紅野明日香の章_3-2
教室。
俺が品行方正にも席に就いて教師がやって来るのを待っていると、ダダダダダダァッと、誰かが廊下を走る足音。後、女子の姿が現れた。
「達矢ぁあああ!」
ばこんっ!
駆け入って来た紅野に、いきなり頭を殴られた。
だが大して痛くない。
何か軟らかいもので殴られたらしい。
一体何だというんだ。
俺は立ち上がり、
「何だよ」
顔を上げると、体を震わせながらバナナを握り締めた紅野明日香の姿。
「なるほど、俺はバナナで殴られたわけか。つーか、何でバナナ持って震えてんだ、お前」
「バナナをね……」
「ん?」
「渡されたのよ、男子に」
「よかったじゃねえか」
紅野は何故か怒りの表情を見せながら、俺の短い髪を掴んで軽く引っ張りつつ、
「『これ、どうぞっす。紅野サンがバナナをもらうと喜ぶって戸部サンに言われて』とか言って渡されたんだけど、どういうこと、かな」
「あぁ、あの男子か。責めてやるな。彼は今日、故郷に帰るらしい」
「……私が責めたいのは! あんたよっ!」
「俺っ? 何故にっ!」
「なんで、バッナーナもらって私が喜ぶのよ! そんなわけないでしょうが! 私はゴリラじゃないっ!」
「ゴリラか、その発想はなかった」
「チンパンジーでも無いっ!」
「チンとか言うなよ、下品だな」
「肩甲骨割るよ?」
「痛いからやめてくれぇ」
「で、どういうつもりなのよ。私にバナナなんてプレゼントして。しかも直接渡せばいいのに、わざわざ間接的に渡すなんて」
「いや、まぁ、別にプレゼントじゃなかったんだけどな、まさかあの男子が本当に渡すとは思わなかったぜ」
「は?」
「あぁ、いや、何でもない。こっちの話だ」
「からかってんの? 私を」
「違う違う。ほら、あれだ。ダイエット。朝バナナダイエットだ!」
昔、一時期、流行ったよな。
「今度はデブ呼ばわり? さすがに殴るよ?」
また、何でそういう受け取り方をする。
「違うっての。違うっての。あの、えっと、バナナは体に良いんだぜ。美容にも……はっ」
言いかけて、口を閉じた。両手で口元を押さえた。
このパターンはまずい。そんな気がする。
「は、はははっ。今度はブス呼ばわりとはね!」
やはり、思った通りの反応だ!
乾いた笑いの後に、修羅の顔。その後、紅野明日香は天井に顔を向けて、
「神様、彼を一発だけぶん殴ることをお許し下さい。このバカは殴らなきゃ直らないんです」
とか言うと、俺に向けて右平手を繰り出した。
勘違いなのに!
紅野さんは痩せてます。そして、可愛いです。ブスなんかじゃないです。
すれ違うのって、悲しいっ!
「殴っても直らねぇだろって――」
どばしん!
パーでぶん殴られて、
「ハゥンムラビ!」
わけのわからん奇声を上げた。そんくらい痛い。まじで。超いたい。まじで。
うつ伏せに倒れた俺の目の前に、上履きを装備した足が落ちてきた。
「何か言う事は?」
「申し訳ありませんでした」
もう紅野明日香がバナナをもらうと喜ぶなんて言わないよ絶対。
「まったく。ちょっと頭冷やしてくる!」
紅野は言って踵を返すと、勢いよく教室を出て行った。
ピシャン、と引き戸が閉められるのを教室の床に顔をつけながら、それを見送って、立ち上がる。
そして、
「やれやれ」
と言って顔やら制服やらに付いた埃を払った時、
「あの、大丈夫ですか?」
どこかで聴いたことある女子の声。
「ダメかもしれない」
「あ、えっと……そうですか……」
慌てた様子でそう言った。
どうやら「大丈夫だ」と言われる事しか想定していなかったらしい。
だが、甘いな。あいにく俺は、そんな予想通りの反応をしたがる男ではないのだ。
「こいつぅ、ダメだって言われた時の言葉も準備しておくべきだぜっ」
ふざけた口調で言ってやった。
「すみません……」
謝っていた。そんなつもりではなく、ふざけ合いの軽い会話がしたいだけだったのだが。まぁいいか。
えっと、この子は、確か……。
「誰だっけ」
思い出せなかった。
「あ、笠原みどりです」
「笠原。ああ、看板娘か。商店街の」
「はい」
エプロンしてないからわかんなかったぜ。
「心配してくれてありがとな」
「いえ。あ、でも、心配といえば、紅野さんと戸部くんの……お二人のことが心配です」
「え? 何で」
「風紀委員って、だって、危ないじゃないですか」
「ああ、大丈夫大丈夫。危ない存在なのは上井草まつりって女だけなんだって。俺も紅野も、そんなに危険な人間じゃなくてだな」
