穂高緒里絵の章_3-3
やって来たのは隣の教室。
三年三組。
俺は、教室に入ろうとする男子生徒を捕まえて、訊いた。
「おい、Dって奴、いるか?」
「D? ああ、あいつなら、今日の午後にこの町を出てくらしいぜ。更生が認められてな」
「何だと!」
故郷に帰るということか!
帰られたら困るぞ。
それは、おりえの好きな男で、その男とおりえをくっつけなければ、俺はおりえと結婚させられる可能性が限りなく高いのだ。
「おれとも結構仲よかったからな。寂しくなるぜ」
切なそうに、その男子は言った。
「まだ、この町には居るんだよな。まだ」
「そうだなぁ……予報では風が弱まるのが午後だから、その時を待って出て行くんだそうだ」
午後、今はまだ午前だ。
だったら間に合うかもしれない!
何とか引き止めなくては!
「そうか。ありがとな」
俺は言い残し、廊下を駆け出した。
こうしちゃいられねぇ。
時間が無い。
おりえと会って話をせねば!
もしかしたら、Dという名の男が故郷に帰ってしまうことを知らないでいるかもしれん。
とにかく、おりえに会いに行かなくては!
俺は階段を駆け下り、三階にある二年A組の教室の前に立った。
そして、迷いなく目の前の『二年A組』の扉を開く。
すると、謎の光景があった。
「うりうりー」
「ふぉおぉ、痛いにゃん……」
おりえは、背の高い女子に両側の頬を引っ張られて痛がっていた。
何してんだ、こいつら。
「ふはは」
女は笑いながら手を放すと、俺の視線に気付いた。
「ん? 何見てんだよコラァ」
顔をしかめて不良口調全開だった。
こいつは確か、転校初日に俺を撥ね飛ばした風紀委員の女だ。
確か、上井草まつりとかいったか。
「お前に用は無い。おりえに用事なんだ」
「あっそ。あ、そうだ。キミ、昨日サボったでしょ。ちゃんと学校に来ないと永久に故郷に帰れないわよ?」
まともなことを言ってきた。そういや志夏にも同じようなことを言われたなぁ。
だが、このままだと穂高家に婿入りさせられて、そうなった場合も二度と故郷の土を踏ませてもらえない気がする。なので、むしろ今やらなければならないのは、結婚回避のための努力。そうだろう。そのためにすべきことは、おりえと、Dと呼ばれる男をくっつけること!
今日故郷に帰ってしまうDを引き止めて結婚の約束をさせなければならない!
「おりえ」
俺は、上井草まつりを無視しておりえに話しかけた。
「たつにゃん。何か用?」
まつりに引っ張られていた両の頬を痛そうにおさえながら、返事をするおりえ。
「あら、知り合いなの?」とまつり。
「ああ、ちょっと、な」
俺が言って、
「うん、ちょっとね……」
おりえも呟いた。
まつりは特に気にすることもないサバサバした様子で、
「そう。あ。あたしは教室に戻るからね。カオリ。何か用事があったらまた呼んで。あと、その男に変なことされたりしたらあたしに言うのよ」
「人聞きの悪いことを言うな。何もしねぇぞ」
「どうだか」
「信用しろ」
「転校初日に遅刻して二日目にサボるような輩を信用しろなんて、よく言えるわね」
くっ、耳が痛いぜ。
「カオリに寒いギャグとか仕込んだら殺すわよ」
「物騒なことを言うな」
この町の人間は、どいつもこいつも殺伐としたことを言うよな。
そういう土地柄なのだろうか。
「じゃあね」
まつりは言って、二年A組の教室を出て行った。
残されたおりえと俺は、二人で話す。
「それで、たつにゃん? 何か用にゃん?」
「そうにゃん」
ちょっと待て。なんかこの会話、バカップルみたいじゃねぇか。
ついついおりえのふにゃふにゃ会話術に引っ張られてしまっているぞ。
このままではいけないっ。
にゃんとか言わにゃいように注意しにゃくては。
よし、気を取り直して、すぐに本題に入ろう。
「簡単に言うとな。俺はお前の手助けをしたい」
「手助け?」
「そうだ。お前の恋を全力で応援スペシャルだ」
おりえはなぜか俯いた。
「好きな人いるんだろ。『D』とかいう男……」
「誰に聞いたの?」
おりえらしからぬ冷たい声。
いつものムニャムニャボイスとは違った剣呑な。一瞬、背後に虎が見えた気がしたぞ。
研ぎ澄まされたワイルドキャットオーラの封印が解かれかけた!
