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序章_2

 翌日のことである。


 前の夜の明日香は、初めてのことだらけで疲労し、寮で出された夕食を食べた後、部屋の風呂に入ってすぐに眠り、朝がやって来た。


 朝食を食べないと退寮処分になってしまうというので、早起きをして三階にある部屋から階下に降り、一階の食堂に用意されていたバランスの良い、メインが焼き魚の盆を平らげた。食事中、何もきっかけを見つけられず、誰と話すこともなかったし、話す気も起きなかった。


 どこかで「こんな町の連中と仲良くなってもな」と思っていたのだろう。そんな明日香にとって嬉しかったのは、好物のバナナがついていたことで、それで転校二日目の憂鬱を吹き飛ばせる気がした。


 部屋に戻った明日香だが、すぐに制服の真新しいセーラー服を着こんで外に出た。積み上げられたダンボールを荷解きするのは面倒だし、一人で部屋に居ても特にやることも無かったからだ。


 部屋を出て、寮の狭い廊下を歩きながら、明日香はふと思いつく。


 ――そういえば、町の南側にこの小さな町に似つかわしくないような巨大ショッピングセンターがあると聞いた。今日の放課後はそこに行って、雑誌とか暇を潰せるもの買って来ようかな。それと、バナナも買いたい。


 かなり早い時間に寮を出た。前日の転校初日もずいぶん早く出て、ずっと屋上でボーっとしていて、今日もそうする予定だった。なお、屋上は危険なので立ち入り禁止ということになっているのだが、あいにくそんな校則を律儀に守る人間はこの町ではごくごく少数である。


 学校指定の革靴を履いて、門の外へ出て、まず坂道を下る。


 と、背後から明日香を呼ぶ声がした。


「紅野さーん」


 振り返ると、寮長で級長で生徒会長の伊勢崎志夏が居た。


「あ、おはよう、志夏」


 まずは挨拶。


「おはよう」


 と笑顔と共に返ってくる。


 小走りで駆け寄って、横に並んだ短い髪の美人さんは、何となくよそよそしい様子のままゆっくりと歩く明日香に向かって、


「紅野さん、何か心配なこととか不便なこととかない? 寮のお風呂の浴槽が小さいとか、畳に虫わいたとか」


「え、いいお風呂だし、そもそも畳じゃないし」


「ふふ、実はね、男子寮は古い畳だったんだけどね、去年虫が発生したから昔ながらのイグサとか稲藁の畳じゃなくてね、何とかボードとか合成繊維とか使ったやつに変えたの。あと、お風呂が小さいのも男子寮だけだし、特に男子トイレの共同トイレの汚さといったらもう。女子寮は全体的に立派で、すごくキレイでしょ。毎日私が掃除してるのよ」


「そうなんだ。すごくキレイだけど、生徒会長とかで忙しいのに、すごいね」


「神だから」


 また、すぐそれだと半ば呆れ気味の明日香。


「まぁ、とにかく寮とかで困ったことは今のところ無いかな。まだ入寮してから一週間も過ごしてないからっていうのもあるけど」


 すると志夏は、


「女子寮で多い苦情っていうと、あれかしら。ベランダ開けたら貼ってあったポスター全部剥がれたとか、葉っぱが入ってきて掃除が大変だとか」


「いや、そんなこともないけど」


 でも、ベランダを開けるのは注意しようと思った。明日香はその時まで運良く風が弱まっている時にしか開けたことは無かったから、そんな事態になっていなかった。もしも三階にある明日香の部屋の東側のベランダを風が強いときに開けようものなら、あまりの強風に驚いたことだろう。


 いかれた卓越風が吹くこの町は、いつも東から吹く風によって毎日が強風だった。今、緩やかな坂を下る明日香と志夏も、強い向かい風に吹かれている。今は風速は四メートルほどだろうか。


 基本的に高い場所に行けば行くほど風が強まるので、大きな山を背負った一番の高台にある学校の屋上なんてのは、常時風速二十メートルほどで、手すりなしでは立っているのも大変な風である。うっかり屋上で傘でも広げようものなら、そのまま上昇気流に乗って山の方に飛んで行けそうなくらいの。とはいえ、最も風の強い場所は屋上ではない。二番目に高い場所にある病院でもないし、三番目に高い場所にある図書館でもない。どこかと言えば、裂けた崖である。崖の裂け目は町の東の端にある。


 ちょうど明日香が町の真ん中と言っても過言ではない十字路に差し掛かった。引き返せば寮と図書館、真っ直ぐ行けばショッピングセンターと病院、左に行くと湖と呼ばれている事実上の池や件の崖があり、右に向かえば商店街と風車並木の奥に学校がある。


