穂高緒里絵の章_4-2
珍しく風が吹いていない町。
雨の中、歩いて、歩いて……と、坂の途中で、見覚えのある制服姿を見つけた。
風車並木の草原。
その中の一基の風車の下に座り込んでいる小さな女の子。
「おりえ……?」
だんだんと激しくなってきた雨の中、傘も差さずに……膝を抱えて、体育座り。
俺は早歩きで歩み寄る。
おりえは、俺の接近に気付いたようで一瞬、俺の方に目だけで視線を送った後、また何事もなかったかのように前方に目を向けた。
何だか、俺の存在なんて興味ないみたいで腹立たしいな。よし、ここは、さっき購入したプラスチックゴキ○リの実力を試す時だ!
――行けッ、ピージー! お前の実力を見せてやれ!
俺は、ポケットからピージーを取り出し親指にセット。そして弾いて射出した。
プラスチックゴキ○リ……略してピージー……は、一旦小雨降る中を生き生きと舞い上がり、そして直後――
ぽとり
おりえの肩の上に奇跡の着地を果たした。
「うにゅ?」
おりえは、肩に何かが乗ったことに気付き、それを掴んで、目の前に持って来た。さらにそれを、もう片方の手に乗せる。
手の平に載った、黒いピージー。
「…………」
「…………」
無言。
さぁ、どんな反応をするんだ。どんなレアな表情を見せてくれる!
「たつにゃん。オモチャ落ちたよ」
「!」
何だとぅ!
何故オモチャだとバレた?
そして、何故それが俺の持ち物だとバレたっ!
「な、何のことかな……」
「たつにゃん、最低だねっ」
いかん。何とか誤魔化さなければ!
「そ、そんなことよりもな、おりえ」
「何だにゃん」
簡単に誤魔化せた。
単純なおりえが大好きだ。
「ところで、何してんだ。こんなトコで。風邪引くぞ」
俺は、おりえに傘を手渡した。
「おー、ありがとぅ」
笑いながら傘を受け取る。
だが質問に答えろよ。
そして、俺が濡れるのを少しは気にしてくれ。
「何してるにゃあ?」と俺。
おりえ用の言語を使用してみた。
「にゃあにゃあうにゃにゃぁ」
わからねぇ……。
「日本語で頼む」
「ボーっとしてた」
「そうか。楽しいか?」
「全然にゃ」
「だろうな」
「あたしね」
「うん?」
「好きだったよ……」
「何がだ」
「昨日、帰っちゃった、Dくんのこと」
「んなことはわかってる。それで、ここで気持ちの整理でもしてたのか?」
「しようとしてた」
「できなかったのか」
「わかってたことなんだよ。いずれ帰ってしまうこと。あたしが好きでいることが、迷惑だってこと」
そんなわけ……そんなわけねぇだろ。
ありえないだろ、「好き」が迷惑だなんて。ストーカーしてたんなら話は別だが。
「そういや、おりえ、言い忘れてたがな、Dくんな、手紙受け取って、『ありがとう』って言ってたぞ」
「……何で今さら、そんなこと伝えるの。たつにゃんうざいよ」
いや、喜んで欲しくて言ったんだけどな。
うざいと言われた後の無言空間。
だけど、それほど心地悪くはなかった。相手がおりえだからだろうか。
頭上では、メンテナンス不足の風車が回転する音が響いている。
「隣、座る?」
「ん? おう」
俺は返事して、おりえの横に座る。
小さな一つの傘に二人で入る。
雨が傘を叩く中。二人で、海の方を見ていた。
もっとも、海なんてほとんど見えなくて、崖の隙間から少しだけ見えているだけだ。
周囲を山に囲まれたこの町の風景は、それなりの開放感はあるものの、見晴らしが悪くて閉塞的だ。地平線や水平線の類は見えない。
アスファルトが敷かれ、白い家が並び、坂が多い。
一見都会的に見えながらも都会でなく、寂れた商店街があり、道路標示はかすれて読めなくなり、標識も色あせている。
しかも、町の住人の半数以上が過去に何らかの過ちを犯しているらしい。
