男子生徒Dと上井草まつりの話-3
その後、オレは何度も上井草まつりと戦って、何度も敗北を喫した。
――ああ、一生かかっても追いつけそうにない。
いつしか、背中を追うことが当り前になっていた。
――でも、追いつきたい。
追い抜こうとは思わなくなっていた。
――せめて、並び立てるくらいに。
上井草まつりに、認めてもらえるくらいに。
そうなった時、初めて胸を張ってこの『かざぐるまシティ』を出て行けるんだと思った。
強くなる。心も、体も。
強くなりたい。そう思った。
あれから、二年経った今でも、上井草まつりには負け続けている。
二年。二年か……。
★
この街に来て、もう二年も経つのか……。
オレは病院のベッドの上、骨が砕けて包帯グルグル巻きの右腕を見つめて、心の中で呟いた。
後、窓の外を見る。
大きな風車が見えた。
色んなことがあった。
きっと、これからも、色んなことがあるだろう。
オレは、そう思って目を閉じた。
「地面殴って、骨折だって?」
師匠が豚まんを持って見舞いに来た。
「はい」
何となく目を合わせづらくて、逸らす。
「ばか」
怒られた。
顔は見えないけれど、きっとまた、無表情で憤りを表現しているに違いない。
師匠はポーカーフェイスなのだ。
「ぶたまん」
そして豚まんを手渡してくるのだ。
この豚まんが、美味い。
「すんませんっす、師匠」
オレはへらへらしながら豚まんを受け取った。
師匠は丸い椅子に腰掛ける。
見慣れた光景。何度も見た視界。
まつりにやられて病院に運ばれるたび、師匠は見舞いに来てくれた。
「豚肉は、体にいい」
「そうっすね」
この会話も、何度となく。
師匠は、フッと、ほんの小さく笑った。笑ったかどうか、わからないくらいに。
――いつからか、出て行きたいなんて、考えなくなっていた。
――ずっと、この街で暮らすんだと、思っていた。
――上井草まつりに、挑み続けながら。
でも……。
その数日後、退院したオレは、教師から告げられた。
「お前の更生が認められたぞ。これが帰郷命令だ」
「え……」
驚いた。
オレは、更生なんてしていない。
何度も風紀委員に暴力で挑むほどだ。
それを更生している?
誰か別のやつと間違ってるんじゃないのか?
「わかったな? この街を出るんだ、D」
「…………」
オレは、返事をせず、帰郷命令が書かれた紙も受け取らなかった。
いつもの稽古の後、
「帰郷命令、無視する気なんだって?」
師匠は言った。
「当り前っすよ。オレは、上井草まつりに勝つまで、この街を出て行くわけにはいかないっす」
「命令は、絶対だよ」
「そんな、大人からの命令なんて、聞く耳もたないっす」
「じゃあ、どうするの?」
「…………」
オレは黙った。
どうするかは、決めていた。
……悪いことをしようと思った。
そうすれば、更生したなんて誰も言えなくて、この街に居ることができる。
上井草まつりに、挑み続けることができる。
上井草まつりに、オレを認めさせるまで、何をしてでも、この街を出て行くわけにはいかない。
そんな風に、思った。
パシン。
いきなり平手打ちされた。
目の前には、師匠が立っていた。
「痛いっす」
「それなりに加減した」
かなり怒っていた。無表情だったが。
「Dが、何考えてるか、当ててあげようか」
「何……すか……?」
「『罪を重ねれば、この街から出なくて済む』……違う?」
違わなかった。
「悪いことすれば、更生したって認められないから、この街で、上井草まつりへの挑戦を続けられるから……って、そういうこと?」
ごすっ。
グーで殴られた。
「……痛いっす」
「痛いと思うくらいにやってる」
「そうっすか」
「そうっすか……じゃない。Dはもう、強いはずだよ。上井草まつりよりは、弱いけど、でも、色んな人から強さを認められるくらいに強いはずだよ。どうして、それがわからないの?」
