紅野明日香の章_3-5
さてさて、掃除が終わって、いざ帰ろうとなった時、
「戸部くん」
また誰かに声を掛けられた。
「んあ?」
アホっぽい返事をしながら振り返る。そこに立っていたのは、
「い、一緒に、帰りませんか?」
商店街の看板娘。笠原みどりだった。緊張した様子。
「嫌だったら、いいですけど、あの、お願いします……」
可愛い女の子に「お願いします」なんて言われたら、俺は断れませんね。
「ああ、いいぜ。帰ろう」
「うん」
「じゃあ、またな、史紘」
「ええ、また来週」
そうか、そういえば、明日と明後日は休日だ。
次に会うのは来週ということになる。
「行こう、戸部くん」
「ああ」
学校の敷地を出た俺とみどりは、会話なく風車並木の坂道を下る。
周囲には見晴らしの良い草原。
前を向けば、湖と、地の裂け目と、その向こうの海が僅かに見えていた。
「…………」
にしても、一体何の用事だろうな。ただ俺と一緒の帰り道を望むわけもあるまい。まして、笠原商店の看板娘、エプロンの似合う可愛いみどりちゃんだ。
で、そのみどりちゃんは、何か言いたげな素振りを見せながらも黙っていて、俺の視線を感じると目を逸らしたりしていた。
「あの、俺に何か言いたいことあるの?」
「な、ないです!」
「え、ないの?」
じゃあ何で、一緒に帰ろうなんて言い出したんだろうか。
「いえ、嘘です。あります、けど……」
何なの、この子。
「…………」
で、押し黙る。もう何が何だか。
「…………」
無言というものは、人を圧倒的に不安にさせるものだ。しかし、俺も引っ越して来たばかり。あまり会話のタネも無いわけだ。昼間の会話では、そこそこ盛り上がったわけだが、どういうわけか、今はそういう雰囲気ではない。
そこで、まぁ、真面目な話を振るべきか、軽い話をしてみるか迷った末に、
「店は、どうなんだ?」
何だか中途半端な質問を選択した。
「え、どうって?」
「まぁ、その、な。売り上げっての? 儲かってるか?」
すると、
「全然だよ!」
突然、声を荒げる笠原みどり。ちょっとびっくりした。
「そ、そうか」
「そうだよ! あの突然できた巨大なショッピングセンターの所為で!」
「あ、ああ、ショッピングセンターな。話に聞いたことはあるぞ。この町に来てすぐ誰かに聞いたからな」
「行って見てくればわかるよ! 良い所なの! 何でも揃ってる! あんなの、商店街の品揃えの悪いお店が勝てるわけないでしょ!」
「そ、そうか」
「でも、どうしてこんな街に参入してきたのかわからないけど、それで街の人たちが幸せを感じるなら、あたしの家のお店が割を食うのも、仕方ないって。それでも、このままじゃ、お店が潰れちゃうの! どうすればいいのかなんて、あたしにはわからないよ……」
「そ、そりゃ、大変だな……」
「そうなの。商店街の皆、気に入らないって怒ってる。でも、街の幸せを願うなら、怒る事の方が間違ってると思うのよ」
そんな難しい話をされても俺にはよくわからん。葛藤があるってことくらいは伝わったが。
「ホント、何でこんな街に」
笠原みどりはそう言って溜息を吐いた。
かすれて読めない道路表示、曲がって錆びた一時停止の標識。ボロボロのガードレール。見上げた電線の無い空の雲は強い風に流されていた。こんな世界から捨てられたようなボロの街に、何故そんな店がオープンしたのか、なんて、俺が考えたってしょうがないことだ。
例えば、金があっても無人島では何を買うこともできない。モノが無ければ、いくら金銭を持っていてもどうしようもない。考えてみれば当り前のこと。そして、つい最近まで、物資の乏しい街だったということは容易に想像がつく。隔絶された世界にだって、外の世界と同じ水準の生活をする権利があるはずだ。それを実現しているのがみどりの言う大型ショッピングセンターならば、それを否定することは俺にはできないだろうな。