ある意味、廃墟になってるようなこの町は、それでもそんな風には見えなくて、綺麗だった。
この町は生きている。そう思えるくらいに。
「たつにゃん」
「何だ」
「どうしようか、これから」
「他に、好きな人は居ないんだったよな」
「うん」
おりえはこくりと頷いた。
「どう、するかなぁ……」
本当に、何の方法も思いつかない。
「その辺の男の人捕まえて、結婚の約束でもしようかにゃ」
「おい。俺はその辺の男以下なのか」
何か、イラっとした。
「だって、たつにゃんはあたしと結婚したくないんでしょ?」
「それは、そうだが。だが、その辺の男が相手じゃ俺が納得しねぇぞ。お前と一緒になるのは普通で立派なヤツじゃないと」
「普通って何? 立派って何?」
「要するに、おりえを幸せにしてくれる相手ってことだ」
「幸せかどうかは、あたしが決めるよ?」
「いや、外から見て幸せだと思われることが幸せなんだよ」
「ちがうよ」
「違うくないんだよ。お前一人で生きてるわけじゃないだろ。華江さんだっているし、弟だって居るんだろ。たとえば、あまり考えたくもない極端な話だが、もしも殺人事件を起してしまった人とお前が結婚したとしよう」
「極端だよ」
「黙って聞けぃ」
「うみゅぅ……」
不満そうに頬を膨らませた。
「で、だ、そういう犯罪者とお前が結婚した時、お前の親である華江さんにも『犯罪者との縁』ができちまうんだよ。そういうのを世間は嫌がるだろう。そして、人は離れていく。皆、穂高家とは縁を切るぞ」
「でも、その時あたしには罪はないし、おかーさんにも何の罪もないじゃん」
「そりゃそうだが、要するにだな『あの人は普通じゃない人とかなり仲がいい』と思われることにこそ問題があるわけだ。それが、社会が普通さや立派さを求める理由なんだと思う。そして、俺も一応、普通じゃない人との縁を欲しがらない種類の人間だ」
だから、正直に言えば、この悪いことをした人々が集まるような町に来ることになった時、人生の大半は終わったような気分になった。
「だからな、だから俺は、この町からはさっさと帰りたいと思ってたし、この町に居る人間をお前と結婚させたくはないんだよ」
彼女は黙り込んだ。
「おりえ、お前は、この町を出ろ。そして広い世界を見るんだ。都会でも、ここではない田舎でも。当り前のように過去に過ちを犯した人間が居るこの町は……………………」
「この町は……?」
「――異常なんだ」
俺は言った。
きっと、おりえはこの町が好きだと思う。
だから、これは暴言だ。
生まれてからずっとここで生きてきたおりえにとって、あまりにも酷な言葉だっただろう。
周囲におかしな人が居るのも普通のことで、閉塞的で、物資が乏しくて、車すら無いことも、おりえにとっては普通のことだったと思う。
でも、それは都会から来た俺にとっては、普通じゃないことなんだ。
それを知っているのと知らないのでは大きな違いがある。
心はおりえの方が広いのだろうが、見えている世界は俺の方が圧倒的に広い。
おりえは、『普通』を知らない。
ここではない町で生きて行く方法を知らない。ずっと知らないでいたら、この町の外に出ることはできない。
それは、おりえにとっての幸せか。
どうだろう。俺の目からは幸せには見えない。
広い世界を見て欲しい。選択肢を広げて欲しい。選択のできない世界は、平和でも幸福でもない。ある程度自由に選べる権利が無ければ、人は人として生きることはできない。
その環境が、この町には乏しい。
無い、とまでは言わないけれど、限定されすぎる。
おりえが「それでいい」と言っても、俺が「それでいい」とは思えない。「もういい」なんて言わせたくない。
「いつか、この町を出ろ、おりえ」
「……どうして?」