 崖の上に顔を出した朝日を浴びながら、明日香と志夏は歩いていく。


「紅野さん。もうここの暮らしには慣れた?」


「いや、やっぱり、まだね、そんな簡単に慣れるもんじゃないわよ」


「そうかもね。まぁ、慣れたくもないって気持ちもわかるけどね」


 明日香は頷きながら、学校へ行くために十字路を右に曲がった。


 両側に寂れ気味ではあるが、いくつかの商店が並んでいる。その商店街にも何基かの白い風車があるが、商店街の奥には風車が立ち並ぶ草原、通称風車並木があって、学校はその向こうにある。


 と、その時、明日香は困っていることがあったのを思い出した。


「そういえば志夏」


「何かしら」


「私、教科書まだもらってないんだけど」


 しかし志夏は驚くべき言葉を返してきた。


「あぁ、そんなのどうだっていいわよ。そのうち授業なんてなくなって全部自習になるから。授業やるのなんて、転校生が入って数日くらいのもので、教師が授業態度を軽くチェックして二重丸をつけるだけなんだから。はっきり言って、居眠りしてても×(ペケ)とかつかないから安心していいわよ。欠席さえしなければ更生してなくても更生してるってことにされるから」


「そ、そんないい加減でいいの?」


「まぁ、マトモにやるには教師が足りないしね。仕方ないと思うわよ。紅野さんが真面目に勉強する気があるんなら、図書館に行けば古今東西の教科書くらいはバッチリ揃ってて、簡単に借りられるから、行ってみても良いかもね」


「あのさ、志夏、更生って、一体何なのかな」


「さぁ、それは私に聞かれてもねぇ」


「誰が決めてるのよ、『この人は更生した』とか『この人はまだダメ』とか、そういうの」


「さぁねぇ」


「あと、誰かに監視されている気がするんだけど、この私の心の内を探ろうとするような視線は誰のものなの? まさか、更生してるかどうか判断するために、本当に監視してるとか、ないわよね」


「さぁねぇ」


 何でも聞いてくれという割には、頼りにならないように感じた。


 志夏は遠く風車並木の向こうの学校を見上げ、追い風に吹かれて乱れた髪を耳にかける。


「あ、そうだ。紅野さん、一つだけ言っておくけれどね」


「何よ」


「上井草さんとケンカしちゃダメよ。何があってもね」


「どうして?」


「元の町に帰りにくくなるからね」


「そうなんだ」





 しかし、やるなと言われればやりたくなってしまうのが人間というものであるのかもしれない。その日、自習中の教室の中で、紅野明日香は上井草まつりとケンカしてしまった。


 元の町に帰れなくなろうが、気に入らないことは気に入らないのだ。それは、出さなくていい勇気だったかもしれないが、とにかく明日香は、上井草まつりを許せなかった。


 その日、まつりが何をしたかと言うと、クラスメイトへの嫌がらせである。


 同級生にして幼馴染である笠原みどりという少女の髪の毛を突然バサバサと何度もまくり上げ、泣かせていた。まつりは、「モイスト! モイスト」などという謎の叫び声を上げていて、引っ張られる笠原みどりは、時折髪を引っ張られるのが痛いらしく涙目で、「やめ、やめてよ、まつりちゃん」などと言いながら嫌がっていた。


 紅野明日香は、そこそこ正義心の強い女子である。知り合いが犯罪行為をしていたら説得して止めようとするし、イジメられている女子が居ればイジメられる側に大きな非がなければ庇ってみるし、電車でヘッドホンから音楽を漏らしている人を見れば軽くにらみつけてみたりして相手の男に「あれこの女子、俺のこと好きなんじゃないか」とか誤解されたり、とにかく髪の毛をバサバサとされている大人しそうな可愛い女の子を見て、明日香の正義心に火がついたようだった。


 明日香は窓際の席を立ち上がり、上井草まつりをにらみつけながら歩いたかと思えば、イジメっ子とイジメられっ子の横を通り抜け、廊下を走り出した。


 目指したのは、職員室。教師を呼んで何とかしてもらおうと考えたのだ。


 明日香は、職員室の引き戸をノックすると、すぐに扉を開け、「失礼します」と言って、何人か居るうちから担任教師を探す。担任教師は優雅にタバコを吸っていたのだが、そこへツカツカと真新しい上履きで床を叩いて入って行き、担任教師のタバコを持ってない暇してる方の腕、その手首あたりを掴んだ。


