上井草まつりの章_3-5
六時限目。
これが、本日最後の授業。国語の時間が終われば、放課後となる。
なるのだが、とりあえず、その国語の授業風景は、異様なものだった。
国語教師が、生徒に音読をさせる。そんな当り前の授業内容が、常識が、この学校このクラスでは通用しないらしい。というか、上井草まつりが変な女なんじゃないかという疑惑でいっぱいになる光景だった。
「では、次の行から、風間。読んでみろ」
「はい!」
ここまでは、何の問題も無かったのだが、
「いまはもう自っ……分は、罪人どっこ……ろではなっく……狂人でし……た」
読みはじめて、途切れ途切れに、苦しそうに声を出す史紘。明らかにおかしかった。
そこで、教科書から目を離し、彼の方に目をやった時、俺は目を疑ったよ。
「いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。うっ……一瞬間といえども、狂ったことはないんです。けれども、ああっっく……狂人は、たいてい自分のぅ……ことをそう言うものだそうで……っす……」
何かの病気か、いや、そうじゃない。原因は背後の席の女にある。つまり、上井草まつりが原因。
「つまり、この病院にいれられたものは気……違い、いれられなかったものはノー……ぉうマルということになるっ……ようです」
風間史紘は、シャープペンの先でプスプスと背中を刺されていて、とても痛そうだった。それは、衝撃的光景。俺は開いた口が塞がらなかった。
上井草まつりは、ペン先で風間の背中を刺しながら、彼の体が刺すたびに弓なりに弾けるのが楽しいらしく、クスクス笑いながらプスプス刺していた。
「神に問う。……無抵抗は罪なりや!」
それはもう、太宰治の『人間失格』の音読というよりは、風間史紘の魂の叫びだった。
そんな背中を見て、まつりは笑う。
「っふっはは……」
何が面白いんだ……。
シャープペンで他人の背中を刺してクスクス笑う人間って、どうなんだ。
人格を全力で疑いたいぞ。それこそ人間失格の烙印を押してやりたいくらいだ。だが、あいつはああいう変な奴で、それはもう仕方のないことだ。だが、だが、それにしても、あそこまでいくと、さすがに行きすぎだろう。
そこでチャイムが鳴った。
で、さらにもう一度チャイムが鳴って、教師が来て、ホームルームをして、放課後になった。掃除のために、机は全て後ろに下げられる。まつりは、すぐに教室を出て行った。そして俺も、
「さて、帰るか――」
などと言いながら帰ろうとした。が、
「待ってください、戸部くん!」
む、みどりが話しかけてきたぞ。
「あー、さっきは、ごめんな。モイストさせてしまった」
「いいです。期待してないですからっ」
怒ってた。
「それで、何か用か?」
するとみどりは、箒を差し出して、
「とりあえず、これ」
と言って来た。
「何だ、これは」
「ほうき」
「そりゃ見ればわかる」
「箒は掃除をする道具です」
遠まわしに言って来た。掃除をしろ――と。
「俺、掃除当番なの?」
「はい。窓際後方班が掃除です。一人欠員が出てるので、美化委員のあたしが、えっと、補充要員として……」
「なるほど」
ていうか、美化委員だったのか、みどり。
「それと、帰りに用があるから」
「帰りに用……。それは、一緒に帰りましょうってことで良いのか?」
「うん」
「女子と下校だと……」
何だそのトキメキシチュエーションは。
「とりあえず、掃除しよ、戸部くん」
「おう」
みどりと一緒に掃除する。
俺は、みどりに質問があった。
「……あのさ、一つ訊きたいんだけど……」
「何ですか?」
「風間史紘とまつりって……何なの?」
「何でそんなこと訊くんですか?」
「そりゃまぁ、だって授業中もおかしかったじゃねえか。シャープペンで背中刺されてさ」
すると、みどりは、
「彼は、まつりさんの下僕なの」
変なことを言った。
「はぁ?」
下僕だと?
「転校してきてすぐに、彼、イジメられたの。ほら、この学校は、不良多いでしょ? それも古臭い感じの悪い人たちが」
「ああ、世紀末っぽい奴らとか、髪型が鋭利な奴らとかだな」
「それで、ほら、風間くんって、少しイジメられオーラ出てるじゃない?」
「まぁ、わからないでもないな」
「案の定、激しいイジメに遭ってね」
「それで、まつりが助けたってわけか」
「そうね。そうなるかな」
「何かスッキリしない物言いだな。まだ何か問題でもあったのか?」
「うーん……『フミーンをイジメていいのは、あたしだけよ』って言って、彼をイジメてた不良どもを全員病院送りにしたんだけど」
「まつりらしいな」
「でも、その後まつりちゃんによる不良たちよりも更に激しいイジメが始まったの」
「悪化したと。それもまつりらしいな」
「うん。そうなんだけど、でもなんか風間くんは喜んでるみたいだから……おかしな人だよね。二人とも」
「ああ、かなりおかしいな」
「でも、戸部くんも他人のこと言えないな」
そう言って、笠原みどりは笑った。
で、掃除が終わって、「一緒に、帰ろ」と言ったみどりは、微笑んだ。商店街の看板娘らしい素敵スマイル。
そんなわけで、俺とみどりは風車並木の坂道を下る。
周囲には見晴らしの良い草原。前を向けば、湖と、裂け目と、その向こうの海が見えていた。
「…………」
「…………」
沈黙である。
学校を出てから、みどりはずっと無言だった。
無言というものは、人を圧倒的に不安にさせるぜ。しかし、俺も引っ越して来たばかり。あまり会話のタネも無いわけだ。せっかく二人きりで帰ってるのにまつりの話をするのも何だか嫌だしな。あとは……「ツッコミやらないか」って言ったら転がるように下り坂ダッシュで逃げられそうだしな。というわけで話題が無い。
だが無理矢理にでも声を出さないと、段階的に不安が大きくなっていってしまう。
手遅れになる前に、俺は晴天に向けて手を伸ばし、
「ぁぁぁ…………」
と、わざとらしい欠伸をした。
「…………」
無視である。
「…………」
向かい風の中を二人、無言で坂を下っていった。