紅野明日香の章_4-1
もう、四日目になったんだな。
そう思いながら、俺は日課になりつつある朝シャンを敢行していた。
潮風が原因なのか水道の質のせいかわからんが、髪がちょっとパリパリになるのは難点だが、三日学校に通ってみて、随分この街を気に入ってきている自分がいて、これからの生活も楽しみだ。
知り合いも結構増えたしな。
一緒に転入した紅野明日香。
女番長の上井草まつり。
級長にして寮長にして生徒会長の伊勢崎志夏。
商店街の看板娘である笠原みどり。
昨日知り合った男子の風間史紘は、まだちょっとよくわからないが。
女の子が多すぎて憶え切れない気がしていたが、親しくなれば当然、憶えられるわけだ。
「たった四日って、気がしねえなぁ」
もう皆と、随分長く一緒に居るイメージがある。強烈に。
「しかしまぁ、今日はどうしようかな」
特に予定が無い。
以前住んでいた街に居た頃には、休日になると友人と遊び歩いたりしていたのだが、ここでは、そもそも友人というものが居ない。
ゆえに、誰かと遊びに行ったりできない。
「散歩でも行くか」
まだ、この街のことをそれほど知っているわけでもないしな。
よし、そうしよう。
バスルームを後にした俺は、黒い無地の長袖シャツに袖を通した。
朝食の後に散歩に出た。
空を見ると、風に整形された雲たちがいくつも浮いていて、それも綺麗だ、とか思った。
しばらく目的地を決めずにブラブラしていると、風の強い開けた場所に辿り着いた。
湖だ。
裂け目の手前にして、学校から続く下り坂の終点。円形と三角形の二つの浮島のある湖。級長いわく、海に近いが淡水であるとのことだ。
で、そんな湖に何か用事があるわけではなかったのだが、何故か俺はこの場所に来なければならないような気がしていた。
だがそこに誰か知り合いが居るわけでもなく、視界にあるのは知らないオッサンが一人で釣りをしているという光景だけだった。
釣り、か。何か釣れるのだろうか。
「…………」
まぁ、釣りのオッサンなんてどうでもいいか。
この街には、まだ見るべき場所が多くあるんだ。
とりあえず踵を返し――
「よう、ニイちゃん」
げぇ、あっちから話しかけて来やがった。
「え」
声を漏らしながら振り返ると、
「暇だなぁ、お互い。こんな何も無え所に来るなんてな」
どことなく知的な笑いを浮かべた男に話しかけられていた。明らかに俺に向かって話している。ちなみに、よくよく見てみるとオッサンと言うには少し若いかもしれない。
「はぁ」
気の無い返事してみる。
「おれは若山ってんだ。英語で言うと、ヤングマウンテン。お前、名前は?」
「戸部達矢です」
「トベタツヤか。ベタベタしてツヤツヤしてるのか。油みたいな名前だな」
「んなおかしなこと言われたの初めてですけど、とりあえず失礼ですよ?」
「ああ、すまんすまん。クセでな」
どんなクセだ。
そして若山という男は、胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火を着けた。煙を吐き出す。
「それじゃあ、俺はこれで」
などと言い残し、俺はその場を去ろうとしたが、
「まてまてまて」
俺の肩は立ち上がった若山に掴まれた。
「何ですかっ!」
「まぁまぁ、聞いてけ聞いてけ、おれの話を」
若山は、俺の肩をぐいと押さえ込むようにして芝生の上に無理矢理座らせると、自分も座り、火の着いた煙草を、取り出した携帯灰皿に押し付け火を消し、そのまま入れて、携帯灰皿を閉じた。
「それで、何なんですか、一体」
「おれはな、エリートだった」
「は?」
「比較級で言うなら、最上級。エリーテストだ」
「へ?」
「エリート・エリーター・エリーテストだ」
何だ、この変な人。
「だが、今、この場所に居る」
「はぁ」
「何でおれは今、この場所に居るんだろうな」
知るものか。
「おれの居るべき場所とは思えないんだが」
「はぁ」
「お前は、何しでかしたんだ? こんな街に飛ばされて来るってことは何か、やらかしたんだろ?」
「いえ、特には」
「そうか、おれと一緒だな」
「ただ、遅刻とサボりを繰り返したりはしましたけど」
「何、それだけで? 運悪いなオイ」
そうなのか。運悪いのか、俺。
「でもな、おれは遅刻もしてないんだぞ。幼稚園時代から皆勤賞を続け、常にトップを走ってきた。なのに、かざぐるま行きになるってな……世の中狂ってる」
「何もしてなくても、かざぐるま行きになることがあるんですか?」
「上司が行けって言えばな。嫌われてんのかな、上司に」
「あぁ、なるほど……」
「『期待の表れだよ』とかって励まされたが、厄介払いかもしれん。やめてぇー。マジ会社やめてー」
若山は溜息交じりに言った。
「でも、いい街じゃないですか」
「いい街だぁ? 都会には、もっと色んなものが揃うだろうが。ここじゃあ最新の電化製品が揃わないんだよ!」
「電化製品、ですか」