「な、何だ、紅野。今は授業中のはずだが」


「教室で事件なんです。先生、ちょっと一緒に来てください」


「何? よしわかった」


 教師はタバコを灰皿に押し付けると、立ち上がって明日香に続いて歩き出した。


 職員室を出たところで明日香が走ったので、渡り鳥が二十匹くらい教室に飛び込んできて以来の久々の大事件なのかと思い、教師も走る。


 階段を駆け上がり、廊下を走り、教室に辿り着くと、教師にとっては普段と変わりない光景が迎えてくれた。


「モイスト! モイスト!」


 ばさっ、ばさっ。


「いやぁ、もうやめてってば、まつりちゃん」


 上井草まつりが、肩までの髪がキレイと評判の可愛いクラスメイトをいたぶっている。


 教師は、他に何か変わったことが無いのかと肩で息しながら周囲を見渡してみるものの、まつりの周辺以外は至って平和という普段通りの光景。


「紅野、何が、大事件なんだ?」


「え? 見てわかりません? イジメ現行犯じゃないですか」


 教師は、どうしたもんかな、などと思いながら、


「いいか、紅野。あれはな、イジメじゃない。じゃれあっているだけだ」


「え、でも、あの子、嫌がってるし」


「そういうコミュニケーションの形もあるってことさ」


「でも、明らかに痛そうですよ。泣いてるし」


「モイスト! モイスト!」といじめっこ。


「やめってってばぁ……ぐすん」といじめられっこ。


「いやぁ、とてもそうは見えないな」


 この風上にも置けない先生は目が腐ってるんじゃないかと思う明日香だが、この町に来て日が浅いし、常識外れのこの町のことが理解できないということもあるかもしれないとも思う。


 その時、上井草まつりが教師に厳しい視線を向けた。めんちをきった、と言い換えた方が良いかもしれない。それで教師は男のくせに情けなくも縮み上がり、「そ、そういえばぁ、小テストの採点があったんだったぁ」などと大嘘を残して逃げるように教室を出て行ってしまった。


 教師作戦が呆れるほどに全くの効果なしであったので、明日香は次の手を模索する。


 明日香が振り返り、じっと見つめた視線の先には、生徒会長の伊勢崎志夏が居た。


 志夏はやれやれといった様子で頭を抱えた後、明日香の視線に頷きで返して、笠原みどりをイジメる上井草まつりの前に歩み出た。


 が、その時だった。上井草まつりは志夏を一瞥すると、転校生の紅野明日香へと歩み寄り、思い切り胸倉を掴み上げると、脅すようにこう言った。


「てめぇ、何なんだよさっきからよお。教師呼んできたり、志夏に視線送ったりして、あたしが何か悪いことしてるとでも言いたげだなぁ!」


 そこで、「勘違いよ、ごめんなさい」とでも言えば、まだ丸く収まっただろうが、その時、明日香はこう言った。


「わかってんじゃないの。そのモイストとか叫びながら髪の毛バサバサすんのやめなさいよ」


「いいんだよ。知らないのか? みどりはこうされるのが好きなんだよ」


「とても、そうは見えないわ」


「じゃあ、あたしに直接そう言えば良かったじゃねぇか。何で教師だの志夏だのを介してどうにかしようとしてんだよ」


「とにかく、この手を離しなさいよ」


「ふんっ」


 上井草まつりは突き飛ばすようにして紅野明日香から手を離した。

 明日香は尻餅をついて「あうっ」と苦しげに声を出しながら痛みに顔をゆがめる。


 まつりは、ほの寂しい胸を張り、斜めに立って上から威圧的に見下ろしながら、


「あたしは風紀委員なんだからな。何しても許されるんだよ」


 その言葉に、明日香は黙っていられなかった。立ち上がって、体についた教室のホコリを払いながら、


「何をバカなこと言ってるのやら。そんなフザケた話、ないわよ」


 教室が、ざわついた。教室の生徒は上井草まつりに逆らうとどうなるか、というのは理解しているのである。簡単に言えば、その怪力でもって殴られたり蹴られたりするのだ。つまり、ケンカなんてものとは殆ど縁の無い一人っ子の明日香が、町で最も恐ろしい人間にケンカを売ったのだ。


 中には、まつりが暴れると考えたのか、教室の外へと逃げ出す者も居た。


 上井草まつりは、不良である。体当たりすれば風車も折れるという噂もあるし、スタンガンなど全く効かないという噂もあるし、鉄を素手で自在に変形させるなどという噂もある。もちろん全て噂であり、大いなる誇張なのであるが、そんなデマが生まれるほどに凶悪なのである。