「いえ、そういうことではなくてですね……んー、何て言ったら良いんだろ……」
「なんか、まどろっこしいな。ハッキリ言ってくれ」
「あ、はい。すみません。では、ハッキリ言います」
「ははっ、何だい、お嬢さん」
貴族風に言ってみた。
「ふざけないで下さい! 真面目に話してるんですよ!」
「ああ、すまんすまん。それで、何だ?」
「今までは、まつりちゃんが抑えてた勢力が、目覚めてしまうかもです」
全然ハッキリ言えてねえ。抽象的過ぎてよくわかんねぇ。
「つまり、何?」
「まつりちゃんが居たから大人しくしてた生徒たちが、風紀委員の座を奪うために紅野さんや戸部くんを襲うことが、あるかもしれないです!」
「え、それって、危険じゃん。超危険じゃん」
「だから、そう言ってるじゃないですかっ」
「笠原の店でさ、なんか急に強くなる器具とか売ってない?」
「ないです」
「じゃあ薬とかでもいいや。いざという時に飲んで一時的に強くなって敵を撃退する……」
「ないですってば」
「どこにでも行けるドア!」
「あればあたしが使ってます!」
「ひらりと敵の攻撃をかわすことのできるマント!」
「ございません」
「竹とんぼみたいな形をした空飛ぶ機械!」
「狭いところで襲われたら逃げられないじゃないですか。それに、この街は風が強いから危険です!」
「四次元空間を利用して物質をすり抜けることができる若葉マーク!」
「マイナー道具すぎます!」
「モノを映すと複製品が出てくる鏡!」
「何に使う気ですか!」
「交通安全のお守りB!」
「神社に行って下さい。っていうかBって何ですか。Aはどこですか。その前に交通安全のお守りで敵にどう対処するんですか! ていうかそれ今までの流れと全然違って不思議未来道具じゃないですよね!」
「この街、神社あるの?」
「今は、ないですね。学校の裏庭にそれらしい祠はありますけど」
「他は、じゃあスマイル!」
「無料です!」
ふぅ、見かけによらず、なかなかのツッコミスキルだ。
ていうか、スマイル無料なのか。
今度笠原の店に入った時には頼んでみよう。
とか、そんなことを考えたその時だった。
突然、事件は起こった。
「何? あんたら……きゃぁあ!」
廊下から、紅野の叫び声が届いた。
「な、何だ?」
ただごとでは無さそうだ。
俺は、みどりの横を通り過ぎ、走る。
何人かのクラスメイトを押し退けて、廊下へ。
すると、そこには、
「何よ! ぁぅ、い、痛いっ!」
いかにも不良な男に髪の毛を引っ掴まれる紅野明日香の姿。
痛そうに声を裏返して。
そんな紅野を囲む男の数、八人。大人数で、女の子を……っ。なんて最低の不良どもっ……。
「へっへへへ。何だ、大したことねえじゃん、新しい風紀委員爆誕っつーから期待してたんだけどなァ」
と、不良の一人は言った。一番体が大きく、こいつが不良の親玉だろう。
「こいつっ」
俺はそんな声を発しながら、不良どもの前に出た。
「おっと、お前も風紀委員だっけな。戸部達矢とか言ったか」
その言葉に対し、俺は恐怖を必死におさえつつ、無理矢理に力強い声を絞り出す。
「お前ら何だ! 俺たちに何の用だ!」
「だから、アイサツだよ、アイサツ」と、不良の親玉。
「あ、Aさん、あれっすよ。『相手を、殺す』ってのを略して、相殺。どうっすか」
金髪をした不良が言った。体のデカイ不良の親玉はAという名らしい。
「てめぇ、コノヤロー。今それ、言おうと思ってたところなんだよ!」
「あわわわ、すみませんAさん!」
「紅野から手を離せ!」
「へへっ、いいぜ。ほらよっ」
Aが乱暴に手を放す。
「あぅ……」
ドサリと床にたたきつけられた紅野は、床に顔を打った
「いったぁ、い……」
「この野郎……」
女の子をこわい目にあわせた。女の子の髪の毛を引っ張った。女の子の顔に物理的ダメージを与えた。しかも紅野明日香に対してだ。
俺は、怒りに震えた。
思い切り敵をにらみつける。
今まで生きてきた中で、最大級の怒り。
と、その時だった。
「てめぇら、ダセェことしてんじゃねえ!」
不良集団の向こう側から男の声がした。
太く、強そうな。それは、見覚えのある顔。
「戸部サン、紅野サン、無事っすか?」
今朝、俺にバナナを渡そうとした男子生徒だった。
「痛い……」
顔を抑えながら紅野は言った。
「無事? どこがだ」
俺は怒りをにじませて言った。
「ですよね。すみません、失言でした」
そうさ。紅野が痛い目に遭って無事なわけがねえだろ。
「あァ? 何だ、お前」
