もしも上井草まつりのエリを立てなかったら
笠原みどり曰く、まつりは精神的に脆いんだそうだ。
手首を切ったこともあるらしい。
気候が、まだそれほど暑くなくて、いつも長袖制服を着ているから、その傷跡を見たことはない。
「くー、くー」
ちょっと……見てみようか。
いや、でも隠してる可能性も。
でも……なんか気になるよな。モヤモヤするっていうか……。
俺はまつりのことが好きで、そんな事実があったくらいで嫌いになるくらいならぶっ飛ばされまくった時点で嫌いになってる。
だから、どんなに壮絶な過去があっても、どんなに壮絶な傷があっても嫌いにはならない。絶対に。
その辺は大いに自信がある。
問題は、まつりの気持ちだ。
まつりが俺に過去の自分の傷を見せてもいいくらいに俺を好きでいてくれているのか。
これは、はっきり言って自信が無い。
だが……まつりと一緒に居る以上は、いつかは絶対に向き合わなくてはならないことだろう。
こっそり盗み見るっていうのは男らしくないかもしれんが、気になってしまったんだ。
この衝動を抑えるのは難しい。
どうするか……。
逡巡の末、俺はひとり、頷いた。
見よう。
傷跡を。
まつりの、過去を。
好きだから。
少しでも、知りたいから。
彼女のことを。
よく考えてもみろ。
俺は、まつりのことを知らなさ過ぎる。
これから知っていくものだとは思う。何せ出会って一週間程度しか経っていないのだから。
まつりの前に座る。正座。
体を丸めて眠るまつりの両腕のそばに寄る。
まつりは右利きだからな。
切るとしたら左腕だろう。
まぁ、目の前に両腕あるんだから、どっちにしろ両手首を見てしまおうとは思うが、まずは左腕からだ。
「くー、くー……」
眠ってる時は無防備なんだな、しかし……。
俺は、自分の左手でまつりの左手を握って、空いている手で彼女の袖をまくった。
白い素肌が現れる。
綺麗だった。傷は無かった。
「ない……な」
まつりの右手首も見てみた。
これも傷は無かった。
「ない……か」
妙に安心している自分が居た。うーむ……。
傷跡は無いが、みどりが無意味に嘘を吐くとも思えない。
体のどこかには傷跡があるのではないか……。
調べてみよう……。
そして俺は、とりあえずスカートに手を掛けた。
「…………」
視線を感じた。
スカートの裾を掴んだ俺の右手に注がれたまつりの視線。
「あ……」
「…………何してる」
「スカートがめくれてしまっていたので直してあげてました」
嘘である。
「そうか」
言って、まつりは起き上がり、
ばこっ。
布団に座った姿勢のまま挨拶代わりに拳をくれた。
痛い。
「痛いっす、まつりさん」
「おはようの挨拶だ。ありがたく思え」
……何言ってんの、この娘。
「おはようございます」
さすがに、ありがとうとは言えなかった。
一応プライドは残っているんだ。
★
「……さて、間もなく、だな」
時計を見ると、秒針が九時十秒前を差していた。
そして――
数秒して、周囲の街灯が消えた。
そして、視界の手前から、俺たちを中心にして、放射状に闇が広がっていく。扇状に広がっていた明かりが、手前から消えていく。
街が眠る。
ただ、風の音がする。
おやすみなさい計画が、開始されたのだ。
そして世界は、暗くなった。
「暗いね」
まつりが言った。
「ああ、暗いな」
俺は応えた。
風車が回転する音と、風の音。
まつりが呼吸する音と、俺が発する音。
今、この街には、それくらいしかなかった。
「……見て」
不意に、まつりが言った。
「何を?」
「上」
言われた通りに上を見る。
すると、そこには――
「すげ……」
満天の星空だった。
いくつも流れていく、光の筋、流星も見えた。
「……っ、綺麗じゃん」
「ああ、何か、現実的じゃないな。星って、こんなに明るいんだな」
「うん……達矢の顔も、うっすら見えるよ」
「俺もまつりがちゃんと見えるぜ」
とはいえ、かなり暗いけれど。
「こんなに明るいんじゃ、皆、ちゃんとおやすみなさいできないんじゃないかな……」
皆ってのは、街にたくさん並んでる風車たちのことだろうな。
「大丈夫だ。お前の大好きな風車さん達……たけだも、やまざきも、ジョセフィーヌも、そしてのむらも、休むときには休める優秀な奴らだ」
「そっかぁ……」
「それに、騒がしいお前がいなくなったら、街は眠ったように静かになるだろ」
「…………」
よくは見えなかったけど、頷いた気がした。
「……ねぇ……達矢ぁ……」
