逃避行の章_4-10
さて、ショッピングセンター住み込み労働の第一夜にして、俺は限界を迎えた。
いや、仕事が大変で限界になったわけではないのだ。お客さんの数も少なかったし、テレビの運搬や設置もさほど重労働というほどではなかった。
明日香とケンカしたのが疲れたというわけでもないのだ。
でも、確かに問題なのは、明日香。そう明日香だ。
宿直室というのはいくつか存在するらしいのだが、俺たちにあてがわれたのは部屋一つである。つまり、この八畳の空間で、俺と明日香は一緒に……寝るということになるわけで。
気になる可愛い女の子と同じ部屋で二人きりでいるのに、高校生らしく不純にイチャイチャしたい気持ちを我慢するというのは、それは拷問に近い。
何の試練なんだろうなぁこれは。
六月とはいっても、風の強いこの町は夜にはけっこう気温が下がるから、布団が無いと肌寒い。
前にも言ったように、俺は家電売り場でのバイトを選択したから明日香よりも早く業務が終わって、その布団に包まって寝てるのだが、明日香は夜遅くまで営業するレストランのウェイトレスを選択したので、俺より部屋に戻るのが遅い。
何だか眠かったし、明日香も先に寝てていいと言っていたので先に寝ていた。
すると明日香は俺の布団にもぞもぞ潜り込んでくるという、俺の心臓を破ることが目的であるかのような行動。
しかも、布団一つしかないわけじゃない。しっかりと二人分、押入れに畳まれている。
はっきり言って、明日香は自分の可愛さとか、自分が女子であることとか、そういったことを大いに失念しているに違いない。
あくまで俺は男なんだ。
仕事で疲れて寝ている風呂あがり(宿直室の近くにシャワー室がある)の良い匂いする明日香が俺と密着する形で眠ってるなんて、これはもう、火照った体が落ち着かない!
俺は明日香を起こさないように、そうっと布団から抜け出た。
このまま何かの限界を突破してしまったら、俺は校則で強く禁止されている不純な何かに手を染めてしまうという確信があったからだ。
「ちょっと、頭冷やさないとな……」
俺は赤くなっているであろう頬を掻きながら立ち上がり、明かりの多くが消えた真夜中のショッピングセンター内を懐中電灯片手に探検してみることにした。
基本的にはシャッターで封鎖されているのだが、どういうわけか開いている部分がところどころにあって、その隙間を縫って移動する。
探検も何だか楽しいもんだった。
「しっかし、何してんだろうなぁ、俺」
寮を追い出されて、女子と一緒に住む展開とか、だいぶ意味わかんねぇ。
こんなつもりじゃなかった。
できれば、元いた都会にさっさと帰りたかった。
けれど、もうこうなってしまったら更生どころではないので、それは無理だろう。
――この町を無理矢理抜け出さない限りは。
明日香が抜け出したいって言い出さない限りは、俺もこの町に留まるつもりだ。ただ、もしも本当に明日香を狙っている誰かが居るとしたら、やっぱり遠ざかるべきだろうとも思う。
薄暗いスポーツ用品売り場で金属バットを素振りしたり、真っ暗な家電売り場で深夜ショッピング番組を存分に観賞したり、真っ暗な食料品売り場でちょろっと床に落ちていた魚肉ソーセージを味見したり。
そして俺は、地下へと続く階段を発見し、好奇心から階下へと足を進めた。
地下には、駐車場があった。
この町は車が使えないほど風が強いので、どっから車が来るんだかって思ったが、一応南のトンネルがあるのだから、物資運搬のために駐車場があってもおかしくはない。
「駐車場か……」
俺がなんとなく呟いたその時だった。
「何してんだ、達矢」
「うぇ!」
若山さんの背後からの落ち着いた声に、俺は体を弾ませて驚きを表現した。若山さんのその声は、まるで生徒が自分に対して黒板消し落下のイタズラを仕掛けている場面を目撃した教師が発する音程に似ていた。優しく咎めるような声とでも言うのだろうか。
「若山さん……」
「散歩か?」
「そうです」
「お前、店の魚肉ソーセージ勝手に食ったろ」
「うげ、なぜそれを……」
「世の中には監視カメラってもんがあってな。それで怪しいヤツが居たから足取りを追ってきたんだが、何かをお探しかな? たとえば町の外へ続く地下のトンネルとか」
「いや、そういうわけでは……」
「でも心のどこかでちょっと探そうとは思ってただろ。あわよくばって感じで」
