穂高緒里絵の章_2-2
さあショッピングセンターに着いたぞ。
財布の中身は三千円ほどだが、とりあえずは何も買う気はない」
ここは拝観料を払わねばならない寺でもないし、入場料を払わねばならない美術館でもない。見るだけならタダなのだ。
なーに、時間はたっぷりある。
二階建てのショッピングセンターを嫌になるくらいに見て回ってやろうではないか!
俺は決意し、歩き出した。
店内は、色んな店が並んでいる。
一階が食料品等。二階には専門店が多く軒を連ねる。
とりあえず、暇を潰すのに食料品を見て回っていたら腹が減ってしまうので、エスカレーターで二階に上がる。
しばらくボーっと歩くと、曲がり角に突き当たった。
左に曲がると女性用トイレがあり、右に曲がると通路があった。
さぁてどっちに曲がるか。
――って、いやいや、ここは当然、右だろう。
悩むところではないぜ。俺は男性であり、女性ではないのだ。
男、そう男。あまりにも男。
で、右に曲がろうとしたところ、俺の腹の部分にトスン、と何かがぶつかった。
「わひゃぅ」
高い、裏返った声がした。女の子の奇声だった。
後、パリンという音がした。
何かが割れるような音。
下を見ると、女の子が尻餅をついたようで、ぺたりと床に座り込んでいた。
小さい子。
どう見ても、いとけない感じの、なんていうか、まぁ、はっきり言えばロリな子だった。
いや、しかし、あの坂の上にある学校の女子が着てるのと同じような制服を着ているということは、年齢はさほど変わらないのだろうか。
「大丈夫?」俺が訊くと、
「いたぁい」痛がっていた。
「おっと、ごめんな、避けられなかった」
「やはぁ、走ったあたしが悪かった。ぶつかってしまって、ごめんなさいでしたにゃん」
ていうか……にゃんとか語尾につけてる……?
そして女の子は立ち上がりながら、
「うにゃん。あたしの名前。おりえ。穂高緒里絵。おりえって呼んで。あにゃたは?」
名乗って、手の平を差し出しながら俺の名を訊いてきた。
「はぁ、戸部達矢って名前だ」
「トベタツヤ……トベトベタツヤ、トベタツヤ」
何言ってんの、この娘。
「俳句風にしてみたにゃん」
「しなくていい」
「ひょ?」
大丈夫か、この子……。
いや、まぁ、あそこは色んな生徒が集められる学校だからな、こういう少々の頭の軸がグニャグニャガールも存在していても不思議ではないか。
「たつにゃん」
勝手に俺のあだ名を決定したらしい。
「たつにゃんの名前さー、どっかで聞いたことあるって思ったらさー、昨日の朝、校内放送で呼び出しされてたにゃん?」
にゃん……って……。
「ああ、そうだな」
「つまり、あの学校に通ってるにゃん?」
とりあえず、そのにゃんにゃん口調を何とかしろ。
「そうだにゃん」
――って、何で俺もノリノリで返してんだ……。
「にゃんにゃん?」
いや、そんな風に首を傾げられても、俺は猫語を解する人間ではないのだ。
これ以上にゃんにゃん会話を続けていたら、この女の世界観に引きずり込まれる。それはまずい。それだけは避けなければならない。
いやしかしまぁ、そんなことよりも、先刻響いたパリンって音についてなんだが……。
「あー、おりえ……とか言ったっけ?」
「うむにゅん」
頷きながら言う。肯定の意だろうか。
とりあえず日本語しゃべれ、と思う。
「おりえ、質問だがな……その花瓶……割れてるんだが」
俺は、おりえの奥で割れている花瓶の破片を指差す。
振り返り、それを目にしたおりえは、
「はにゃぁぁぁぁああん!」
叫んだ。
ていうか気付いてなかったのか。花瓶が割れた時、けっこうすごい音したのに。
「高価な花瓶がぁ!」
何だと。高価と言ったか。そいつはまずいんじゃないのか。
「い、いくらだ? 俺にもいくらかの責任があるから、できる限り弁償してやりたいが」
「三千――」
ほう、俺の財布の中身を見事に読んできたようだな。三千円とは、俺の財布に入っている全財産だぜ。
「――万円」
「!?」
「三千万円」
まて。何て言った?