表情を崩さずに、師匠にしては珍しい長い言葉を発した。
「上井草まつりよりも、強くなりたいんすよ……」
「それじゃあ……ここに居るのは……間違いなんだよ」
「どういうことっすか、師匠」
「はっきり言うけど、上井草まつりを目指してる時点で、ダメ」
「え……」
「上井草まつりは、ちっとも強くない。大人じゃない。Dよりは大人だけど、それでも大人じゃない」
「大人って……何すか」
「自分の行動に、責任を持てる人」
とても耳が痛かった。
「それから……わたしは認めたくないけど、Dは、上井草まつりになら、とっくに、認められてる」
「え?」
「帰郷の命令を出してる人、上井草まつり」
「え……?」
じゃあ、オレを更生したと認めたのが上井草まつりで、オレを帰郷させようとしたのが、上井草まつりで……。
「もちろん、上井草まつりだけじゃなくて、色んな人の承認が必要だけど」
「そんな……」
「だから、Dは色んな人に認められてるんだよ」
「更生……してるんすか、オレ」
「してる」
頷いた。
「そう……っすか……」
「これでもまだ、色んな人の気持ち、踏みにじる?」
「できないっす」
「……そうだよね」
「はい」
「そんなDだから、更生が認められたんだよ」
「師匠……オレ……帰り……ます……」
「うん……」
その後、オレは学校に戻って帰郷命令書を受け取った。
帰郷が決まってから、オレは毎日師匠と稽古した。
上井草まつりにも勝てなかったが、師匠にも勝てなかった。
一度も。
上井草まつりや、師匠と比べて、オレには何が足りないのか。
考えてもわからなかった。
それでも、オレはこの街を出て行く。
この街で得たものを胸に抱いて、生きて行く。
きっと、生きていけると思った。
いつか、上井草まつりや師匠に、自慢できるくらいの力を手に入れた時に、もう一回、「遊びに」来れば良いと思った。
強制的に送られる形じゃなく、ただ、遊びに……。
思い出話でも、できたらいいと思った。
そして、故郷に帰る日の朝。
オレは、強い風が吹く坂道で、上井草まつりと最後の勝負をした。
「よぉ、久しぶりだな、お前」
上井草まつりはそう言った。
「はい、それで、勝負、お願いに来たっす。決闘っす」
「まだ諦めてなかったの?」
上井草まつりは、オレを見下ろして腕組しながらそう言った。
「ずっと、諦めないっす。勝つまで」
オレは言った。
「掛かって来な」
「よろしくお願いします!」
集まってきた野次馬たちの中心で、オレは深く礼をした。
そして、向かっていく。
右手、左足、繰り出す攻撃は、当たらない。
上井草まつりは簡単に避けていく。
左の拳が当たった、と思ったら、その腕を捕まれ、うつ伏せに組み伏せられた。
「ぐぁっ」
間接をキメられているわけじゃない。
でも、すごい力で押さえつけられて動けなかった。
「オレの負けっす……」
また負けた。
何連敗だろう。
数えるのも億劫なくらい負けた。
「そうね。でも、正々堂々挑んで来たのは評価するわ。風紀委員に入らない?」
それは、二年前、坂道を競争して負けた時と、同じような言葉。
出会ったばかりの頃に言われた言葉。
風紀委員になれば、まだこの街に居られるんじゃないかと思ったけれど、その思考はすぐに否定する。
ダメだ。師匠と約束した。帰郷するって。
「いや……自分、今日、故郷に帰るっす」
「……そうか。そういや今日だったか……それで決闘なんて……」
「はい……」
「じゃあ、もう戻って来るんじゃないわよ」
上井草まつりはそう言って、息を一つ吐くと立ち上がり、オレから手を放した。
歩き去っていく足音が響く。
オレは立ち上がり、深く、深く、上井草まつりの背中に頭を下げた。
「まつり姐さん。お世話になりました!」
「じゃあね」
まるでオレの師匠みたいな、感情のない声でそう言って、坂を上っていった。
「ふぅ」