「お前の知らない世界があるんだ。それを見て欲しい。それで、その世界に馴染めないなら、その時は、この町に戻ってくれば良い」
「でも、それじゃあ穂高家はどうなるの?」
「っそ、そうか。その問題があった……」
完全に忘れていた。
そもそも華江さんが、おりえの婿として都合が良いって言って花瓶を割った俺を結婚させようとしていたんだった。
それを解決しなければ、おりえが町の外に出て行くことができない。
だが、誰かと結婚した時、華江さんはおりえが町の外に出て行くのを許さないだろう。
何だかややこしい上に、何一つ上手くいく気がしないぞ……。
「あたしは、別にたつにゃんと結婚しても良いにょ」
何なの、この軽い娘。
「いや……お前……結婚ってのは、そうそう軽くはないんだぞ。わからんか。一生だぞ一生。一生一緒に過ごす相手だぞ」
「でも、離婚できるじゃん」
「離婚のことを考えて結婚なんてするもんじゃないだろ。常識的に考えて」
「でも、芸能人とか、いっぱい離婚してるよ?」
「それは、そうだが……いや、だからといって、気軽に離婚して良いって道理は無いだろ」
「何でぇ?」
「いや、そのくらいわかれよ、頼むから」
「…………結婚って、何?」
「結婚は、結婚だろ」
「どうして結婚なんて制度があるんだろうね」
「そんなことを俺に訊くな」
「何でおかーさんは、結婚結婚ってうるさいのかな。何であたしの自由に恋愛できないのかな。鬼だよ」
ま、おりえの好きなタイプが不良っぽい人だからな。
自由にさせておいたら、結果おりえが辛い思いをしそうで、それが嫌なんだろう。
おりえの婿探しに走ってみて、その気持ちは、何となく……というか……かなり理解できる。
こいつは「愛」とかいうキーワードで自分を正当化しながらマトモじゃない相手を好きになっていくイメージがある。そうするのが本当の「愛」だと思ってる気がする。それは子供の考えだろ、とでも言いたい。
何というか、まぁ、良い子なんだけど、変な子だと思う。
そんなおりえの幸せのために、俺にできることは……もう、無いのだろうか。
もっと時間があればと思う。
結婚が決定するまでの時間が三日ってのが、短すぎるんだ。更にそこに三億円の花瓶を割ったという事実が絡んでくるわけで……俺が三億円を持っていれば良いのだが、あいにくそんな大金、想像もできない。
「鬼だと思わない?」
「華江さんがか?」
「うん」こくりと頷いた。
いや、そこまで言う事でもないと思う。むしろ、おりえのことを想ってくれてる、良い母親だとすら思う。まぁその前に思うのは、
「親を鬼よばわりするのは良くないと思うぞ」
俺はそう言った。
「いや、あれだにゃん。そもそも鬼とゆーものは古代中国では日本で言う鬼とはちょっと違うって友達が言ってたにょ」
「ここは古代中国じゃねぇだろ。それに、古代中国だったら親の悪口言ったら厳罰に処されるぞ」
それこそ生きるか死ぬかだ。
「そうなの?」
「たぶんな」
と、その時――
「緒里絵ねぇちゃーん!」
雨の中、傘も差さずに穂高弟・秀雄が走ってきた。
ただごとでは無い様子で。
「んにゃぁ? どうしたにょ?」
そして、穂高弟は、「はぁ、はぁ……んっ」と息を整え顔を上げながら、言うのだ。
「かぁちゃんが、倒れた」
「えっ?」
「病院に居るんだ。こっち……」
弟の秀雄はおりえの腕を掴み、歩き出そうとする。
おりえは、俺の腕を掴んだ。
秀雄の足が止まる。
「ねぇちゃん……?」
俺は青ざめるおりえに言う。
「一緒に来いってか?」
おりえは無言で深刻そうに、こくりと小さく頷いた。
「よし、行こう、病院ってのはどっちだ!」
「こっちです!」
走り出す、パラパラと降る雨の中を。
傘は置き去りにして、病院まで。