涙声。泣いているのだろうか。
「どうした」
身を寄せてきた。
肩を抱く。温かい。
いい匂いがした。
「どうしたんだよ。お前らしくもない」
すると、震えた声で言った。
「達矢さぁ……あたしらしいって……何だい」
「すぐ殴るよな」
俺は言って、笑った。
「ごめんな、痛かったよな」
謝ってきた。珍しい。
「まぁな」
そして、まつりは、言った。
「おやすみなさい……」
きっと、街に向かって言った。
「おやすみなさい」
と俺も言う。
「達矢……あたしのこと、好きって言ってよ」
「いくらでも言ってやる。……好きだ」
「――死ね」
ここに来て、そう来るか……。
さすがまつりだ。
「あのなっ、お前はもっと好きな人に『死ね』と言われた時のショックを想像するべきだ!」
「じゃあ、言ってみて」
「えっ……」
「あたしに『しね』って言ってみて」
「い、言えるわけねえだろ! 好きなんだから」
「言わねえと殺すぞっ」
……何この殺伐会話。
普通、もっとこう、ロマンチックなシーンになったりするもんじゃないのか。
折角の満天の星空が台無しだ。
「ほら、言ってみてよ」
「じゃあ、一回だけだぞ……」
「ん」
「……しね……」
とてもとても小さな声で、言った。
もちろん本気で言ったわけではない。でも、胸がひどく痛んだ。
「うあっは、今、今すっごい胸がズキってきた。すごいキた!」
興奮気味に言うまつり。
「そう、それを俺は毎回味わっていたんだ」
「強いんだ……達矢」
「まぁ、そこそこにな」
俺は冗談っぽく笑って言うと、
「……抱きしめて良い?」
まつりがそんなことを言った。
「背骨折らない程度ならな」
「……バカ」
そしてまつりは、俺の背中に腕を回し、キュッと抱きしめてきた。
「…………」
俺も、応えるように抱きしめる。
「思ったより細いんだな、お前」
まったく、どっから人を天井までぶっ飛ばすほどのパワーが出てるんだか。
「……たし……」
「うん? どうした、まつり」
優しく、耳元で囁くように。
「あた、あたし……」
「どうしたんだ?」
迷子の子供に、問いかけるように。
「あたしも、もう……休んでいいのかな……」
「え……」
「もう、強がらなくて、いいのかな……」
そう……か。
「…………」
そうか。
まつりは、休みたかったんだ。
ずっとずっと強がって、強いフリして――
いや……「強くて弱いフリ」をして……。
その演じてきた役を、もう降りたかったのか。
「もう……強がらなくて……もう…………もう、休んで…………」
街を離れること。
それは、自分が変わること。
変わってしまうこと。
強がっていた弱さと、訣別すること。
「まつりが弱いなんて……誰が言ったんだっけ」
確か、みどりだ。
「弱くなんか、無えじゃねえか」
「ごめん……ごめんね……ごめんなさい」
殴るのは、愛だった。
蹴飛ばすのも、愛だった。
暴言も、愛。
みどりに対するモイストも、溢れるくらいに愛だった。
「好きだ、まつり。お前と一緒に居られる男は、俺しかいない!」
言って、更に強く、抱きしめた。
「達矢の制服……変なにおいする」
こいつ……。
感動のシーンを台無しにしやがった。
「まぁ、出会ってから、色々濡れたからな。りんごやら、コーヒーやら、雨やら、お前の涙やら……ホント、色々濡れたからなぁ」
「あ、洗ってねぇのかよ!」
拒絶の色で言って、離れようとしたが、俺は離さなかった。
右手で頭を捕まえて、ぎゅっとした。
肩に押し付けるように。
強く、全力で捕まえて離さなかった。
「いや、洗ったけどな、結構服についた色んな匂いって残るもんじゃないか?」
「洗ったなら……いいけど」
呟いて、離れようとする力はなくなった。
「じゃあ改めて言うぞ」
「……うん」
俺は大きく息を吸い込み、そして、
「好きです!」
言った。
「しねっ」
愛情溢れる暴言をくれた。
「お前って奴は、最後まで……」
「ねぇ、勝負しようか、達矢」
「今度は何だ、こんな時に」
「この先の人生でさ、どっちが先に老死するか、勝負だっ」
「最後の最後に変化球を使うな。お前らしくもない」
直球で、ずっと一緒に居ようとでも言えっての。
「……勝負するの? しないの? するの? それともするの? するの? しようよ?」
そして俺は、格好つけて言うのだ。
「望むところだ」
「おやすみなさい……」
「ああ、おやすみ、まつり」
【もしも上井草まつりのエリを立てなかったら おわり】