「おぼろげに……」
なんとまぁ、見破られていたか。
「残念だが、階段からじゃ無理だぞ。地下にあるトンネルはこっちだ」
「え……」
「来い、案内してやる」
俺は戸惑いながらも、歩き出した若山さんの後に続いた。
若山さんと俺は、エレベーターに乗り込み、呼び出しボタンとは別の隠しボタンを押した若山さんが『R』『2』『1』『B1』という文字が踊る丸いボタンを特定の順番に、同時押しなども駆使しつつ十回以上素早く押した。どうやら暗証番号入力でロックを外したらしい。
エレベーターはゆっくりと動き始めた。そのままずいぶん深い場所へと降下を続ける。
「まぁ、社内の人間でも、このトンネルの存在を知っている人間なんて、皆無に等しいんだがな。というか、実はこれはおれも今日知ったことなんだが、ここに来たおれの任務ってのがさ、意外と重要だったって話だ」
「はあ」
「もしもの話だが、紅野明日香が本当に誰かに追われてるとしたら、その相手は一筋縄ではいかない。はっきり言えば――」
そして、地下深くまで降りたところでエレベーターの扉が開き、目の前には、真新しいパーカーに手を突っ込んでバナナをもぐもぐしている明日香の姿。
「――逃げるべきだろう」
「や、達矢」
「明日香?」
「おれがここに連れてきた。逃げてもらうためにな」
「えっと……何者なんすか、若山さん」
「そうだな、わかりやすく言えば、店長だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「そうは思えないんですけど」
「いや、そのまんまの意味だ。良心的で善良な店長でしかないぞ、おれは。決して怪しげな組織の一員ってわけでもないんだ。その組織に協力している企業の一員ではあるけどな」
俺と若山さんはエレベーターの外に出て、明日香の前に立った。
広い通路には、抱えることのできるサイズの箱が高く積まれている。
パラパラと無造作に転がっているのは、銃弾……にも見える。
何だか恐ろしい。
「だから、まぁ、少し色々なことを知ることになっちまって、それで良心を痛めたおれが今、独断でお前らを逃がそうとしてるってこった」
何だろう。若山さんは何を言ってるんだろう。
「お前らは運が良かった。あの上のトンネルでお前らを捕まえた警備員はおれの部下だからな。もしも別の警備員に捕まってたら、少々目を背けたくなるような事態になったかもしれんぞ」
「え? どういう……?」
「確かに紅野明日香を狙ってる連中が居るってことさ」
「うそでしょ……」
明日香はバナナを食べ終わり。口元を手の甲で拭ってバナナの皮を身長くらい高く積まれた箱の上に置いた。
「嘘は言っとらん。ただ、おれは女子高生拉致を試みる連中に協力する気はさらさら無いってだけの話だ」
「なんか、わけわかんないことになってる気がするんですけど、明日香は本当に狙われてる身で、明日香を狙ってる連中が悪いやつって話ですか?」
「悪かどうかなんてのは一概に言えないがな、少なくともおれは連中が気に入らないんだ。だから、もうこの際だ。エリート街道から外れてでも連中を裏切って紅野明日香を逃がす大決断をしたんだ。これがどんな大決断かっていうと、もうルビコン川に賽を投げ込んだ後にブルータスを暗殺するみたいな感じだ」
「サッパリなんすけど」
「達矢には難しかったかな、ハハハ」
なんか、うぜぇ。つーか誰にも意味通らねぇだろ、今の喩え。なんとなく雰囲気はわかるけども。
「ま、おれにもよくわからんのだが、紅野明日香ちゃんを狙っている敵は、いたいけな少女を何か嫌なことに利用しようとしている。利用できない場合は、殺してしまうのも視野に入れてな」
殺してしまうって、何だそれ。ここは本当に現実世界なのだろうか。
「というわけだから、二人には逃げてもらうぞ」
「でも、どこに繋がってるんですか、この通路」
すると若山は、聞いた事ある地名を口にした。
「それ、世界的大都市じゃないっすか」
「ああ、そうだな。人口が何千万人も居るような狂ったような大都市だ。まぁ、おれがここに来る前に居た場所なんだが、そこは多少特異な経歴を持つ人間が紛れ込んでもそうそう気付かれない所なわけだ。まだ連中は紅野明日香がこのショッピングセンターに居るって情報は掴めていない。だから、紅野明日香に逃げてもらうのは、今しかないのさ」