 と、そんな時、伊勢崎志夏が教室を出て行ってしまうのが視界に入ってきて、明日香は心中で、「ええええっ」と叫ぶ。


 味方になってくれるはずの級長にして生徒会長が、目の前の戦闘準備区域みたいな雰囲気を見て仕切るでもなく教室の外に逃げてしまったと思い、絶望に近い感情を抱いた。


 それでも、何とか説得して、いじめをやめさせたい明日香は、できるだけ優しく語り掛ける。


「上井草まつり、とかいったわね」


「そうだよ、てめぇは紅野明日香だよな」


「ええ。転校したばっかだけどね、悪いものは悪いから言わせてもらうけどね、あなたのやってるソレは、イジメよ」


「は? ちげぇよ」


 するとその時、イジメられていた女子生徒、笠原みどりがこう言った。


「そ、そう、紅野さん。違うんですよ。これは別にイジメじゃなくてですね、何ていうか、ネコのじゃれ合いみたいなものなんです」


獰猛(どうもう)なネコ科肉食獣がカバを襲ってるようにしか見えないんだけど」


 するとまつりは、


「は? てめぇ、知らねぇのか? カバってのはな、超獰猛な生き物なんだよ!」


 すると明日香はまつりに向かってビシリと指差しながら、


「じゃあ、ベンガルトラに襲われるカピバラ」


「てめぇ、可愛い(たと)えしてんじゃねぇよ。殴るぞ」


 すると、イジメられっ子の笠原みどりが落ち込みながら、


「あたし、そこまで(あご)のライン丸くないのに……」


 などと呟いた。


 と、険しい雰囲気の中で繰り広げられた平和的な会話を遮ったのは、校内放送だった。


 マイクが入ったような小さなノイズの音がして、そこから伊勢崎志夏の声がした。


『えー、おはようございます。生徒会長の伊勢崎志夏です』


 それでにらみ合いは一時解消され、明日香とまつりだけでなく、全校生徒の視線が四角いスピーカーに集中する。


 そして志夏は、学園のそれなりな平和に巨大な岩の塊を投じる言葉を繰り出したのだ。


『突然ですが、人事を発表します。適格者が皆無であるということで、長いこと、空席となっていた風紀委員のポストですが、この度、正式に風紀委員を公的な活動であると認めたいと思います。つまり、風紀委員を新設し、その役職に三年二組の、転校生、紅野明日香さんを起用いたします。これは決定ですが、異論のある方は、生徒会室までお越しください』


 上井草まつりは、混乱した。


「えぇっ!? ちょ、志夏!? え、風紀委員は、あたし……。え、あれ、一体何が、どうなってんのこれ……」


「何、今の」と明日香。


 上井草まつりは取り乱しながら、大きな身振りで、


「てめぇ、ちょっと此処で待ってやがれ! 志夏にハナシつけてくる!」


 まつりは叫ぶと、転びそうになりながら廊下に駆け出て行った。


「私が、風紀委員って言ったよね、今」


 すると、イジメられっ子の笠原みどりが答えてくれた。


「そうですね、そう聴こえましたけど……何のつもりだろう、級長……」


 他のクラスメイトたちは皆、目を真ん丸くしていた。





 生徒会室。


 自称風紀委員という無法者の上井草まつりは片手で丈夫で大きなデスクを叩きつつ、もう片方の手で教室上部に設置されたスピーカーを指差しながら、


「何なの、あれ!」と叫んでいた。


 自分が法律であり、支配者であると自負していた上井草まつりにしてみれば、紅野明日香を正式に風紀委員と認めるなどということは到底認められるものではない。


 確かに転校してきたばかりで、どんな人間かも定かではない明日香に風紀委員をさせるなんて意味不明にも程がある。特に最古参の上井草まつりは納得がいかない。いつだって自分が中心で、いつも自分と共に学園の歴史はあったのだから、プライドというものがある。風紀委員といえば自分しか居ない、と。


 しかし、志夏の意志は固かった。


「上井草さんには、紅野さんのサポートに回ってもらうわ」


「なぁっ!? 何言ってんだ。それって、あたしに風紀委員補佐やれってことか!? そんなの屈辱じゃねぇかよ! 何であたしが、そんなポジションやんなきゃいけないんだよ!」


「黙って従いなさい。あなたみたいな人に風紀委員と名のつくものやらせるなんて、こちらとしては最大級の譲歩(じょうほ)なのよ? 率先して風紀を乱してるじゃないの」


 しかし、まつりは駄々をこねた。


「やだ、やだよ!」


 志夏はフゥと一つ溜息を吐くと、デスクに備え付けてあったマイクスタンドを手に取り、全校生徒に伝わるようにマイクのスイッチを入れると、


『上井草まつりさん、二日間の自宅謹慎ね』


「お、おい、何だよソレ。ありえねえだろ!」


 机をバンバンと叩きながら抗議する上井草まつり。


 すると伊勢崎志夏は笑みを浮かべながら、こう言った。


「生徒会長に逆らうの?」


「うっ、こ、こんちくしょう!」


 まつりは叫びを残して開いていた扉から外に出て、快足をとばして生徒会室から遠ざかって行った。

 一人残された志夏は窓の外、風車並木が回転する風景を見つめながら呟く。


「さて、これで、どうなるかしら」





『上井草まつりさん、二日間の自宅謹慎ね』


 そんな校内放送が流れた時、教室では紅野明日香と笠原みどりが会話を交わしていた。


「何だかよくわかんないけど、私、風紀委員になっちゃったみたいだから、これからは私が笠原さんを守るからね」


「えっと、はい。でも、気をつけて下さいね」


「何が?」


「えっと、うんーと、うまく言えないんですけど、風紀委員って、危ないんで」


「そうなんだ」


 こうして、紅野明日香は風紀委員となった。


「あの、ところで紅野さん。質問していいですか?」


「何?」


「あの、嫌だったら答えなくても良いんですけど、一応、あたし皆に聞くことにしてるんだけどね」


「だから、何」


「えっと、つまりね、紅野さんは、一体、何をやらかして、この町に来ちゃったんですか?」


「なんだ、そのことか。私は、家出を繰り返したのが原因らしいわよ。この学校に転入して来た時に、先生がそう言ってた。『家出常習の紅野明日香だな』って言われたから、それが理由なんじゃないかな」