まて、まてまてまて。えっと、記憶を必死に掘り起こすぞ。今、目の前のロリ少女は「三千」と言った。直後に「万円」と言った。ということはつまり、「三千万円」って言ったよな。
えっと、それって、もしかして、にわかには信じがたいことだが、一万円札が三千枚必要になるという意味ではないか?
そんなの、返済に何年かかると思ってる!
俺は目を逸らしながら言う。
「や、やっぱ俺に責任ないよな。ぶつかってきたのそっちだし」
「にゃぁ……」
猫のように鳴いた。なんかとても胸がズキッとした。
「あの、おりえ。どういう事情でそんな花瓶を運んでたんだ」
「家のお手伝い」
「家?」
「お花屋さんをやってるの。この町の商店街の」
「いや、ますますわからないぞ。商店街の花屋の娘が何でショッピングセンターで三千万の花瓶持って走ってるんだ?」
「このショッピングセンターに、二号店をオープンさせることになって、二階の特設会場で記念のお花展示会をしてて。花のついでに町の大事なものとかも出してて」
「ほうほう」
「それが、今日終わって、花瓶を家に持ち帰っておけって、おかーさんに言われて、それで」
「そ、それは不運だったな、それじゃあ、俺はこれで」
俺は棒読みでそう言うと、踵を返そうとした。
「待つにゃん」
腕を掴まれた。ガシッと。
「あ、あの……放してくれないかな……」
「たつにゃん、一緒に、逃げよう」
「何てことを言ってんの! つーか何で俺共犯者みたいになってんの!」
「だって、ぶつかってきたにゃん」
「ぶつかって来たのはお前だ!」
いやまて、声を荒げてしまっては事態を混乱させるばかりだ。ここはいっちょ冷静に。
「俺は……俺は何も悪くないはずだが!」
「責任とってよ!」
何て言葉を。
いや、まて。冷静に、あくまで冷静に考えてみろ。よく思い出すんだ。
俺に責任があるか否か。
まず、俺は歩いていた。通路の真ん中らへんを。そして、曲がり角をどちらに曲がるか考えていて、左に曲がると女子トイレだっていうんで、右に曲がろうとしたんだ。
まぁ当然だよな。
男なのに正当な理由なく女子トイレ入ったら痴漢と見なされて連行されるものな。
で、曲がり角をとてててっと花瓶持って走ってきた小さい女がいて、そいつが曲がり角の向こうからフラフラと突進してきて俺にぶつかって、こけて、花瓶が割れた。曲がり角の向こうは男子トイレではあったが、たぶんスタッフオンリーの扉とかがあったり、別の場所へと続く通路があったりしたんだろう。おりえは胸は平たくてロリロリだが、どう見ても男ではないから。
さて、花瓶の話に戻るが、その花瓶は三千万円相当の価値があるものなんだそうな。
信じられない話である。
と、その時、俺はある可能性に行き着いた。
あれ、まてよ。なんかこれ、あれじゃないだろうか。
詐欺とか、当たり屋的な、アコギな商売の被害に遭おうとしてないか?
こんな虫も殺せないような、かわいこちゃんな容姿をしているが、実は詐欺師だった……みたいな可能性もある。
「にゃあ……」
ほら、猫のようにニャアと鳴いたぞ!
猫といえば、いたいけな虫などを捕食する獰猛な動物だ。可愛らしい容姿とは裏腹に、野生の厳しさを捨てきれないでいるようなやつだぞ。彼女もハンターの血を引いているのではないか。
そして獲物は俺。
今まさに、そのツメで、その牙で、捕食されようとしている!