明日香は何かに利用されるような力を持っていて、使うことができないなら殺されてしまう。それを若山さんが逃がそうとしてくれている。そのタイミングは今しかない。
意味わからん。都合が良すぎるし、本当に変な話になってしまってるし、若山さんを信用して良いのだろうか。
「無事に逃げてもらえれば、後は何とでもなる。連中にとって紅野明日香という少女が重要なカードなら、おれがそれを握ってやるってことだ」
「なんか、燃えてますね、若山さん」
「ああ、おれはアツい男なのさ」
「よくわかんないけど、この町から出なくちゃいけないのね」
明日香は寂しそうに呟いた。
きっと、迷ってるんだろう。
そりゃそうだ。
明日香は三人の部下を持つ風紀委員長なのだから。そして、ショッピングセンターの洋食レストランでアルバイトもしている。
そんな新しく手にした蕾のような人間関係を捨てて、『誰かに追われている気がするから』という不確かな予感を根拠にして町を去るのは、気が進まないのだろう。
ただ、若山さんの言うことを丸呑みで信じることは到底できないが、俺の中では何か嫌な予感があって、その予感が「逃げろ逃げろ」と騒いでいる。
「明日香。この町を、出よう」
何となく、何とかなる気もしている。
俺と明日香なら大丈夫だって、根拠なき確信がある。
ただ、かざぐるま行きになるような男女二人が、町の外に出たところでマトモに生きられるかと言われると……。
きついと思う。現実的に。
俺たちは、絶望的なまでに子供で、もしも、このまま逃げて、都会で生きていくと言うのなら、多少の悪には手を染めてしまいかねない。
そのくらい、弱い。
まぁ、たいがいに人ってのは弱いけどな。
俺は短絡的で、無軌道で、幼い。
救えないバカでもある。
明日香は器用で何でも人並み以上にこなすけど、経歴がマトモじゃなくなってしまったら、マトモに生きるのは難しいのではないか。
これから先、学ばねばならないことが多すぎる。
つまり、だから、この町を出ないで更生して合法的に出て行く……というのが比較的正しい選択。のはずだ。
でも、俺の予感は告げている。
――今すぐに、この町を出て行かないと何か良くないことが起こる。
漠然とした不安を無理矢理カタチにしたいのかもしれない。
それを動機にして、理由にして、逃避したいのかもしれない。
現実めいていて、現実感の無いこの町から。
いい加減に生きてきて、更生するために送られて来たのに、こんな考えを抱くなんて、俺は心底腐ってるのかもしれないが、何度も言うように、これは理屈じゃない。
「この町を出て、二人で生きていこう」
「達矢……」
「何だかよくわからんが、ここに居てはいけない気がする。明日香が逃げたくないってのはわかるが、俺たちは逃げなくちゃいけない」
「なんで?」
自然な言葉だと思う。
不思議そうな顔をするのも、当たり前だと思う。
逃げねばならない理由が見当たらない。
本当に明日香が誰かに追われているという確証は皆無。
若山さんが信用できるかどうかも定かではない。
こんな状況で、俺が飛びつきそうな大事なことをホイホイ提案するなんてのは怪しさ満点だ。
だがな。だが、
「明日香は、感じないか? 何かこう、強烈な黒い予感つーか、嫌な感じの粒子が胸の中にワァーって湧いたりさ」
「そう言われると、うん。嫌な感じするけど」
「だから、逃げるぞ。大丈夫だ。まつりとか、志夏とか、フミーンとかとは一時的に別れるだけで、絶対また会える。勉強が遅れたりしないかなんて心配はそもそも無用だ。あの学校は大半が自習だからな」
明日香は黙っている。
「しばらく。ほんの少し、この胸にべったりとまとわりつく嫌な予感が無くなるまで、この町を離れよう」
明日香は数十秒という長い時間、アレコレと考えた上に吹っ切れたような表情になって、大きく頷き、俺の左手を掴んだ。
「話はついたか、お二人さん」
「ええ、若山さんの言うとおり、明日香と俺は逃げることにします」
「そうか。英断だな」
「じゃあ、うん、行こうか。達矢」
それは、とても軽い。下校の時に「一緒に帰ろうよ」と声を掛ける時のような。
「ああ、行くぞ、明日香」
「じゃあ達者でな」
その声を、俺たちは背中で聞いた。
歩き出す。
風の無い、白い照明に照らされた小さなトンネルを。