を駆け上がるのと同じくらいの難易度でしかなかった。
「マナちゃん!」
緒里絵は声を弾ませて言って、上半身を起こした。
紗夜子はそんな緒里絵の横にちょこんと座ると、
「カオリ、今日はお勉強しなくていいの? 家庭教師の日でしょ」
と言った。
ちなみに、『カオリ』というのは穂高緒里絵のことである。そして紗夜子は緒里絵から『マナカ』または『まなちゃん』と呼ばれていた。
「てへへ、逃げてきちった」
緒里絵は笑いながら舌を出して言った。
「またなの?」
「人聞き悪いにゃん。一昨日は逃げなかったにゃん」
「昨日は逃げてたじゃん」
「仕方なかったにゃん」
「そうなの?」
「そうなんだにゃん」
緒里絵にとっては、そういうことらしかった。
「だいたい、あたしまだ子供なのに、勉強なんてまだ早いにゃん」
「そうでもないと思うけど?」
「マナカは黙って『そうだね』って言うべきだったにゃん」
「何勝手なこと言ってんのー」
「うむにゅん……」
微妙にかみ合わない会話を交わした時、
「おーい、二人ともー!」
誰かの声がした。
風車小屋の扉の方、地面からの声だった。
「ひょ?」「ん?」
緒里絵と紗夜子はそんな声を発し、屋根から首を出し、地面の方を覗き込んだ。
「そんなとこ登ると危ないよー。降りて来なさいよー」
屋根の上の二人よりも少し年上の少女が居た。
緒里絵が「サナだ」と言って、「サナだね」と紗夜子が応えた。
風車小屋の入口の扉あたりに見えたのは、上井草那美音。
サナとは、上井草那美音のあだ名だった。
サナ、カオリ、マナカ。
三人は、いつも一緒に遊んでいた。
集合場所は、この風車小屋。
この日も、誰が言うでもなく集まった。
「サナー。今日は隠れ家行かないのー?」
「行くから、さっさと降りて来なさいよー」
「「はーい」」
紗夜子と緒里絵は同時に返事した。
そして、二人で手を繋いで、風車小屋の屋根から飛び降りた。
危険だと思えるような行為だったが、それほど危険ではなかった。
風車小屋の周りの地面は、フカフカと布団のようにやわらかかったからだった。
以前は硬かったのだが、宮島利奈という娘が風車小屋の屋根の上から落下して骨折等の大怪我したために、大工でもある彼女の父親が低反発のフカフカ素材を敷いたのだ。
他人の敷地に勝手に侵入して怪我した娘を理由に、勝手に他人の敷地で工事を敢行したというわけだ。わけがわからないにも程があると言う人も居るだろう。
そもそも風車小屋の屋根に上らないようにすれば良いだけの話なのだが、宮島家は少しおかしいので、誰も何も言わないことにしたのだった。何を言ってもムダだと判断したのだろう。
ともかく、そのフカフカマットレス地面を最大限に活用していたのは、宮島利奈でもその父親でもなく、緒里絵と紗夜子だった。
安全に、且つ素早く屋根から降りられるので、以前より皆が屋根に上るようになった。
宮島父のせいで、風車小屋がアスレチック遊具のようになり、皆が屋根に上るようになってしまい、それで緒里絵の母は大変怒ったのだが、怒ったくらいで宮島父の行動が思い通りになったら何の苦労もないのだった。
とにかく、緒里絵と紗夜子は屋根を降り、那美音の前に立った。
「行くよ、マナカ、カオリ」
リーダーのサナが言う。
「うん」
頷く紗夜子と、
「うむにゅん」
いつものように変な返事をする緒里絵。
三人、土の上を歩き出した。
広がる花畑の真ん中を通る下り坂を。
風車小屋から南に下ると、鉄柵に囲まれた敷地があった。
そこは穂高家が管理する森林で、穂高家の人間ですら勝手に足を踏み入れることは許されておらず、大人の許可が必要だった。当然、彼女らは穂高家の大人たちの許可なんて得てはいなかった。
にもかかわらず、その一角に、三人は秘密基地を作っていた。
と言っても、作っているのは紗夜子と那美音の二人で、緒里絵はいつも二人を働かせて昼寝していた。
クークーと寝ている緒里絵を置いて、会話を交わしながら木を切ったり、敷き詰めたり並べたりして、秘密基地を作っていた。
がらがらと木を地面に落としながら那美音が言う。
「ずいぶん前の話なんだけどさ、宮島さんのところの娘さんが怪我したでしょ?」
「えっと……ミヤジマリナだっけ?」
と紗夜子。
「そうそう、利奈って子」
「それがどうかしたの?」
「実はさ、それに妹が関係してたのよね」
「え? マツリが?」
「そうなの。そして、怪我した場所がさっきまで居た風車小屋の下。だから、早く秘密基地を完成させて、本拠地をこっちに移そうと思ってるんだけど……」
「何でそんなに逃げるようにするの? マツリも一緒に遊べばいいじゃん」
「でも、自分の妹を悪く言うのもアレなんだけど、すぐ暴力振るうバカだよ。あの子」
「信用ないんだ?」
「ないよ。そんなの」
「サナが信じてあげないから、暴力に走っちゃうんじゃないの?」
よくわからない、と那美音は思った。
その数日後。陽が山並にかかる頃。
「できたにゃん?」
「できたね」
「できた」
緒里絵、那美音、紗夜子は、秘密基地を完成させた。
それ以降は、その秘密基地が新しい集合場所になった。
やがて、時が経ち、那美音が街の外の学校に船で通うようになり、まつりが紗夜子に大怪我させてしまい、一連の騒動の中で那美音が街の外へ出て行ってしまった後……。
緒里絵の父親が突然、亡くなった。病気だった。
穂高家は主を失い、相続の際に広大な敷地を村に譲渡した。
村は、その敷地を利用して、海からの強風を利用した大規模風力発電を計画し、風車の建設が開始された。
古い風車小屋は取り壊された。緒里絵は、それを悲しそうに見つめていることしかできなかった。
代わりに三枚羽の白い風車が建った。緒里絵は、これはこれで、キレイだから良いと言い聞かせた。
そして、村は町になった。
村にあった学校は不良――主に上井草まつり――を更生させるための施設となった。
穂高家の敷地に広がっていた花畑も、全て無くなった。
森林も切り倒され、秘密基地は破壊された。
それまで穂高家によって隠されていた村の外へと続くトンネルが利用可能になり、物資の出入りが容易になったこともあり、ショッピングセンターが建った。
町は、とても便利になった。
強い風が吹いている。
三枚の羽が、風にぐるぐると回っている。
風車の下には広がる草原。
ここは、風車のまち。
かざぐるまシティと呼ばれる、町。
「~♪」
今日も少女が白い風車が並ぶ草原に、鼻歌を響かせながら歩いてきた。
【穂高家昔話 おわり】




