中華師匠と若山三木雄
そよ風が木々を揺らす。
「…………」
彼女はその木の陰から、ずっと彼を見ていた。
もう、この街を出て行く「D」と呼ばれた男を。
「何だありゃぁ」
魚の居ない湖で、釣りをしていた男は呟いた。
まるで男が女にストーカーされているようだったから、思わず顔をしかめながら呟いた。
「…………」
女は、目を逸らすことなく、木陰からDを見つめている。その風景を釣りをしている男は眺めていたわけだ。
見つめられている男の方は、学生のようだった。
釣りをしていた男は、女に見覚えがあった。
「ありゃ確か……中華料理屋で働いてる……」
釣りをしていた若山は、彼女の働いている中華料理店が入っているショッピングセンターの店長だった。専門分野は電化製品であり、記憶力もよく、一応従業員の顔は全て記憶していた。
と、その時、Dは立ち上がった。
はっとした女は、Dの方に向かって今にも駆け出そうとした。が、二歩か三歩進んだところで立ち止まった。ぐっと拳を握り締めて、こらえた。Dの姿が見えなくなるまで見つめていた。
そして、Dの後ろ姿が、完全に見えなくなった時、Dがいなくなったベンチのあたりまで駆け、もう本当にDの姿が見えないことを確認して、大きく二つ頷いた後、Dが座っていたベンチに座って、涙を流し出した。
「うっ……うぅっ……」
声を押し殺して、泣いていた。
「な、泣いている……?」
若山はそう呟き、釣り竿を地面に置いて、女の子の前に立った。
そして、
「お嬢ちゃん、どうした。何かあったのか?」
話しかけた。
「てんちょー……」
女の子は若山の顔を見上げて呟く。
しかし涙は止まらないようだった。
「何で、泣いてるんだ」
「好きだったから」
「好きっていうと……」
「好きな人が、帰っちゃう……」
「止めればいいじゃねぇか」
「それは……できない……」
「何でだ」
「戻ってきたら、破門するって、決めてて」
「破門?」
「わたし、彼の師匠」
「そ、そうか……」
わけがわからんと思いながらも若山は、女の子の横、ベンチに腰掛けた。
すると、
「うあーーーーーっ!」
女の子は叫んで、若山にしがみついて、泣いた。
叫びは風に乗って、空へと消えていく。
間もなく飛行機が飛び立つ空へ。
そんな時、通りがかった誰かが、若山に声を掛けた。
「何やってんだい、店長さん」
「ほ、穂高さん……?」
花屋の店主、穂高華江だった。顔をしかめていた。
「うちの緒里絵が、店長さんのとこの電気製品いじって壊しちまったから探しに来たんだけど、何なんだい、これは」
「うあぁあああ!」
思い切り、叫びながら泣く女の子。
ぎゅっと若山の胸にしがみついていた。
「何してんだいって、聞いてるんだけど」
「何って、その……えっと……」
「女の子、泣かしてるのかい?」
「う……穂高さん、違うんだ。これは違う! おれが泣かせたわけじゃない!」
「っはー、釣りをしに行くってそういうことかい、女の子釣ってんのかい。やだねぇ。エリートはやることが違うねぇ」
「誤解だ!」
「見損なったよ、店長さん!」
穂高華江は、そう言い残して去っていった。
そして女の子は、また、
「ああああああーーーーーーー!」
叫びながら泣いていた。
若山は、泣きたいのはおれだよ、とでも言いたげに、空を見た。
「何してんだろ、おれ」
呟きは風に乗って、空中に舞い上がり、すぐに散った。
【中華師匠と若山三木雄 おわり】