ここは、もっともらしい理由を語ろう。みどりから聞いたなんて言うわけにはいかないからな。
「ほら、好きな人がいないのに、三日以内に連れて来るなんて自信満々に言ったりしないだろう。だから好きな人が居ると判断したわけだ」
半分本当だが、俺が『D』という存在を知っていることの理由にはならないだろう。
だが、おりえ相手なら、こう言えば十分なのではないだろうか。
細かい事なんて考えたがらないだろうからな。
「……まぁいいにゃん」
予想通りだった。しかし次の瞬間には予想外のことを言ってきた。
「好きな人ね。居たよ。でも、もういいの」
まさか、この状況で「もういい」なんて言葉を、おりえが言うとは思わなかった。
「は? 何言って――」
「帰るんだって。今日、故郷に」
らしいな。
さっき三年三組の教室でもそう言ってた。
だが、だが、
「じゃあ、チャンスは今日しかないだろうが。まだ船は出てないだろ。行って気持ちを伝えて引き止めるんだ」
「嫌」
「なっ、何だとぅ……」
「もう好きじゃなくなった」
「何なんだ。フラれたのか?」
おりえはふるふると首を横に振った。
「好きじゃなかったの。最初から、好きだなんて感情は無かったの。そういうことになったの」
「ええい、何だその奥歯にモノが挟まったような物言いは! 好きなら気持ちを伝えろ! それで成就する可能性が生まれるだろうが」
「うにゅー。たつにゃん、うるさい!」
「うるさいじゃねぇよ! お前が三日以内に婚約してくれないと、俺が困るんだ!」
おりえは俯き、無言を返す。
「会うのが嫌なら俺が手紙でも何でも届けてきてやる。伝言でも良い。何でもいい。とにかく気持ちを伝えろ。Dくんには俺が事情を説明してや――」
「もういいって言ってるでしょ!」
「よくねぇ! ほら、手紙を書け!」
俺は懐から可愛い感じのレターセットを取り出し手渡した。
「やだ!」
「じゃあ俺と一緒になるんだぞ。いいのか、それは」
「やだ!」
「俺だって嫌なんだ! 頼むからラヴレターを書いてくれ。想いを伝えて可能性を生め!」
何でコイツは、好きな人に好きだと言うのを嫌がってるんだろうか。何も言わないでいたらそのままDは故郷に帰ってしまうというのに!
「でも、もういいの」
「もういいって何だ! 俺の人生のことを少しは考えたことあるのか! お前と望まない結婚をさせられそうになるこの俺のことを! たいがいに自分勝手な女だと思ってたが、程があるだろうが!」
「うむにゅん……」
おりえは呟き、申し訳無さそうな表情をした。
「会うのがこわいなら、俺が届けてきてやる。手紙を書け。何でも良い。事情は俺が説明してやると言ってるだろ」
「…………手紙なんて、何て書けば良いのかわからにゃい……」
「一言で良い。心から思うことを書け。お前が置かれている境遇とか事情とかは俺が全力で説明してやるから、とにかく気持ちを伝えろ」
「そこまで言うなら、一言だけ……」
おりえはレターセットを受け取ると、ボールペンを握り、近くの席の机でサラサラ書き記す。
『好きでした』
という一言を。
そしてそれを封筒に入れて俺に手渡した。
「あたしからの手紙だって言わないで渡して」
「何でだ」
言うに決まってるだろう。
俺とおりえとの結婚回避が目的なのだから。
「…………」
押し黙ってしまったぞ。
「とにかく、行ってくるからな」
可能なら連れて戻ってくる予定だ。
そして、その時にあらためて好きな気持ちを伝えて、無理矢理にでも結婚の約束をさせようじゃないか。
もう、なりふり構ってはいられないのだ。
何度も言うが、何とかしてDと呼ばれる男を引き止めて、おりえとくっつけるんだ!
俺は二年の教室を出て、Dを探しに駆け出した。