「そうだよ! 電化製品。日進月歩の世の中で、その先端を走りたいんだ、おれは! だがそれができない。何故だ! 物資が乏しいからだ!」
「でも、ショッピングセンターが、できたじゃないですか」
「あんなもん、都会の商品展開から三ヶ月は遅れてる」
「そうなんだ。詳しいですね」
「ああ、おれの店だからな」
「え?」
「何でおれが、あの店の店長なんかやらされなきゃならんのだ」
「店長? あの大型ショッピングセンターの?」
「そうだって言ってるだろうが」
「あれ、でも、今営業中じゃ」
「ああそうだな。休日の、書き入れ時ってやつだ」
「じゃあサボりじゃないですか。サボった事ないって言ってたくせに」
「そうだ。サボりだ。おれは、この街に来た時、不良へ生まれ変わると決めた。煙草にも挑戦した。どうだ、不良へのステップを登っていっているだろう?」
威張って言う事ではないと思う。
「まぁ、アレだ。おれが居なくても、店の売り上げは大して変わらん。おれはアイドルでもないしな」
「はぁ、そうですね」
もう解放してくれないだろうか。折角の休みの日に、男の愚痴を聞かされ続ける苦痛を考えて欲しい。それはそれは、つらいものだ。可愛い女の子の愚痴ならまだしも。
「なぁ、アブラ」
「それまさか、俺のことじゃないですよね。アブラって。ベタベタツヤツヤだからって……」
「じゃあ、アブラハム」
「ちょっと変えても嫌です。やめてください」
「ええい、わがままな奴め」
「何なんですか……」
しかし俺が呆れかけていた時、急に真剣な顔になった若山は、
「……達矢」
「何です?」
「知ってるか? この街の、抜け出し方」
「え?」
「おれなりに考えてみたんだ。この街の脱出方法をさ」
「脱出……」
考えもしなかったな。脱出なんて。
更生する気満々だったから。というか今だって更生する気でいるぞ。優良な人間になりたいと。それが当然の感情だと思った。でも、
――逃げる。
その選択肢も、あるのかもしれない。
「いいか達矢、この街は山に囲まれている。その険しさたるや、想像を絶するほどだ。高圧電流が流れるフェンスがあるなんて噂もある。ただ、そんなフェンスが無かったとしても、とても越えられる山ではない」
「はぁ」
「かといって、海から抜け出すには、あの裂け目を通るしかない」
「でも、あそこは――」
「そう、常に強風が吹き荒れているし、観測の名目で監視されている」
「え、そうなんですか?」
「そうだ。と、なれば、残る方法は何だと思う?」
「空か、地下」俺は答えた。
「その通りだ。風車を回転させた風は、山肌を駆け上り上昇気流となる。その流れに乗ることができれば、街の外へと飛び出せる。ちょい危険だがな」
「ちょい危険ってレベルではない気がしますよ?」
「地下にはトンネルが……おっと、これは社内秘だった……地下にトンネルがあって、街の外と繋がっているなんてのはな」
「ええと、社内秘ってことは、社内でさえも秘密なことですよね。思いっきり言ってますけど」
「はっ、しまった。つい不良なことをしちまったぜ。おれとしたことが!」
わざとらしい口調だった。何なんだ、この人。
「こうなれば、お前は、おれの店でバイトするしかない」
「は?」
「おれがサボりたいから、仕事を押し付けることのできる誰かを探していたのさ。できるだろ、電化製品の修理くらい」
「いやいやいや、嫌ですよ、そんなの! ていうか、できないです!」
すると若山は諦めたような口調で、
「はぁ……やっぱダメか。そうだよな。あーあ、面倒だな、仕事」
「でも、本当なんですか?」
「何がだ」
「地下にトンネルがあって、街の外に……」
すると若山は、周囲をキョロキョロ見渡して、誰も居ない事を確認した後、小声で、
「本当だ。品物をこの街に運び入れるために、店の南側にある地下のトンネルを利用してるんだ。内緒だぞ」
と言った。そして続けて言うのだ。
「これ、他の人間に喋ったら、ちょっと大変なことになるからな」
それを何で初対面の俺にペラペラ喋ってんだ、この人は!
俺に精神的負担を掛けるのが目的なのか!
何なんだ、この人は!
「おっと、そろそろ雨でも降って来そうだな。戻るとするか……我が店に」
若山は空を見上げながら言うと、
「よっこらしょ、と」
オッサンのように言って、立ち上がり、
「んじゃ、またな。アブラハム」
「達矢です!」
俺も立ち上がりながら叫ぶように言った。
「どっちでもいいじゃねえか、名前なんて」
不良だ。名前って大事だろう。
「まぁ、そうだな。またな、達矢。バイトする気になったら、いつでもウチの店に来ていいぞ」
「しないですよ」
「まぁまぁ、やる気になったらで良いからな。じゃあな」
言って、手を振ると、南の方角へと歩き去った。
空を見上げると、確かに空を暗雲が覆い、今にも雨が降り出しそうだった。
さて、これからどうしようかと思ったんだが、雨が降りそうなら、帰るとするか。