「そうなんですか。じゃあ、悪い人じゃなさそうですね」


「やっぱり悪い人とかも来るんだ。噂通り」


 すると笠原みどりはコクコクと頷き、


「暴力振るったっていう人も多いから、夜道の一人歩きとか絶対やめた方がいいですよ」


「そりゃそうね。気を付けるわ」


「でも、家出くらいでここに飛ばされてくるなんて、あまり聞いた事ないですけど、もしかして、紅野さん、すごく運が悪いんじゃ……」


「あー、まぁ、運じゃないと思うよ。実は親にここに放り込まれた形なのよね。運がいいとか悪いとかそういうことじゃなくてね、母親と父親がここに私を入れたいっていうことなんだから、仕方ないよね」


「そう、なんですか」


 笠原みどりはそう言うと、何となく言葉が見つからないようで視線を虚空に漂わせていた。


「そりゃね、遠くに行きたいって、家を出て一人で生きたいって思ったよ。でも、それはこんな掃き溜めに来ることじゃなくて、自分の望む場所で自分の力を発揮するってことで。何でこんなことになっちゃってんのかな」


「紅野さんは、この町が嫌いですか?」


「いや、嫌いってんじゃないのよ。でも、うん。そうねぇ、好きになれないっていうか、好きになりたくないっていうのが、本音かな」





 伊勢崎志夏は教室に戻ってくるなり、「そういうことだから、よろしくね」と明日香の肩に手を置いて言った。


 紅野明日香は、「風紀委員って何をすれば良いのよ」と至極当然の疑問をぶつけてみたのだが、志夏は「別に何もしなくてもいいわよ。上井草さんへの嫌がらせだから」などと、とても生徒会長とは思えない発言を返してきた。


 困った明日香は、風紀委員を名乗っていた上井草まつりが何をしていたのかを参考にしようと、志夏に聞いてみたのだが、「彼女はひたすら風紀を乱すことしかしなかったから、参考にしちゃダメよ」と返ってきた。


 ますますどうすれば良いのかわからなくなったが、志夏は最終的に、「本当に何もしなくていいわ。なるようにしかならないし。というかむしろ何もしない方がいいわ。余計なことすると騒ぎ出す人が居るかもだし」という言葉を残して再び生徒会室へと去っていった。


 校内放送で大々的に発表されたのだから、何か行動で示したいところだったが、学校のことも町のこともよく知らない転入したての明日香にできることなど何も無く、ただ不良が妙に多いことと、普通の町とは違って教師が頼りにならないことが理解できるくらいだった。


 本当に自分にできることなんて何も無いように思えて、一つ息を吐く。


 紅野明日香は何が何だかよく解らないまま風紀委員のポストに就いた。


 ちなみに、その頃、坂の中腹にある電気屋の二階で、上井草まつりは枕を濡らしていた。


  ★


 明日香がこの町に着てから一週間目を迎えていた。


 うっかり制服をバッチリ装備した後に気付いたのだが、この日は土曜日であり、学校が休みだったので、明日香は頭をかいた後、「あぶなかった」と呟き、再び部屋着に着替えながら、何をしようかと考える。


 ふと、積まれていたダンボール四つが目に入る。


 ――そういえば、越してきて一週間経つのに殺風景な部屋のままだった。何とかしなくては。


 ここ一週間で新しく部屋に増えたものといえば、ハンガーが無くなってしまったため窓際に無造作に詰まれたカビ発生寸前の大量の洗濯物や、暇つぶしのためにショッピングセンターで買った雑誌とか、同じくショッピングセンターで買い占めたバナナとかくらいのものだ。


 いい加減、一週間経つわけだし、風紀委員などという重要っぽいポストを与えられてしまったのですぐに元の町に戻れそうにもないし、荷解きをしてこの一室を自分の部屋らしくしようと決意した。


 ちなみに、風紀委員として一週間を過ごしたわけだが、特に大きな事件も無く、上井草まつりが自宅謹慎期間を終えても引き篭もって登校していないのが気にかかるくらいだ。


 明日香としては、別にまつりの役職を奪い取るつもりは無かったし――とはいっても、元々風紀委員などという役職はなく、まつりが勝手に名乗っていただけなのだが――それに、風紀委員らしいことはこの先もできそうになかった。休みが明けたら、風紀委員の地位を返上しようとさえ思っていた。


 いじめっ子である上井草まつりが元気になりそうでシャクではあるが、いじめられっ子の笠原みどりが言うには、風紀委員は危険な仕事とのことだから、荷が重いと志夏に相談しようと考えていた。