不良の下っ端のうち一人ははその男子の至近に寄って、息がかかるくらいの近さで、にらみつけた。
「おうおう、あんだお前、ナメた口ききやがって。この方は高校生でありながら銃刀法違反で逮捕されかけたこともある、Aさんだぞ」
「そうか。それが、どうした。オレはDだ」
Dくんは名乗った。
「犯罪自慢なら、街の外でやれ。ここは、人が更生する場所だ。それから、上井草まつりが支配者じゃなくなったからって、その途端に大人数で女子を襲う? 腐ったことしてんじゃねえよ!」
「お前……」俺は呟く。
「さがってて下さい、達矢さん。こいつら全員、オレが引き受けます」
その時、いつの間にか、隣に来ていた紅野が小さな声で、
「バナナの人……」
「大丈夫だったか? 紅野」
「うん。ちょっと、髪の毛抜けたかも」
「許せねえな……」
不良どもの戦いが始まろうとしている。
「へっ、一人増えたからって、相手は三人だぜ。おれたちは八人。五人もの戦力差は――」
と、その時だった。
「まちなっ」
不良集団の後ろ側から声がした。
「「「あァ?」」」
一斉に振り返る八人の不良ども。
「あなたは……」
Dくんが呟く。それは、あの有名な女子。学内で知らない者は居ないほどの、大物。上井草まつり。
「久しぶりね、キミ」
「え……?」
まつりは男子生徒Dくんに向かって言うと、男子生徒を押し退けて胸を張った後、威圧的な腕組をして不良たちの前に立った。
「あたしのクラスの生徒に手を出すっての? 殺すわよ?」
「へへっ、この人数相手だぜ? 勝てるわけあるか」
不良の一人は言った。
不良の親玉も、ニヤリと笑い、呟くように、
「うむ、風紀委員の地位を奪われ、落ち込んで弱っている今ならば、こちらに分があるはずだ」
「加勢します、まつり姐さん!」とDくん。
「阿呆! やめなさい!」ばしん。
「いっつぅ」
まつりは、独楽のように回転して、背後にいる彼を手の甲で殴った。
助太刀しようとした男子生徒の頬を、まつりは叩いたのだ。
痛そうに叩かれたところを抑える男子生徒。
「キミ、今日帰るんでしょ! この騒ぎに関わってると思われたらどうすんの!」
「姐さん……」
彼が、今、ここで問題を起せば、おそらく故郷に帰るのが延びる。
それどころか、『かざぐるまシティ』ですら暴れたという話が故郷の人々の耳に入れば、故郷に恥を持って帰ることになってしまうと、そういうことだろう。
「行きなさい! はやくっ!」
「でも、姐さん……」
「ほら、さっさと行く! もう挨拶済ませたんでしょ。あとは帰るだけなんでしょ! 帰れなくなったり、戻ってきたりなんかしたら殺すわよっ!」
「……すみません、まつり姐さん。お世話になりました!」
「じゃあね」
感情の込めないように、低い声で、彼女は言った。
「はいっ!」
男子生徒は言うと、今度は俺たちの方を向いて、
「戸部サンと紅野サンも、あっざーした!」
そして踵を返して、走り出すのだ。故郷に帰るために。生まれ変わった自分を、故郷の人々に見せるために。
彼の足音が無くなった時、まつりは大きく目を開いた。そして、言うのだ。
「血祭りにしてあげるわ!」
そこからはもう、言葉を失うしかなかった。
人を殴る轟音が響く。不良生徒八人を相手に、互角どころか圧倒的な差を見せ付ける上井草まつり。規格外の轟音と共に、無風地帯の廊下に風を起した。
「な!」不良A
「ん!」不良B
「だ!」不良C
「とぉぉ……」その他の不良ども。
不良、舞う。そして累々と横たわる男達という光景。
「うぐぐぐ……」
不良どもの呻き声と、一般生徒の沈黙の中で一人、上井草まつりは立っていた。
「この学校で暴れていいのは、あたしだけよ!」
視界にかかる前髪をバサっと払って、上井草まつりは俺たちの方に歩いて来た。
そして、すれ違いざま、紅野に向かって、
「別に、貸しってわけじゃないから」
「別に、助けてくれなんて、言ってないけど」
「このっ」
「でも、ありがとう、まつり」
「気安く下の名前で呼ぶな! 明日香ぁ!」
お前は呼ぶんだな。
「あんたこそ!」
きっと、きっとこれは、不器用な二人なりの、互いの認め合いなんじゃないかって思う。傍から見てると何だかバカみたいだけどな。
「ふんっ」
その後は、あからさまに機嫌悪そうに、上井草まつりが教室にも入らずに立ち去って、不良集団に絡まれるという騒動は終わりを告げた。
俺たちを囲んでいた人垣も消え、喧騒と共に日常が戻った。倒れる不良たち以外は、だが。