「あっ、ご、ごめんなさい。あたしったら、ついアツくなっちゃって……」
「いや、まぁ、な。別に謝らなくてもいいぜ」
「なら、いいけど……」
その時、商店街に差し掛かった。
坂が緩やかになる。
すると、色んな人から話しかけられた。
「あら、みどりちゃん。おかえり」
「あ、こんにちは、穂高さん」
みどりは笑顔で返して、話しかけてきた人の横を通り過ぎた。
「おう、みどりちゃん。彼氏かい?」
今度はおじさんから。
「そ、そんなんじゃないです!」
おじさんの横も通り過ぎる。
すると今度は、おじいさんから話しかけられた。
「むむむ、みどりちゃん。何じゃ、その男の子は。ウチの子よりも先に彼氏見つけちゃ困るんじゃが~」
「あ、上井草さん……そんな」
上井草? どっかで聞いたことあるな。
「まぁ、ウチの子に彼氏なんてできっこないんじゃがね」
「そんなこと」
「いやいや、もうね、笠原さんトコと娘交換したいくらいじゃよ」
「そんなことできないです……」
「あっはは、そうじゃね!」
「それじゃあ」
「ああ、またね」
さすが商店街の看板娘だ。
で、挨拶ラッシュが一息ついたところで俺は訊いた。
「みどりは、いつからこの街にいるんだ?」
「いつから……ですか」
「ああ」
するとみどりは、こう言った。
「物心ついた頃から、ずっと」
「え……?」
「あたしは、この街で生まれて。まつりちゃんもそうだし、この街で生まれた人、結構いますよ」
「そう、なのか。知らなかった」
じゃあ、まつりも、ずっと掃き溜めで生きて来たのか。
「うん。そうだよね。街の外から来た人には、わからないよね」
「ああ」
そして、足音と風音に耳の奥が支配された僅かな沈黙の後、笠原みどりは、
「あたしね、お礼が言いたかったの」
そんなことを言った。
「お礼?」
「そう。お礼。戸部くんにね」
「そりゃまた何で?」
お礼を言われるようなことをした記憶が無いんだが。
「まつりちゃんと仲良くしてくれて、ありがとう」
「へ?」
「まつりちゃんって、ああいう子でしょ? 何て言うか……友達が出来にくい子っていうか……対等な立場で話をできる人が少なくて、いつからか、あたしじゃあ、まつりちゃんの助けになれなくて、支えられなくて……だから、戸部くんや紅野さんが来てくれて、まつりちゃん、楽しそうで、あたしは嬉しい」
それは、本心からの、自然な笑顔で、営業スマイルとは違った、友人を想う幼馴染の顔なのだろうか。
「だから、ありがとう」
笠原みどりは立ち止まって、腰を折った。
「あ、ああ」
その時にはもう、坂もすっかり緩やかになっていた。商店街の端の方。
笠原商店の店の前で、俺に「ありがとう」と言う笠原みどり。
「そんな、俺も、まつりと居るのは楽しいし、お前と話すのだって、結構好きなんだぜ」
「え、そ、そんな。あたしと話したって、全然っ、楽しくないっていうか……」
「そんなことはないぞ。お前のツッコミスキルはなかなかのものだ」
「え、そうかな……」
「ああ、そうさ」
そして俺は、女の子にツッコミを入れてもらいたがる男なのさ。
「……そっか、うれしいな」
「お世辞ではないぞ」
「うん、ありがとう」
笠原みどりは、営業スマイルで笑うと、
「じゃあ、あたしの家、ここだから。またね」
指差して言って、その手を振り、俺とすれ違う。
「ああ、また来週」
そして振り返って、
「うん。今日は、帰り道付き合わせちゃって、ごめんね」
と言った。
パタタっと走った笠原みどりの手が、店の引き戸を開けて、閉めた。
「ただいまー」
戸の向こう側から声がした。
「ただいま……か」
いつか、俺も「ただいま」を言う日が来るだろうか。