 と、ちょうど志夏のことを考えていたら、志夏がノックもせずにドアノブを回し、明日香の部屋の扉を開けた。


「え? 何?」


 突然の出来事に面食らった明日香であるが、突然の寮長の出現に反射的に姿勢を正す。


 伊勢崎志夏はこう言った。


「いい加減にしなさい、紅野さん」


 明日香としてはわけがわからない。風紀委員として何もしていないことを責められているのかと頭をよぎったが、何もしなくていいと言ったのは志夏だ。


「え? え? 何なの?」


 すると志夏は言うのだ。


「紅野さんが洗濯物を溜め込んでるのくらいわかるのよ。今何月だと思ってるの。腐るから出しなさい」


 この町の気候はいつも強い風が吹いていることもあり、さほどジメジメしているというわけでもなかったが、それでも部屋の中で洗濯物を発酵させるだけの環境は存在するわけだ。


 というわけで、紅野明日香は叱られていた。


「洗濯物は出しなさいと言ったでしょう。普通一週間も部屋に置いておくなんて非常識は、この町の人間でもしないわよ。何で出さないの」


「う、ごめんなさい」


「あなたも風紀委員になったんだからね、部屋を清潔に保つくらいしなさい」


 そう言われて、明日香は風紀委員を返上することを切り出そうと考えた。


「あの、志夏。そのことなんだけどね――」


 しかし伊勢崎志夏はそれを遮るように、


「口答えはいいの。さっさと洗濯物出しなさい」


「は、はい」


 その時、明日香の脳裏(のうり)に、あることが思い浮かんだ。


 ――でも、どうして私が洗濯物を溜め込んでることがバレたんだろう。もしかして、私のことを前にいた町からずっと監視していたのは、この志夏なんじゃないのか。なんとなく違う感じがするけれど、私の勘なんてアテにならない。私の勘じゃこの町に飛ばされるのは隣のクラスに居る万引き常習犯の男子だったのに、結局私がこの町に来ることになっちゃたくらいだし。


 明日香は洗っていない洗濯物に愛着が湧いたわけではないのだが、何となく名残惜しそうに窓際と風呂の脱衣所に置いてあった洗濯物を回収すると、ピンク色のプラスチック籠にまとめて志夏に手渡した。「ごめんなさい」と謝罪しながら。


「風紀委員としての自覚を持ちなさい、紅野さん」


「いや、あの志夏。そのことなんだけどね――」


「それじゃあ、私は忙しいから、何か用があったら一階の寮長室にあるメモ帳に伝言でも置いておいて」


 結局遮られて大事なことを言い出せないまま、明日香はダンボール前に座り込み、荷解きにかかった。


 窓の外では、東の海上にたちこめた暗雲が近付いてきていた。





 その頃、紅野明日香にとって大変まずいことが進行していた。


 上井草まつりは、もう風紀委員の立場を奪われてから何日も経つというのに、未だに自室に引き篭もって落ち込んでいたのだが、そんなことはどうだって良いのだ。明日香にとっての大変なことは、上井草まつりのところではなく、もっと別のところで進行していた。明日香から見えない、水面下で。


 町の南側に大型ショッピングセンターがある。その一階のレストラン街に中華料理屋があり、そこでは朝早くから営業していて、朝食をそこで食べる者も多い。その油で少し床がベタベタする店内で、いかにも不良な風貌の男が二人、喧騒の中でお冷を手に話をしていた。


 一人はいかにも番長風な学ランに屈強な体つきの男で、もう一人はチャラい感じの金髪サングラス男だった。


 金髪の方が、番長に話しかける。


「Aさん、今日あたり、いいんじゃないっすか」


 威圧感を感じるほど体のでかいムキムキの番長は答える。


「ついに我らが覇権をとる千載一遇のチャンスが来たというわけだな」


「はい、Aさん。ついに待ちに待ったこの時ですよ。上井草まつりは強すぎて勝てないけれど、上井草まつりが失脚した今、転校生のナントカってヤツなら皆でかかれば絶対に何とかなるっす。その勢いでもって生徒会も打破して、新秩序を作るんすよ。それは今しかムリです」


「とはいえ、あの生徒会長が選んだ人間だからな。油断はできん」


「だから、今まで様子を見てきたわけじゃないっすか。その新しい風紀委員は、これまで何も目立った動きをしていないし、Aさんなら絶対に勝てますって」


「む、そうか? まぁBがそう言うんだったら、そうするか」


 不良Aは小さく見えるグラスを手にすると、中に入っていた水を一気に飲み干す。


「それじゃ、オレ、人集めてくるっす!」


 しかし不良Aは引き止める。


「まぁ待て、B」


「え、何すか」


「朝メシがまだだろう。おごってやるから、何でも好きなものを頼むがいい」


 不良Aが手を挙げて、愛想の無い女性店員が気付いて歩み寄ってくる。


「Aさん!!」


 不良Bは感激したように叫んだ。


 さて、不良たちの背後の席で、不良たちの会話を、豚まんを食いながら聞いていた男が居た。


 周囲から「Dくん」というあだ名で呼ばれている男である。


 彼は不良たちの会話を耳にして、風紀委員に就任したばかりの女の子を何らかの方法で攻撃しようと考えていると結論づけた。


 短髪のツンツンした黒髪で、シャツのボタン開けすぎであったりと、彼も十分不良っぽい格好をしているのだが、彼が不良たちと違うのは更生して元の町に帰ろうとしていることである。というわけで、この掃き溜めの町に着いてから手にした正義心に火がつき、彼は自身が師匠と慕う中華料理屋の女性店員を呼んだ。


