大場蘭の章_7-6
しばらくして、
「キャアアアアアアアア!」
遠くから、悲鳴が聴こえた。RUNの声だ。
そこで、俺は、勢いよく顔を上げて、教室後部の引き戸を見た。
「イヤアアアアアアアアアア!」
その悲鳴はだんだん近付いてきて、
そう思った次の瞬間――
視界にRUNの姿が飛び込んできた。
「なっ――!」
しかもバスタオル一枚でっ!
頭に泡つけたまんまで!
「出たぁああああああああああ!」
そして泣きながら抱きついてきた。
「な、なななっ、ななっ!?」
言葉にならない。
モイスターソースの甘ったるい匂いがする。
「出たのおおおおおお!」
「な、何だ。何なんだ! 何が出たと?」
まさか、また理科室前で出たあの幽霊がっ!?
「幽霊! 幽霊! シャワー室で、ニコって笑って『懐中電灯……』って言ったのおおおおおお!」
「何だとぉ!?」
「こわかったぁ……ぅえ……ひっく……」
泣いてる……かわいそうに……。
そりゃあ、そんなこわい目に遭ったならな。
「だから言ったろ……七不思議をナメるなって」
「うん、ごめん、今度は、今度は、次は、言う通りにするからぁ」
と、その時、ぼすっと鞄が廊下に落ちるような音がした。
「……うっく……ひっく……」
RUNは泣いている。
俺は鞄が落ちたような音が何の音か気になって、音のした廊下の方を見てみると……。
ポカンと口を開けて、言葉を失った様子で立っている女が一人……。
それで俺は、一気に冷静になった。
ちょっと、まずいかもしれない。髪を濡らしたバスタオル一枚の元アイドル歌手が、俺に抱きついていて、しかも泣いている状況で……。
すごく……まずいかもしれない……。
次の瞬間、はらりとバスタオルが床に落ちた。
RUNは素っ裸。肌が、あらわに……。
あられもない、姿に。
「あ……いや……これは……その……」
笠原みどりは、不審と怒りを全面に押し出した声色で、
「……どういうこと?」
そんなみどりの声が耳に入っていない様子のRUNは、
「ごめんなさい。もう、逆らわないからぁ。言う事聞くからぁ」
これこれ。誤解を招く発言をするな……。
まだ泣いている。俺のワイシャツにしがみついて泣いてる。
さすがにそのままにさせておくわけにはいかず、優しく押し離すと、RUNは床からバスタオルを拾い上げ、それで涙を拭いた。
まずいなぁ……実に、まずいなぁ……。
「違うんだ」
俺は言った。
「――何が?」
厳しい口調。
責めるような目に射抜かれる。背後に龍が見えた気がした。
「何もやましいことはしていない!」
弁解してみる。
「この状況でなお、言い逃れをする気でいるの?」
どうしよう。聞く耳を持ってくれない。
「あ、みどりちゃん! こわかったよぅ……」
RUNは俺から離れ、みどりに抱きついた。
裸で。小さなヒップが震えている。
「よしよし……こわかったね……」
みどりは裸のRUNを俺から隠すようにして抱きしめている。
もはや長くないであろう俺の人生において、同級生の背中に、こんなに恐怖を抱いたことはない。
「うん……」
濡れた髪をなでなでされてRUNは安心しているようだ。
なんか、風向きが怪しい。
「みどり。あらゆる誤解をしないようにお願いしたい」
「何が誤解? 教室で女の子を襲うなんて、信じられない!」
疑われている。
状況から考えれば当然の流れ。
いやしかし、襲ったなどというの事実ではない。ここは正当な弁解をするしかない。
「違う! 襲ってなどいない!」
「じゃあ、さっきRUNちゃんが言ってた『言う通りにするから』っていう言葉は何!?」
「あれは……俺がオバケが出るぞと言ったのに、その忠告を聞かずに俺を置いていこうとしたから……」
「そう言って脅したのね。この人でなし!」
「違う! 違うぞ!」
「RUNちゃんを泣かせただけでも大罪! さらに、オバケをダシにするなんて卑怯にも程があるわ!」
「そ、そんなつもりじゃぁ……」
「無意識でそんなことできるわけないよね! 戸部くんが策を弄したんだよね!」
「誤解だ!」
みどりはRUNちゃんに話しかける。
「誤解じゃないよね、ヒドイことされたんだよね。RUNちゃん」
「え? いや……そこまでは……」
「おい、そこまではっていうか、何もしてねぇだろ!」
「大丈夫なんだよ。もう言っても。ひどいことされたんならされたってはっきり言っても、もう大丈夫だから、ほら」
「いや……別に……」
「……ふっ、ここまでヒドイ脅しとはね!」
「いやいやいやいや、待て待て待て待て。何故そう決め付ける!」
脅してなどいないのに!
「何故ってそりゃ……状況証拠だらけだもの!」
「ま、まて。とりあえず、RUNちゃんに服を着せてやらないと……このままじゃ風邪を引くぞ」
RUNはハッとして、
「あ、せやな。服、ふく……」
「紳士ぶっちゃって……どの口が……」
「いや、あの、みどりさん……さっきから言っているように、誤解っす」
「ところで服はどうしたの? RUNちゃん」
今度は無視っすか……。
「シャワー室に置いて来てもうた」
「なるほど。つまり、こういうことね。まず、RUNちゃんがシャワーを浴びていたところに、戸部くんが闖入した」
「違う」と俺は否定する。
「ええい、うるさい」
反論を認めてくれない……。
「そして戸部くんは、シャワーを浴びるRUNちゃんに襲い掛かった。慌てて逃げるRUNちゃんはバスタオルを掴み、貞操を守ろうと必死に逃げ回った。それを恍惚の表情で追いかけた戸部くんは、ついにRUNちゃんをこの教室に追い詰め、力づくで色々しようとした! 暴力的な言動で脅して、うへへへと」
「そんなわけないだろうが」
何がうへへへだ。
「開き直ったわね」
「えぇっ? 全く開き直ってねぇぞ!」
単純に否定しただけだ!
何だこの会話の食い違いは!
そして、みどりは言う。
「まつりちゃんに、言いつける」
「やめてください」
「ん。それを嫌がるってことは、やましいところがあるってことね! ようやく認めたわね!」
「そうじゃない。あいつは容疑だけで容疑者をボコボコにするような理不尽な女だろう。それはお前が一番よく知っているはずだ」
「知ってるけど、今日の戸部くんのは、明らかに現行犯なんだから、ボコボコにされても文句は言えないもん」
「だから、違うっての」
「あの……達矢くんは……」
「RUNちゃんは黙っていて。脅されている人の証言なんて、何の効力も無いわ」
「だから、脅してないってば。な、RUN」
「うん」
こくりと頷いてくれた。
「ほら、今、イエスの返事を強要した」
「なにぃ!?」
こうして冤罪が出来上がっていくのか!
「もう話し合ってもムダのようね」
どこが話し合いだ。
一方的に俺を犯人と決め付けて裁こうという……。
法廷で満員電車での無実の痴漢容疑者を裁くようなアレと同じではないか。
理不尽すぎる!
俺もこのまま有罪になってしまうのか!
「さ、RUNちゃん。シャワー室にお洋服取りに行きましょうか」
「え……うん」
RUNは、みどりの手でバスタオルをかけられ、肌は隠された。
そうして二人、教室を出て行った。
「何だってんだ……」
二人を見送った俺は、RUNの髪で濡れた制服の胸の部分を押さえた。
シャンプーの匂いがした。