オレは、再び仰向けになり、大きく息を吐く。
「ははっ」
そして、笑った。思い切り顔を崩して。
立ち上がる。歩き出す。
はるか遠く、上井草まつりの背中を追うように。
何度も通った通学路を。
帰郷の手続きを終えて、授業中の廊下を歩く。
あとは、風が弱まる時間にやって来る飛行機に乗り、帰るのだ。
と、そこに、師匠が来た。
「D、きて」
それだけ言うと、オレの手を掴み、引っ張って走る。
二人、坂を下って、右に曲がって、ショッピングセンターへ。
その中にある中華料理屋へと入った。
「何すか、師匠」
「最後に、好きなもの、奢る」
「え……」
「何でも好きなもの、頼んで」
何でも、か。
「豚まん」
「そんなので、いいの?」
「ああ、はい」
「そう……」
少し、ガッカリしたような表情をした後、厨房に行った。
数分後。
「ぶたまん」
持って出てきた。
食べなれた、美味しい、豚まんを。
「いただきます」
食べる。
「美味しい?」
「ああ、いつもの味」
「そう、いつもの味」
「もう、これ食えないのか……」
「そう、食べれない」
「寂しいな、それは」
「…………」
師匠は何か言いたそうな表情をした後、豚まんに手を伸ばし、それを食べた。
「あつっい」
師匠は猫舌だった。
「あっはは」
笑ってやった。
すると、無表情のまま、また怒った。
「むかつく……」
オレは、豚まんを平らげる。
そして、すぐに立ち上がった。
このままここに居たら、街を出て行く気持ちが揺らいでしまうと思ったから。
だからオレは、
「どうも、ありがとうございましたっす。師匠」
そう言って、背を向けた。歩き出す。
「D」
師匠の声に、立ち止まる。
「わたしはずっと、Dの師匠」
「はい、オレは、師匠に勝つまでは、ずっと弟子です」
振り返らずに、そう言った。
「うん」
「本当に、ありがとうございました!」
オレは大声で行って、店を出た。
寮に戻った。
寮の玄関に置いてあった大きな荷物を持って、湖へ。
湖のベンチに座って、湖に建てられている風車が回転している風景とか、釣りをしている人が居る光景とかを、見つめていた。
風が弱まったらすぐに、この街を出なくちゃいけない。
俺のためだけに呼ばれた飛行機で。
だから、絶対の帰郷命令だ。
街の方を見る。
坂の上の学校を見る。
もう、見納め。
これで最後。
いつかこの街に来ることがあっても、完全に同じ風景を見ることは、もうないだろう。
見上げた空は、青く澄み渡っていた。
風が弱まった。
弱くなって少し時間が経って、オレはようやく歩き出す。
街の入口の、二つの崖の間に立った。
この街の風を作っている場所。
弱まっているとはいっても、かなり強い風が吹いていた。
でも、歩けないほどではない。
ここを抜けて、南に数分歩いて行くと、飛行機が離着陸する平らかな場所に出る。
そこから飛行機で、この街を出る。
オレは、また一度振り返る。
「っした!」
大きく大きく、礼をした。
深く深く、頭を下げた。
そして、街の外を見て歩き出す。
強い向かい風を浴びながら。
きっと、これから先ずっと。
向かい風を浴び続けるだろう。
昔のオレなら、耐えられないような。
でも、今のオレなら、耐えられる。
それだけの力を、この街で出会った人がくれたんだ。
上井草まつり、そして師匠。
オレを慕ってくれた不良たち。久しぶりにできた友達。
他にも……色々。
色んな人のおかげで、オレは立ち直ることができる。
この先に、何が待っていようと、オレは、自分に負けない。
自分を見失わない。
それが、オレを更生させてくれた街に対する、礼儀だと思う。
そんなことを考えて歩き……。
オレは、飛行機に乗り込んだ。
降り立った。
風のない街に。
誰も、自分を迎えに来ている人は居ない。
ただ、それでも、降り立った世界は凪いでいた。
【男子生徒Dと上井草まつりの話 おわり】