 愛想が無いと評判の店員は、早歩きで寄って来ると、首を傾げながら、


「なに、注文?」


「いえ、違います師匠。それよりも師匠、聞きましたか。今の不良たちの会話」


 こくりと頷く店員。


「あれは、あれですよ。襲う気っすよ。新しく風紀委員になった、あの、えっと……」


「紅野明日香」


「そう、それ。その人を」


「でも、それはDに関係あることなの?」


「え、でも、放っておくわけにもいかないじゃないっすか。女の子を大勢で襲おうとしてるんすよ?」


「Dは、それで故郷に帰れなくなってもいいの? また事件を起こしたら、帰れなくなるよ」


「それは……そうっすけど、でも、じゃあオレ、どうしたら……」


「わかった。じゃあ、わたしが何とかするから、Dは余計な手出ししないで」


「すみません、師匠」


 と、その時、別の席から、「おーい、おねえさーん! 注文ー!!」という大声が響いてきた。


「それじゃ、勝手に手出しちゃ、ダメ。わかった?」


「はい、師匠」


 そして女子店員は表情なく頷くと、店員を呼ぶ声に応えようと歩き出した。


 そして数分後、中華料理屋の店員ちゃんはレストラン街のトイレ前にある公衆電話に居た。受話器を耳に押し当て、偽造テレカを使用して、そこから電話を掛けている。


『はい、伊勢崎志夏ですけど』


 電話の相手は、伊勢崎志夏だった。そして中華店員ちゃんは、言う。


「紅野明日香さんをお願いします」


『紅野さん? ちょっと待っててね』


 すると公衆電話の受話器からは軽快なメロディが流れ始めた。





 雨が降り始めた。しかし、六月らしい雨とは言えないような、台風のごとき暴風雨だった。


 紅野明日香は窓の外を眺めながらバナナを食っていた。いわゆる休憩中というやつである。掃除および荷物整理の合間のバナナ休憩というわけだ。


 スコールのような豪雨は風に乗ってベランダや窓を叩き、暴風雨のビュゥゥンというような音が響く。おまけにゴロゴロと雷まで鳴り響き始めた。


「うあ、やばぁ……」


 明日香は食べ終わったバナナの皮を持ったまま、廊下へと歩を進めた。できるだけ窓から遠ざかりたかったからだ。


 紅野明日香は雷が苦手だった。幼少期、既に亡き祖母の知り合いに雷に打たれて死んだ人が居るという話を何度も聞かされたからだ。少なくとも、明日香自身はそれが原因だと思っている。だが原因がわかったからといって、すぐに解決できるわけではないのが幼少期のトラウマというやつで、明日香はゴロゴロピシャンと鳴り響くたびに悲鳴を上げながら何かにしがみついてしまう癖があった。


 この時も、その癖が顔を出したのだった。


 それは、同時にやってきた。


 ノックなしで開かれた背後のドアと、激しいゴロゴロピシャン。


 明日香は小さな悲鳴を上げながらバナナの皮を放り投げ、電話の子機を持ってやって来た志夏に抱きついた。


「何してるの、紅野さん」


 温度の低い声が明日香の耳元で放たれるが、明日香はただ強く目を閉じつつ、志夏に抱きつきながら雷の恐怖に耐えていた。


 志夏の背中に腕を回して強くハグする明日香は志夏の動きを奪っていたが、やがて自分のおかしな行動に気付いて、はっとした表情。そして離れる。


「ご、ごめん志夏。雷が、こわくて」


「そう。意外ね」


「ところでさ、雨降ってるけど、私の洗濯物、大丈夫なの?」


「あぁ、それは大丈夫よ。だって私は神だから」


 すると明日香は、「はいはい、そうですか」と言った。もうマトモに取り合う気も失せて露骨にバカにした態度だった。しかし、志夏は呆れてみせる明日香の態度を気にすることなく、「それよりも紅野さんに電話入ってるわよ」と言って、明日香に子機を手渡した。


 ――あれ、でもこの寮には乾燥機が無いのに、どうやって乾かしているのか謎だな。もしかしたら男子寮の方にあるのかも。って、待って。そんなことよりも電話が来たって方が重要だ。


「え? 電話って誰から?」


「さぁ。若い女の人だったけれど」


「へぇ、誰だろ」


「じゃあ、電話終わったら寮長室に持ってきてね」


 志夏はそう言い残して扉を閉めた。


 明日香は白い子機を見つめつつ、女の人とは誰だろうかと首を傾げる。前の学校に居た時の知り合い以外に、心当たりが無かった。上井草まつりや笠原みどりなら、志夏は「女の人」などという言い方をしないだろうし。