よく見ると、おりえはポケーっと開けた口から八重歯を煌めかせている。
俺を、トる気だ。
生きたまま貪るつもりだ。
そうに違いない。
「ま、まず、大人を呼ぼうじゃないか。話はそれからだ」
俺は焦って言う。
「ダメだよ、そんなことしたら、たつにゃんのせいになっちゃう」
いやまて。何故そうなる。
「いいか、おりえ。お前のせいで割れてしまったものは仕方ない。ちゃんと持ち主に頭を下げるんだ。わかるな?」
「とりあえず、責任は、半分くらい、たつにゃんにあると思う」
ありえねぇだろ、まてよ、まてよ……どうしたらいい……。
このままでは言いがかりをつけられて、最悪の場合、三千万円の借金を背負うことになってしまう可能性がある!
良くても一千万くらいは払わされる!
そんなのってアリか?
俺の人生どうなっちまうんだ?
一体何なんだこの状況は!
俺は学校をサボってショッピングセンターに来ただけなんだぞ。
何でこんな変な女に捕まって言い掛かりをつけられなきゃならんのだ!
「頼む。知能があるなら考えてくれ。俺のどこに責任があるというのか!」
「ん?」
首を傾げられたぞ。
「ところで、たつにゃん――」
「話題をそらすなよぉ!」
「今日、学校あるよね? 何で、こんな所に居るにゃん? サボりにゃん?」
「あ、ああ、そうだが……」
「不良ぉー」
指をさされた。
「いやお前、そんなことよりもだな、割ってしまった花瓶のことを話し合おう」
「だから、誰かに見つかる前に、一緒に逃げようって言ってるにょ?」
「そりゃ、おりえには逃げる理由があるが、俺には逃げる理由は無いんだぞ! 何度言ったらわかる!」
「?」
「いや、首傾げるな。言ってる事わかってるはずだろ」
と、その時だった。
「あ、緒里絵ねぇちゃん」
「やばっ、ほら、たつにゃんがグズグズしてるから、見つかっちゃった」
今、曲がり角の向こうから現れた少年は「緒里絵ねぇちゃん」って言ったな。ということは、おりえの弟か。
「こんな所で何してるの――って……あのさ……ねぇちゃん……これ……町の重要文化財の花瓶だよね? あられもない姿になってるけど……」
「やははー、わっちった」
わっちった、じゃねぇよ。
「ど、どうするんだよ。こんな高価なものを割ってしまって……」
すると、おりえは弟の問いに答えもせず、
「とりあえず、あとは任せたにゃん!」
言って、駆け出した。
まさかいきなり走るとは思っていなかった俺は、おりえを捕まえることもできずに、うっかりその場に残される。
「ちょっ、ちょっと待て! 俺はどうすればいいんだ!」
「あの……少し、事情を聞かせてもらえますか?」
おりえの弟らしき少年は、俺の腕をギュッと掴んでいた。
「お、俺は悪くないぞ! 俺は、何もっ――」
「悪い人は決まってそう言うって相場が決まっています!」
「違う、違うんだって! この花瓶は、俺が割ったんじゃなくて、おりえとぶつかった時にだな、割れてしまったものなんだ! 俺が歩いているところに、おりえが突進して来てだな、それで割れたというわけだ!」
穂高弟は、俺の腕を更にギュッと掴んだ。
「では、あなたにも責任があるということです」
何でそうなる!
「俺は、ただ歩いてただけだぞ! 悪意は無かった! 微塵も!」
「見たところ、学生のようですね。今日は学校があるはず。サボってこんな所に居たのは悪です。ここに居なければ、ぶつかる事もなく花瓶は割れなかった。違いますか?」
「ちがっ、わないけど……」
「では、ご同行願います」
弟くんは刑事みたいなことを言いながら、俺を引っ張っていく。
「ど、どこに連れて行く気だ! まさか牢屋とかじゃねえだろうな!」
「入りたいなら用意しますけど、とりあえず、母の所で裁きをもらわないと」
裁きって……。
「痛いこととか、されないよな……」
「さぁ」
――逃げてぇ。
心の底から、そう思った。