 とりあえず、受話器を受け取り、『保留』と書かれたボタンを押してみる。通話した。


「はいもしもし、紅野です」


 すると電話は、数秒の沈黙の後、いきなり、こんな言葉を伝えてきた。


『外に出ないで』


 意味がわからなかった。


「はい?」


『今日は、絶対に、外に出てはダメ』


「いや、えっと、誰?」


 しかし電話の主は質問に答えず、


『外に出たら、ひどいことをされる。寮なら大丈夫。そこは安全』


「どういうこと?」


 何から何まで、わからなかった。


『絶対に、ダメ』


 相手がそう言い残して、通話は終了した。


 電話後に雷の音が鳴り響いたが、それどころではない明日香は癖である悲鳴を上げることはなかった。それほどまでに不審な電話だったのである。


 それはそうだろう。いきなり電話を掛けてきた名乗りもしない知らない誰かから、「外に出るな、絶対」なんて言われて、一方的に切られたのだから。


 一体誰だったんだろうかと考える。


 ――もしかして、ストーカーみたいなものかもしれない。思えば、前の町に居た時からも誰かに監視されてるような感覚があったし、私の勘はあまり当たらないけれど、これは勘とかじゃなくて、感覚の話だ。もしも私の感覚が的外れで、誰からも監視されていなくて、単なる被害妄想だったら、それが一番喜ばしいんだけど、こうして変な電話が来てしまった。この電話の主は誰だったんだろうか。自分の感覚を信じた上で推測するならば、色んな可能性が考えられる。


 ――この町に来てから出会った誰かに嫌がらせされるとしたら、思い当たる節が無いでもない。たとえば上井草まつりを失脚させたのが自分の風紀委員就任だと考えることもできるわけで、まつりがそれに恨みを持ってイタ電してきた可能性がある。そして、笠原みどりが言っていた、風紀委員は危険だっていう話も気になるところだ。


 ――でも、この間まで住んでた町でも同様の嫌な気配、見られてる感じがすることが多々あったことを考えると、やっぱりストーカー、もしくはストーカー集団の可能性の方があると思う。まつりの声じゃなかったし、まつりは明らかに不良だけどそんなことするような子じゃないと感じるし、いじめられっ子の笠原みどりや伊勢崎志夏も、もちろんそう。


 ストーカー。その存在を意識した途端に、粘つくような視線が自分を見ている気がして、明日香は圧迫感で苦しくなる。そしてもう、雷に恐怖している場合でもなかった。ストーカーの方がこわい。このところ風紀委員になってしまって、思考がそっちにばかり引っ張られ、嫌な視線について考える余裕が無かったこともあって、ほとんど気にしていなかったのだが、この電話をきっかけにまた嫌な視線を感じるようになってしまった。


 自分をつけ回して監視して、怪しい電話までしてくるのは誰なのか。本当に女なのか、女の声だったけど実は男なのか。何もかもがわからなくて、おそろしかった。


 そして明日香は決意する。


 ――相手が「外に出るな」と言うのなら、何が何でも外に出てやる。


 彼女の反抗的なところが顔を出した。


 明日香は服を着替えることにした。いくら緊急時だからといって、お世辞にも普通の域に達してるとも言いがたいダサい部屋着のまま外に出るわけにはいかないと思ったからだ。かといって、明日香の持ってきた服は今、志夏の手の中にある。仕方なく、明日香は制服に手を伸ばした。


 そして制服に着替えた明日香は志夏に電話の子機を返すことすら忘れ、ダンボールから外履きを取り出して窓を開けて外に出た。


 いつの間にか雨が止んでいて、ただ強い風が明日香の前髪を上に弾き飛ばそうとしていた。


 チャンスだと思った。またいつ雨が降り出すかわからない。そうなれば、脱出のリスクは高まっていく。


 大きな窓を閉め、べランダから身を乗り出し、十二メートルほど下にある地上を確認する。何とかいけそうだと考える。錆びた鉄柵を乗り越えて、強度に不安のある地面まで縦に伸びる雨に濡れて滑るプラスチック雨樋にしっかりとしがみつきながら、慎重にそれを伝って降りていく。残り二メートルくらいのところで手足を滑らせて自由落下し、危ない思いをしたが、しっかりとぬかるみに着地を決めた。


 明日香は自分で家出スキルはプロになれるレベルだと思っているくらいだから、雨の後という悪条件であっても、それくらいは何とかこなす。


 水をゴポゴポと排水する雨樋の終点と、その下の水たまりを一瞥(いちべつ)した後、走り出した。


 部屋を脱走した。電話で言われたことに逆らえば、嫌な視線を感じることもないと思ったからだ。


 事実、部屋を出た途端に、その嫌な視線は消えたような気がした。


 稲妻が光る。また雨が降り始める。




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